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麗しの故郷、静岡の先進性を讃える①(序文・護国神社) (約16000字:25分程度)


〇序文・文章趣旨


静岡は素晴らしい。衝撃を受けた。
これがハネムーン期ちゃんですか。


⊡目次等

この①の文章は約16000字、読むのに約25分掛かり、また19個の小見出しから成る。
全体では6万字程度になりそうだと目算を立てている。無論、そこまで書く時間的余裕があれば、だが。


⊡ 経緯

元々この記事は、静岡と仙台の比較という形を取ろうと考えていた。しかし、あまり上手く書けなかった。というのも、静岡の衝撃があまりにも強く、また仙台への積もり積もった恨みというか逆恨みが甚だしく、また知能は余りにも足らない事から、実質的には、稚拙に静岡を讃え、仙台を貶す様な内容にしかならないだろうと思われた為である。また、故郷としての評価ボーナスや、実家の資本力という重大な要素を、比較に抵っては取り除くか、修正して実質的には取り除かれた内容とする事が求められるが、それをすると最早書きたい内容では無くなるし、そもそもそんな器用な事が出来る人間ではない。従って、「比較」という体ではマトモに書けなかったのだろうと思う。

無論、上記の様に下上・底昇的にこの形式にする事を導いたのではなく、讃えるという形式の方が、自らの意図を記すのに適当で、正直であると思い付いたからこの形式にしたのである。上記は「書けなかった」という事実に対する、ただの考察にすぎない。
この文はまた、自己の価値発見能力、記述能力を「外」に向けて発信するという目的を有した文章である。そういう「臭さ」もあるかもしれない。本当に申し訳ない。また修辞の中に人格が宿るという考え方に則るべく、いつにもまして多少読みづらくなっている。また単純に文章を彫琢する気力がない、というのもある。怠慢や稚拙などと正論をいわずに、「そう書かれなかった」由縁も察しつつ、何卒ご承読下さると幸いである。さらに、これまで書いてきた通り、この文は凡そ専ら自己の感想のみに立脚したもので、自分の軽薄さや仙台への言いがかりに近い内容も含まれていると思われる。その他諸々、ご了承願いたい。

△留年と帰省

またこの文を書くに至った背景には、或る破滅的な情勢がある。私は単位習得に失敗してしまった。即ち2留である。一般に2留は、頭に何らかの障碍でもないとならないとされており、就職はかなり厳しくなると言われている。凡そ何も言う気になれない。
しかしながら何故こんな文章を滔々と書くに至ったかと言えば、結局のところ私は、公に殉ずるという自らの卑近な夢?を捨てがたく、また文章を書き、概念をつくっていく作業をしたいという願いもまた捨てがたく、また地理に制約された私の性状もまた擲ち難く、以て心路を一つに定めるのほか無きに陥った事を認めざるを得ないところ、この文章を書く事がその路を描くに不可欠と思われた為である。
また別の点から観れば、帰省してから街を見回って受けたリアルな衝撃を、文章というかたちに残したかったというのもあるし、或いは初めて気が付いた静岡の良さ・先進性を伝えたかったというのもあるし、或いは自らの文章執筆能力と、価値の発見・汲上・画定・擁護の能力の証左となる様なものを穿ちあげたかったというのもある。またやや弱いが、修辞に人格が宿る筈だという仮説を自己にて実践してみたかったというのもある。
何れにせよ、これらの卑近な欲望・渇望の成した文章である事をここで留め書いておく。



〇具状

以下にその卑が感動したもの等の具体的な内容について述べていく。

〇具状①:豊饒を湛えてやまない静岡縣護国神社

まず第一に取り上げるのは、静岡縣護国神社である。自分は嘗て静岡市内の好きな神社を番付形式で5つ挙げた事があるが、その時も第1位にここを挙げた。或いはその時に気が付いていた事を数年のうちに忘れただけかもしれないが、最近、後述の事情により何度も訪れる度に、その先進性と思う処の多さ、空間としての質等の高さに驚愕してばかりだった。

