教員になった元いじめ被害者の話
中学3年生の時,それは突然始まった。
それまで笑って話していた同級生が,当時通学していた学校の職員の暴力と恫喝で生徒を押さえつけるやり方に我慢出来なくなり,一斉に暴力による反撃に出た。それを境に不良化した彼らは校内の自分より弱い人々をいじめ始めた。
自分もその中の一人であり,急な人間の変わりぶりに困惑することしかできず,しかも相手は暴力と人数を盾に多勢に無勢な状況で襲い掛かってくる。前述の通り彼らにやられた職員はそんな蛮行を見て見ぬふり。挙句の果てには目の前で蹴られているのに「やり過ぎんなよ!」と一言言って去っていく始末。
この時点で職員への信用はゼロ。学校という存在が自分の中で忌々しいものへと変わった。一時精神的な不調をきたし欠席したことはあったものの,親もまともに取り合ってくれず,とにかくとっとと高校に進学することだけを考えて中学を卒業した。今でもその時の関係者は全員地獄に堕ちろと思っている。
高校進学後,転機が訪れた。学校というものになんの期待もしていなかったのだが,そこで出会った恩師と仲間が本当に人生を変える存在となった。誰も自分に暴言暴力を振るわず優しく接してくれ,教員も親身に話を聞いてくれる。こんな空間が自分の人生の中にまだ残されていたのかと,暗闇から解放された気分だった。
ここでの三年間は本当に楽しく,今でも付き合いのある同級生が何人もいて,一時は本気でプロを目指して音楽活動を共にした仲間もいた。そんな恵まれた環境で過ごす内に,自分でも考えられない変化が起きた。
「ここで自分が経験した喜びを,教員になって教え子にも伝えたい」
あれだけ学校が嫌いだった自分が教員を目指す。そう思わせるだけの希望と温もりがそこにはあった。当時IT系の仕事にも興味があったので,教員免許を取得出来る工学系の大学に行きたいと考えるようになり,志望校は入学後初めての夏休み前には決まっていた。結果として第一志望の国立大には入学出来なかったが,志望校のうちの一つになんとか合格した。
しかし早速試練が訪れた。興味のあったIT系の仕事に通ずる授業が壊滅的に自分には理解出来なかった。なんとか友人の力を借りて課題をこなすものの,大学の授業レベルでこれではとても実戦で使い物にならない。
そう考えた瞬間,ここで学んだことを自分が教員になった時に授業で紹介して,より生徒の学びの満足度を高められる存在になろうと決心した。
かくして,教員免許取得が卒業要件になんの影響もない理系大学で教員になるための努力をする日々が始まった。コマの組み方次第では週三日の通学で卒業要件を満たす授業を受けられてしまう場所で,教職科目は毎日昼間の最終時間に開講された。
また,単純に必修科目に教職科目がプラスされた分だけ試験を突破しなければならないため,周りが余裕で遊んでいる中,試験期間の一ヶ月前から図書館にこもって対策の勉強を始めるという生活を繰り返すこととなった。
その甲斐あって何とか一つも単位を落とすことなく卒業見込みとなったが,四回生の時に受けた採用選考は不合格。臨時採用の講師として教員生活が始まった。
初めて赴任した学校は,かなり良い生徒集団(どこでもそうだが変なのは一定数いる)だった。だが教員は玉石混交で,今でも尊敬している方と,今でも恨んでいる輩がひしめき合っていた。特に忘れないのは,赴任一年目の最初の教科ごとの会議で,「講師には採用選考終了まで大きな負担となる業務はさせない」と言ってくださったのにも関わらず,指導役としてペアを組んでいた職員が長期研修に出ることとなり,「代わりにテスト作って!」とさも当たり前に言われたことだった。
