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ちゃんみな、あっこゴリラ、valkneeの楽曲を聴いて40代男性ヒップホップライターが我が身を振り返って考えたこと

文/高木”JET”晋一郎 

個人的な悩みで恐縮だが、音楽、特にヒップホップのテキストを書く際に、本当に悩んでいることがある。それは「女性ラッパー」「フィメールラッパー」という表現である。

先日、秋元才加さんが大意として「女優ではなく俳優と呼んで欲しい」という趣旨の発言をされた。筆者としても”あえて「フィメールラッパー」という表現を使うこと”について、慎重に考えなくてはいけないと思っていた。

そう考えるに至った理由は様々あるが、大きなキッカケとしてはTV Bros.でのchelmico連載「キスがピーク」のインタビュアーを手掛けていることが挙げられる。例えば「映像研には手を出すな!」の作者、大童澄瞳さんとchelmicoの対談企画において、Rachelは”「フィメール・ラッパー」って言われがち。(でも)自分たちを「女ラッパーです」ってカテゴライズしてないし、それはまわりが勝手に言ってるだけで。映像研も女子であることに言及しないし、ジェンダー関係なく、好きなことをやってるだけだから、その部分には、スゴくホッとしたよね”(抜粋)と述べ、Mamikoもかが屋との対談で”ラップは男社会だから「フィメール・ラッパー」って言われることも多いんだけど、「フィメールってつけなくてよくね?」って思ったよね”と述べている。同様の内容は、筆者が手掛けたあっこゴリラとのインタビューの中でも発言としてあったことを記憶している。

個人的には、特に10年代の前中盤の時期は、ヒップホップをメインにするライターの中では、積極的に「女性ラッパー」の作品を紹介してきたつもりであった。しかし上記のようなラッパー側からの発言や、自分の観念を振り返ると、非常に乱暴に「枠組み」や「構造」に手を出していたのではないか、また結果として「紹介してやってる」ということになっていたのではないか、と自省することしきりである。もちろん、単純に「女性ラッパー」作品が持つ「男性ラッパー」とは違う作品性や、内容の興味深さという根本があり、その面白さと反比例するかのごとく、黙殺に近い状況だったことへの憤りが、積極的に記事化するモチベーションとなっていた。しかし、その手付きは非常に乱暴だったのかも知れないと思い至る部分も少なくない。

そう改めて感じたのは、ちゃんみな「美人」を聴いたときである。

ルッキズムや社会的な要請を内面化してしまい、自己を隘路に閉じ込めてしまう人間に対して救いを与える曲だが、この曲は「ちゃんみながちゃんみな自身のことを歌った」部分にも特徴がある。ちゃんみなの楽曲は、自身のことを歌っているように思わせる部分がありながらも、その人称は抽象的であり、「ちゃんみなであり、ちゃんみなでない」という部分が特徴でもあった。しかし、この曲では「ちゃんみな最近まじ可愛い」と、自身の名前を作品に折り込み、そこからちゃんみなが17歳だったときに起こった事実と、そこで起こった心理的反応を提示する。そしてその事実とは、彼女が注目されることになった「BAZOOKA!!!高校生RAP選手権」でのMCバトルと、それによって起きたSNSなどでのレスポンスだ。そこでどんな中傷がちゃんみなにぶつけられたかは、作品を聴いて頂きたいが、そこで同時に思い出したのは、MCバトルにおける女性蔑視の表出である。
そして今から約5年ほど前、MCバトルがある種のブームを迎えたとき、MCバトルのステージにも「女性ラッパー」が登ることも増え、「男性ラッパー」と戦うこともあった。しかし、そこで「男性ラッパー」からぶつけられる、ルッキズムやセクシズムの言葉は、さすがに聴くに堪えなかった。確かにMCバトルは相手を口汚く罵ることも一つの戦略である。しかし「ブス」だの「やらせろ」だのといった幼稚な口撃は単純に耳障りな言葉であったし、同時に「自分も無意識にそういった発言をしているのだろうな」と自覚させられるからでもあった。


そういった状況は、日本のヒップホップにおいて変わったとは言い難いし、未だに性差別的なリリックは決して少なくなく、更にそういったリリックを「本音」や「ぶっちゃけ」として開き直ったり、「それもヒップホップのいち側面」と擁護する意見も散見される。
しかし一方で、松島諒(MC松島)「おっさん恐怖症」のように、そういった状況に対して「男性ラッパー」側からも異議を申し立てる作品が生まれたことには希望を感じさせる。

Twitter上でも積極的にジェンダーやポリティクス、シーンの状況に対してラッパー側から意見を提示している松島だが、特に収録曲の「​​おっさん Kills My Vibe」では、そういった論説をしっかりとラップで形にし、Twitter一言居士ではなく、「ラッパーだからこそ」の表現を落とし込む。パブリック・エネミーのチャック・Dによる「ヒップホップはブラック・アメリカンにとってのCNNだ」との発言を引用するのは、もやは自分がオッサンだからなのだが、それでもこの「ラップを通しての速報性と批評性」は、配信時代との親和性が非常に高いし、上記のチャック・Dの言葉を思い出すような痛快な展開だ。しかし、これをただ単に痛快な事象として消費するのはなく、「​​ラッキースケベは男のロマン」のように、我が身を振り返らなくてはいけないと思わせる鋭利さも、この作品は内包する。

あっこゴリラ「DON'T PUSH ME feat. Moment Joon」も、状況に対する異議という意味では「おっさん恐怖症」にも近いのだが、「おっさん恐怖症」が「社会構造」にフォーカスしているとしたら、「DON'T PUSH ME」は「社会と個人」がテーマとなっている。

社会が貼り付けるレッテルやカテゴライズと、その要請との摩擦で生まれる不条理なストレスに対して、ロボットのように無感情に順応するか、人間として感情的に抗するか。シリアスでありながらダンサブルな楽曲は、これまでにも「人間性」という部分にフォーカスしてきたあっこゴリラの本領発揮といえるだろう。

またエイジズムに対して「お墓に入るまでPretty Faceだし」という、強烈なパンチラインでカウンターを打ち返すValknee「Sweetie30」

その意味でも「自分が素晴らしいと思ったんだから他人がそれを邪魔すんな。ほっとけ」という至極まっとうなvalkneeのスタンスは、真っ当にヒップホップ!その自己肯定感は、Rachelが作詞を手掛けたlyrical school「Fantasy」での”次の一万円札の絵柄はアタシだっ!”というリリックにも通じるだろう。

ちなみに、本稿では便宜上「彼女」や「彼」という表現をあえて使わなかったので、読みにくかった部分もあるかもしれない。「その人性」が重視されるヒップホップにおいて性別を含めた人称代名詞は不向きではないかと思い始めているのと、あえて使うなら個人的には古典などで使われる「彼人」という、二元的な性別を意味しない、英語で言うところの「They」のようなノンバイナリーな表現はどうだろうか、と思っているのだが……その部分についはまたいずれ(5月18日執筆)。

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