⊡ 概況

まず護国神社の概況から述べる。
護国神社は、静鉄柚木駅の側にある神社である。明治32(1899)年に駿府城下地区に創建された静岡招魂社が、改称後、昭和17(1942)年に静岡縣護国神社として、この地に遷座された、近代造営のお社である。
柚木駅から東に数分歩いた所にあり、北に谷津山(標高298m:市街内の古代島なごりの山)に隣接し、三つの大鳥居を伴い、一の鳥居と二の鳥居の間には、わりかし広い鎮守の杜が造営されており、神池などを伴っている。

護国神社HP : https://shizuokagokoku.jp/guide/

またその他の大局的地勢(所謂「鳥の目」)を主軸に述べると、まず古くから都市軸を成し、今なお、全国有数の発展水準を誇る、静鉄・東海道線沿線に位置している。特に静鉄は境内南辺にほぼ隣接して走っており、独特の景観をもたらしている。
また近年、市内の副都心のひとつとして目覚ましい発展を遂げている、「東静岡」地区と一帯を構成しており、相乗効果を成している。

参照 : GoogleEarth


また柚木駅北側の、門前の地区を「宮前町」といい、地名に於いてもその尊重されてきた事がわかる神社である。
また静鉄を挟んだすぐのところには、近代以来の大幹線である国道1号線が通り、神社が広告を掲示している他、南鳥居前広場からは東静岡地区の主幹施設のひとつである「マークイズ静岡」(三菱地所の商業施設:相川鉄工旧本社跡地に2013(H25)年開業:市内最大級の商業施設)の建容を、国1を挟んで窺う事が出来る。(参照 : すぐ後の「西の一の鳥居」の写真。右奥に見える白い建物がマークイズ静岡。)
上述の様な視覚的・身体的・文化的先進性の詳細については、後述する。

⊡ 内容

さて以下にその護国神社の先進性を具に述べる。
当該神社には一の鳥居が、境内の南側に東西二つ造られているのだが、自分は西の鳥居から出入りする事が多かったので、まずはそこから書いていく。

一の鳥居 (西・通常時)
一の鳥居 (西・蚤の市の日の様子)

まず西鳥居であるが、目を引くのは大きな鳥居前のコンクリートの広場であり、よく訪れていた時期には屡々雨に濡れていた事とも相俟って、古典的色調を導き出している。何より繁茂する木々と、立ち並ぶ自販機と公衆電話、鳥居と掲揚国旗、大灯籠や社名石柱の描き導く空間は、とても質が高いと感じた。
また、この空間は、谷津山麓の南北を繋ぐ沿道がやや狭隘である事から、自転車や歩行者が屡々ショートカットの為に通っていくのだが、自販機と公衆電話にも感じるところの其の様な、ある種の神域と日常や公共性が結合する空間は、ある種の神社の古典的原景をなぞらえ導き出している様に感じた。
そして何よりも、大鳥居が木で造られている事に目を瞠る。自分がこれまで目にしてきた鳥居・大鳥居といったものは、凡ね石や鉄で造られているか、紅く塗られて材質の分からない様になっているものが殆どだった。それはそれで感じ入るところの多い立派なものだが、高さ甚だしい大きな鳥居が、木の質感と年季を湛えて静かに佇んでいる様は、まるで古木のあるようであり、静かにその文化を湛えていたのである。

また鳥居の側には、現上皇陛下が平成の御代に植樹された木が植わっており、護国神社の在り様をしめやかに示している。
また加えて、広場沿いには谷津山や避難地に関する県の案内板もあり、ある種の情報センターとしての機能も有しているのも、また善い。

