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なるほど。。今死にたいと思うあなたへ、生命を経つ前の贈り物

この記事にたどりついて頂き、ありがとうございます。
そしてこの文章を読もうと思っていただき心から感謝申し上げます。

率直に今「死にたい」「生命を断ちたい」そう思っているとご察します。

私もその一人です。気を抜いたら全てが崩れそうなやりきれない思いが渦巻いています。

一言だけ共有させてください!

「とても責任感が強く、自分の人生に責任を持っていただき
本当にありがとうございます。。」

正直周りを見渡すと最近は、責任感が強い人が少なくなってきているように感じます。

かつて日本には武士が切腹を行ったり、戦争のための特攻隊など自らの意思で生命を断つ文化がありました。

そうした歴史的背景からも日本人の自殺率が他国に比べ、際立っているのではないでしょうか。

どれも責任感が強く、自らの命を以って場を納める。
シンプルに潔くてかっこいいですよね。。

ただ、だからといって死んで良いと言う単純なことではなく、
少しでも今の感情を分解し、けじめをつける方法の矛先を変化させて行ければなと思います。

読者の方々の責任感の強さを後世にも残す事ができないかと感じています。

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■責任感とその効用

「結局のところ、死にたいと思うのは責任感が強いから」

責任とはどう言うものなのか。

元をたどればラテン語のrespondereレスポンデレ(答える、返答・応答する、英語ならばrespond)に由来しており、ローマ時代の法廷における弁明・応答として用いられた。また東洋の歴史から見ても、「責任」という漢語は中国では遅くとも明の頃には成立していて日本での用例は室町時代から確認できたそうだ。

要するに「責任」と言う概念は昔から存在し、極論文字ができる前から人々の心や意識の中に自然と備わっていた目に見えないものだと言える。

では、この責任と言う意識が強いと、なぜ死をも覚悟するのか。

つまるところ、自分を攻め立て分子レベルでこの3次元の世界から抹消しようと感じるからではないだろうか。

もう少し噛み砕いて行くと、我々が今生きている物質世界(3次元)では概ねの情報は物質から送られ、自らの肉体と言う物質を経て受信を行い呼応する。

と言うことは、「けじめを付ける=物質(肉体)と意識を区別する」と言える。

ここではあまりスピリチュアルな表現は多用したくないが、死をもって精神世界に帰依することを意味すると考える事ができる。
(帰依:拠り所にするという意味。)

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■目に見えないものが価値がる理由

そもそも人間の外部から受ける情報の99%は視覚からの情報と言われている。
小学校の理科の授業で、人には大きく5つの感覚があり「視覚、聴覚、触覚、嗅覚、味覚」と習い、それらは全て頭部に存在する。(触覚に関しては全身に存在するが。。)

これら人間が外部から情報を得るには概ねこの5つの感覚が相互的に関与している。

だがここで1つ疑問に思うのが、人は5つも情報を読み解く感覚を持ち合わせているのに、そのうちの99%が視覚からの情報とはなんだか偏りすぎではないだろうか。。

漢字で例えるなら、「承るうけたまわる)」と言う漢字が一文字で5文字分承っているぐらい違和感を感じる。。

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■視覚からの情報に頼りすぎな人間の現実

言うまでも無く人間は視覚から物事を判断する。
「人は見た目ではない」と言われている時点で多くの人が見た目で判断していると言うことだ。
第一印象はわずか出会って3秒で脳裏に焼きついてしまうくらい、人は視覚に支配され、かつ信頼を寄せているのだ。

ただそうなると、今後の世界は容姿端麗で見た目がいいもので溢れていることが容易に想像がつく。
確かに現代には多くの物が清潔感があり造形美の富んだものが多い。お店の作りもアーティスティックな場所が多く、古く汚いものは淘汰されている。

だが、ここで疑問を投げかけたい。目に見えるもがそこまで大切だろうか。。確かに我々がこの地球という3次元の中で生きる上では物質至上主義になる気持ちはわかる。物を多くもっている者が豊かであると言うことだ。

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■目に見えにものに感覚を研ぎ澄ます

話が若干逸れてしまったが、結局のところ人間は視覚からの情報をもとにして精神感覚にアクセスしてしまう。

これが悩みが生まれる元であり、理想と現実の乖離を生んでしまう。

例えば、オリンピックで金メダルを取りたいと思い、その夢を想像する。
その時に真っ先に行ってしまうのは頭の中で自らが金メダルをとり表彰台煮たってスピーチをしている姿であろう。

このイメージは完全に視覚情報からの粒度に偏りすぎている。

確かに鮮明なイメージは明確な目標を作り人々を動かす力を持つ。
しかし、これら視覚的情報からのイメージが結局のところ精神に影響を及ぼし、形の全く異なる情報同士が無理やり突合される印象だ。

つまり、3次元的視覚情報が目に見えない精神的感覚世界に干渉をするから摩擦が生まれ、苦しくなり溜まり溜まって、”死”をもって分離したくなるのだ。

そこで必要になってくるのが、コーチングだと考える。

最近書籍やメディアなどでよく耳にするようになったが、このコーチングはこの視覚からの情報と精神感覚の変換に非常に役に立つ。

長くなってしまったので。。。。

コーチングについては次回の記事で記載できればと思います。

最後まで読んでいただき本当にありがとうございます。
また次回もぜひ読んで見てください。



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