ゴミ収集家と猫

私は死んでいる。”死んだ”というほうがタイムリーかもしれない。

「死人が文章を書けるわけない」

ごもっともである。

私は死んでいるかもしれないし、生きているかもしれない。

そう。

シュレディンガーの猫ならぬ、シュレディンガーの男だ。


ともあれ、これを読んでいる貴方が”観測”するまで、”死んだ私”と”生きている私”が存在することになる。


当然だが、世界のメモリには限界がある。(宇宙は広がり続けているというのに。。。!)

誰にも”観測”されなくなったメモリは順次開放され、他の事象に回されていく。

そうやって世界はなんとか回っている。


なのにだ。

私はメモリを開放するどころか増やしてしまったのだ。

これは世界にとって、とても”おおごと”である。


#1

あの男がいなくなって3日目。

私はあのどうしようもない男よりも、男の飼っていた猫を心配している。

尻尾がまっすぐで、3歳の茶トラ猫。

私が男の家に行くたび、


続く