私はこの広場に自分の思想との合致を感じ、既に大層感動したのみならず、自分の故郷、塔の基礎がこの街である事をここに確認したのである。

○「緊急(一次)避難地」、×「避難所(宿泊所)」
良い写真が無かったのでGoogleストビュー…

因みに、東の鳥居も広場こそないが同じ様な木製の大きな鳥居で、石柱もあり、こちらは奥に石灯籠が続くさまを見る事が出来る。

さて、一の鳥居をくぐると、鎮守の杜の中を参道が延びている。
この中は、天候によって様々に表情を変える。普段生きていて感じるのは、空の色と月の位置の違いぐらいのものであるが、この中に於いては、陽射しは和やかな空気を湛え、夕陽は旭光をなして讃え、雨は杜を彩り、風はもの(環境)を運び、木々は見え方と心を移ろわせる。大きな池があり、けもの道があり、参道が曲線美を描いている。あるべきものがあるべきところにある、どこまでも自由な空間である。
さてこの美しい鎮守の杜の概要については、境内に掲げてあった静岡県の看板によって知る事となった。曰く造営の際に県中から木々を集めて照葉樹の雑木林を作ったとの事で、なかなか凄まじい話である。しかし、そうしただけの価値は間違いなくあったと思う。この森は今もなお、この様に美しい空気を湛えて訪れる人を癒し、戦後県制からも称賛されているのである。身体に裏打ちされた、なんて先進的な取り組みだろうか?

⚠️⚠️⚠️以下、約5200字に亘り、文色を異にする特大の駄文が暫く続く。賢明ならばスクロールして、また「⚠️」が出てくる所まで飛ばされたい⚠️⚠️⚠️

⊡ 側文 (約5800字:9分程度)

ところで、ここで前々から思っていた事を弔っておきたいと思う。以下暫く、思想的・政治的な戯言が続くので、読みたくない方や、或いは途中で読むのが面倒になった方は、小見出し「続き」の所まで飛ばれたい。
それでも読んでくれるという奇特な方は、これが大学生になり損ねた人間によって書かれたものであり、たとえ部分的には有価値であっても、総合では無価値と認め得るものである事に留意し、赦免しながら適当に読んで頂きたい。

△側文主文

さて、思うに、この様な例は他にも見られる。三大庭園、甲子園、駅伝、その他旧帝大や近代建築と、伝統と文化に裏打ちされ、そこから導いた塔の上に新たなものを構築して、今なお、「古くて新しい」ものは幾つもある。しかし現代に於いて、その様なものは中々生み出されていない様に思う。と共に、その原因を学問の後進性に求めている。

ときに国際的に先進的とされるアメリカ人は、身体的活動を摂理とするというが、日本に於いては必ずしもそうではない。それでは日本は後進的なのだろうか?
自分はそうではないと思う。そもそも身体と精神は互いに連関している。どちらを主従とするかは文化・時世により違うだろうが、何にせよ精神的働きは身体的活動に影響を及ぼし、身体的活動は精神的活動に影響を及ぼす。その相互作用が歴史的に積み重なってきたものが文化だろう。一方で身体の基本構造は人類でほぼ同じである。これらの意味で、身体と感覚は人類普遍ではなく、人類普遍性と固有性の複合であり、その固有性も個人と文化の複合である。
その意味で、少なくとも1500年、虚構(fiction)を含めれば2700年も積み重ねを持つ日本は、ある意味、先進的である。
さて、文化というのは連続的である。有史以来連続的であったその体系は、1945年に損傷して以降、帰ってきていない部分がある。それは日本の固有性に関する部分である。本来、学問(現代の人文社会科学)というのは、上述の様な圏文化の体系 (文明) を発展させていくものであった筈だ。圏の修辞法に則り、圏の言葉を使い、圏外の概念も取り入れながら、上へ上へと伸びていく。そうして、「古くて新しいもの」が積み重なっていくのである。
しかし現代の学問は、「普遍的」文化体系(その実、人類普遍と欧米文化の複合体系)にのみ接続し、日本の文化体系への寄与は二次的なものに留まっている。民間レベルでは文化の継承が行われてきたにも関わらず、学問に於いては、圏の積み重ねを軽視し、外国の言葉で、外国の為に学問を積み重ね、さらに日本を解釈し、さらには何を思ったか日本を批判する事に余念がない。かつて日本語は奇形発達などと云われ、まぁ納得するところもあるが、学問の状況はその比ではない。体中がバラバラである。