流石にえ!?となったが,「俺らはプロとして金もらってんだからよ,教諭とか講師とか関係ねぇから。あと,別にあなたに受かってほしいと思ってない」と続けられた。あ,学校ってこういう世界なのか…と,一年目にして絶望感を味わわされた。周りの職員も可哀想だの何であなたがやってるんだだのと言いはしたものの,そのことを覆してくれる人は誰もおらず,結局採用選考一週間前のギリギリまでかかってテストを自分が作った。それでも意地で一次選考は突破したが,二次選考はグループディスカッションで当時問題になっていたゆとり教育を全否定したことが響いたのか(というかそれ以外に変なことは言っていない)撃沈。講師二年目が確定したのだった。その職場ではサボりまくりの生徒の評価の付け方で理不尽にキレられたり,飲み会では注ぎに行かずに食べていたらマジギレされたりと,学校の汚い部分をこれでもかと見せつけられ,生徒といる時には元気なのに職員からのストレスで食事が喉を通らないこともあった。
二年目は教育委員会経由で他の学校への勤務も打診されたが,明らかに一年目より辛い状況になるのが目に見える場所だったため,結局同じ職場でもう一年勤務することとなった。そこでも色々あったが思い出すのも嫌なので割愛。この年に三度目の正直でようやく合格した。
やっと教諭になれる。そんな思いで赴任した初任校は,生徒指導が成立しない状態もまま見られるなかなかの厳つさだった。ただここでは逆に教員間の連携がそこそこ取れており,クソみたいな状況はありながらも何とか支え合いながら卒業生を出し,同窓会で共に盃を酌み交わすことが出来たりもした。部活の主顧問になったり,勤務時間外の保護者対応・問題行動対応を余儀なくされたりもしたが,無知だったこともあり,必要なことだと考えて必死に働いていた。
二校目で再び転機が訪れる。訳あって四年勤務後に異動してしまうのだが,初めの二年は初任校と同じようなサイクルで働けていたものの,後半の二年は部活の主顧問が変わり,土日祝日すべてが部活に充てられる生活に変わってしまった。
この時,二人目の子供が生まれたばかりだった。妻は当然ワンオペ,自分は部活の疲れで土日もガッツリ育児に携われず,次第に互いに疲れていくのが分かった。この時,部活は何のためにあるのかと真剣に考えた。そして,部活は教員の業務ではなく,顧問を持つことも校長が命令できない任意のものであることを知った。こんなもののために,自分は妻を追い詰めてしまっていたのかと,悔やんだ時には遅かった。
二校目から三校目に異動した後,「去年までの二年間の記憶が無い」と妻に告げられた。もはや妻は限界ギリギリだったのだ。あの生活が続いてしまっていたら,おそらく妻が先に潰れていただろう。と言うのは,三校目に赴任した一年後,自分が鬱になったからだ。奇しくも講師として赴任したあの職場だった。職員の癖の強さは増しており,限界を迎えた。
休職中,一つの裁判の判決が出た。
「教員の時間外労働は自主的なもの」
「教員の仕事は自主的が求められる」
頭が真っ白になった。いじめに遭い絶望し,それでも救われた経験から採用選考に二度落ちてもどうしてもなりたいと思った教員にやっとなり,生徒のためにと時間外も働き,妻を追い詰めながら休日の部活に出向いていたのに,その全てが否定された。
自分の休職期間は来年の3月で終わる。年内に結論を出さなければ分限免職処分となるが,今,本気で教員を続けるか迷っている。生徒のためには働きたい。だが,ここまで国からも司法からも大切にされず,第三者から嫌なら(やる気が無いなら)辞めろと暴言を吐かれながら続ける価値があるのか,いよいよ分からなくなった。一体この国の学校現場はどうなってしまうのか。
現時点で教員がいなくなり過ぎて授業が成立していない学校があるが,文科相は完全なる的外れ。司法も見放した。戻りたくない気持ちがゼロかと言えば嘘になる。そんな状況をいい加減教員を非難し続ける人々,教員なら何とかなると思う人々に知って欲しい。
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