△側文根拠

ところで、この前見たものに、[根拠×共感]などと書いてあって、割と感激した。そこで、その様な戯言を思うに至った、根拠らしきもの(根拠もどき)も少し挙げてみようと思う。
この様な戯言を思わせた経験として第一に、茂木教授(表象文化論)のテキスト論・批評理論?に関する基礎授業がある。この授業は、教授の思想と政治姿勢が最悪級に嫌いではあったものの、教授は優しく分かり易く、大変学びが多く良いものだったのだが、その中で教授は「だから論文の形式も相対的・政治的なものなのだ」的な言葉をぽろりと零した。学内きっての劣等生である自分は目ざとく反応し、印象に残してしまったという次第である。
また第二に、戸島教授(哲学:ベルクソン等を研究)の存在がある。教授は自分が最も尊敬するところの人物なのだが、教授の話はとても面白く、自己の(日本的な)体験に修辞的に立脚しながら、哲学者などの知識とも絡めつつ、価値や物の見方を剔抉していくのだった。そんな教授の学術論文を少し覗いてみたのだが、豊富な知識と思索と共感に裏打ちされた、冷静そうな分析が並んでいるのであって、それ自体の価値は疑うべくもないにせよ、それは無限の価値を持つ教授の講話とは、明らかに別種の営みだった。
そもそもの話、私には納得できない。文系の研究対象、特に哲学や社会科学の資料は、別に学問的に書かれたものではない。にもかかわらず、なぜ「知の生産」にあたって学問的手法に固執するのだろうか。恐らくは論文を一本でも書き上げれば理解できたかもしれないこの事を、遂にまともに学問を修められなかった自分は、遂に理解も、納得も出来なかったのである。
第三に「文化心理学」(辻本教授)の授業で見た、以下の2つの図がある(線は自他境界、×は互いにとって重要な要素を示す)。

これらは、「西洋人」(上)と「東洋人」(下)の、対人・個人観文化モデルの差を表した一説としての図であり(これらは理念型的・相対的であり、また時間により変動もするものとの留保説明はあった)、この様な違いは諸々の実験により、20年程前には明らかになっていたと、説明を受けた。しかし、授業でそれまで聞いてきた心理学の実験結果等は、そのほとんどが西洋人的個人観に基づいて行われており、東洋人的個人観は想定されていなかった様に感じた。何故、何についてそう感じたのかは、悲しいかな全く忘れてしまった。ここが肝心な訳で、ここを忘れてしまっては説得力も糞もなく、従ってこの事は省こうかとも思ったのだが、もう面倒なのでそのまま載せる。何にせよ、社会を研究する学問が、それを社会に援用しようとする意思を持つにもかかわらず、圏特有の重大な差異を見逃していては、圏文化の発展もなく、援用にあたっては内部との衝突も不可避となるだろう。

第四に、公務員試験の勉強中に行き会った、端的な海外/国内の学者の概略がある。辻清明は稟議制の一定の合理性を明らかにしたという。ドラッカーは封建的とも言われかねない(というか言われていただろう)日本的経営の一定の合理性を剔抉した。またサイモンやヴェーバー、パーソンズ、河合隼雄、レヴィ=ストロース、その他諸々の偉大な「保守」研究家たちは、一見不合理にも見える諸々の制度・慣行の合理性を明らかにしたり、その形態を正確に、多角的に描き出したりしたのである。他国の枠組みを機械的に適用し断罪したり、当座の制度をまともに取り合わずに不合理で後進的と貶したりはせず、その結果、社会にとって参考になる、有益な知を生産してきたのだ。
翻って本邦の人文学問を見た時に、果たしてこの系譜にあるのか甚だ疑問である。確かに某社会学者や河合隼雄やその他諸々の作者の様に、本を通じて現実社会に親しくしようとした学者は多い。しかし、それにしては本屋に読む価値のある本が少なすぎる。一度生協か、或いはそこらの本屋でもいい、社会科学や新書の棚に行って、何冊かパラパラと捲ってみれば、自分の言いたい事の一端が分かると思う。極論や国際協調にばかり拘って、文明性と向き合い、真に社会に有益である為の機関であろうとはしなかったのではないか。そういう疑問を自分は遂に消し得なかった。

第五に、仙台及び川内キャンパスへの不適応がある。共に戦争で大きな被害を受け、戦後に一大発展を遂げた都市及び地区施設である。仙台と川内に、戦前のものは殆ど残っていない。私が此処でいう「戦前」とは江戸時代を含まない。明治維新から終戦まで、もっと言えば律令制下またはそれに類する時代を指す。その時代のもの、私を癒してくれるそれらのものが、仙台と川内には殆ど存在していない。片平は素晴らしいが、遠く、それに人生を耽溺させる事は出来なかった。自分にはそんな仙台と川内が、戦後の空虚さの象徴のように見え、その空虚さにカビのように生えた孤独と無理解が、結局のところ自分の人生を台無しにしたのである。私はその正体を探り続けてきたのであるが、結局その一因を、「古くて新しい」ものが生まれてこない事に求めながら、社会や権力を先導し、法学やその他学問を通じて価値や正当性の枠組みを提供し、都市・文明の建設を規定し、近現代の超重要ファクターであり、市井を「研究」する人文学問の、その機能不全に連想したのである。


根拠モドキの提示の試みはここまでとする。(因みにモドキや似非といったものが、自分は好きだ。)

△側文根拠の副文

ところで、根拠のようなものなどと言いながら、根拠ではないと思ったかもしれない。
それに一理あるからこそ「根拠モドキ」などと書いているが、見方を変えれば普通に「根拠」と言えなくもない。

確かに、真に学問が後進的だから古くて新しいものが生まれてこないのだと示したいなら、上の内容では根拠として明らかに不十分だ。例えば、古新の例(台湾や朝鮮、昨今の中国など)を挙げ、その実現過程を辿りながら、或いは条件を分析して、判断や比較によって原因を特定し、仮説を立てて、データや統計・調査に基づいて検証し、他の事例にも当て嵌めてみる。或いは、「論文の形式と社会への影響」についての先行研究を洗い、また他の形式と比較検討し、また論文の成立過程・条件・動向を分析する。同時に、現在までに行われている議論を追う。十分な情報収集をする。
大学生としての実質を備えた者であれば、この様な作業を行うだろう。しかし、自分にはその様な事をする資源は備わっていないし、そもそもこの文のテーマは余所にある。

例えば川崎駅を歩いてみて、駅が汚ねぇと思った事を書きたいと思った時、より良い根拠は、どうしてそう思ったかではなく、ゴミの数を数える事だろう。しかしその結果がどうであろうと結論は変わらないのだから、それを根拠とすると嘘になるし、そもそもそこまで示す必要は無い様に思う。自分は川崎駅が汚い事を示したいのではなく、「川崎駅を汚いと思った事」を示したいからだ。思った事の根拠としては、上述の内容もそこまで的外れではないだろう。
無論、論としてはド級の2流、3流のそれだが。

△側文主文の続き

さて、言葉や学問と言うのは根本的に碌でも無く、過信と過激主義の温床である為、社会・文明とは一線を画し、象牙の塔であるべきだ、或いは学問は価値中立的(理系的)であるべきだ、という見方も出来るし、自分はそれに一理あると思っている。
しかし、それにしては、な言動が多いし、そもそも日本には漢語という伝統的な「碌でも無い」存在があるのだから、その体系に接続 (単に訳すという意味ではなく、大化以来の圏体系と照応しながら発展する、という意味) すれば、体系の寄与への観点から有意義だし、日本固有の和語の生世界も守られるはずだ。一見無用に複雑な、漢語と和語の混淆した日本語の言語システムは、自分たち固有の和語の韻律世界を維持しながら、他世界から先進的な学問や技術・社会システム、概念などを、学び取り入れるのに適した、辺境人ならではの先進的な言語システムだろうと思う。従って、学問には接続すべき合理主義的修辞体系があるのであって、これを以てしては、人文社会学問が文明・文化の体系から切り離されるべきとはならない。
そもそもの話、人文社会学問が社会体系と一線を画すなど、情勢を見るに、よほど綱紀を取り締まらない限りは土台無理な話というべきだろう。その様に学問と社会を分かち難いからこそ、(自身の不具合とこじつけて、)学問によく分からない注文を付けているのである。
結局のところ、学問の少なくとも大イ勢は、後進的というべきである。そして、現代科学文明に於いては猶更、学問は社会の重要・必要不可欠な構成要素である。「古くて新しい」ものが生まれ出てこない原因をここに求めるのも、あながち無理筋ではないだろう (ほんまか?)。

因みに度々使っている「古くて新しい」という表現には3つの個人的由来がある。
1つ目は先に述べた戸島教授(哲学)の授業で、教授の話の中に「雅楽を聴きに行ったのだが、古い音楽にも関わらず、今なお新しく(革新的・先進的・現代的に)感じる音色だった」というものがあり、それが由来の1つ。
2つ目は比較憲法(佐々木教授)の授業で、イギリスの権利章典について「古い皮袋に新しい酒を注いだようなもの」と表現し、それに感銘を受けた事がある。
(因みにこの授業は、「憲法」の原語である「constitution」は、元は狭義の成文憲法のみならず、もっと広義に国家体系自体を指すものであり(ウロ覚え…)、従って90年代以降の国家機構改革は広義の憲法改正と見做す事が出来る、という様な内容もあり、とても面白かった。機会があれば受ける価値の大きい授業だと思う。)
3つ目は卑近ながら、先に行われた東方秘封同人祭遠野開催のキャッチコピーが「古くて新しい物語」であり、それに感銘を受けた事である。
先から度々使っている「古くて新しい」というのは、これらの由来が画する意味内容である事に、ご留意頂きたい。


この側文の最後に述べておきたい事がある。
第一に、これは榴ヶ浦という大学生モドキの文明の、ある種のバッドエンドの1つの形、遺書の類推である。生活習慣崩壊させてサボりまくった勉強量クソ雑魚のカスが何一丁前に喋ってんだ、という指摘は極めて真っ当と言うべきだが、どうかこの文章を以て愛想を尽かすのは勘弁してほしい。
私は実質的な意味で大学生になれなかったのだ。

第二に、ちゃんと文明の中にある日本人が、単に学問的形式に拠って知を生産しているのだから、その全てに文明性を読み取れない筈がないではないかと、書いてみて思った。
第三に、自分のメディアへの複合的な不信の要因のひとつに、自分の考えを形作ってきた学知がメディアに反映されない事があり、またメディアの厖大な影響力と信頼力と合わせて考えれば、寧ろ後進性の原因帰属先として批難するべきはメディアではとも思う。
第四に、私が人文学問について言いたい事を、プロパガンダ的に云うと以下の様になる。曰く、学問は市井の価値から文脈を簒奪し、破壊していると、そう言いたいのである。

その他、私は自身の上述に関する多くの考慮と経験と知識の不足、及び無資格性を察知しているが、時間や智能の問題から、ここに書く事はしない。
この側文は精々、「自動販売機に並んだジュースの種類は多い方が良い」という信念に基づいて書かれた文章である。

⚠️⚠️⚠️以上。この側文を書いた時点で、自身の執筆能力云々という目的は破綻したといえる。⚠️⚠️⚠️

⊡ 続き(内容)

さて、話を戻そう。
参道から橋を渡ると、駐車場として用いられている広場が広がっている。この橋には「静霊之橋」という名が付いており、この様な所にも、文字が使うべき処に使うべき様に用いられているという安堵の様なものを感じてしまう。またこの橋から川(水路?)を見れば、やや古風な水路の中に落ち葉と水があり、「自然」の薫りを感じる事が出来て良い。またこの橋の向こうは(杜の中とは違って、)開けているので、空間の目がさめる様な境界の演出でもある。

広場に面しては、手水舎、献水碑、先述の看板、平和祈念のレリーフ彫刻、新つつじ会館(遺品収蔵館)、そして本殿に向かう為の二の鳥居がある。
収蔵館については開いておらず、決して安っぽくはないが簡素な造りだったので何とも言えないが、いずれも見事なものである。
手水舎は大きな木造の建屋で、往時の威容をしのばせている。看板は上述の通り、必要な情報を提供している。献水碑は、水を求めて亡くなっていった方々を慰め弔う為のものである。これはやや碌でもない話だが、自分自身特に大学以降、胸の奥、肺だか自律神経だか心臓だか知らないが、渇きを感じて久しい。そんな中で、この水球に悼みつつ水を掛ける度に自分の中の其の部分も感じ癒される様な気がして、何度も水を掛けてしまった。極めて優れた装置物というべきだろう。レリーフは、詳細については覚えていないが、昭和の願いと気合を感じるものとなっている。
なおこの広場は、西に養浩館(剣道場)に、東に社務所等に通じている、機能的な空間でもある。また附記すると、鳥居横のくすのきも立派な大木であり、広場に緑の空間的気風を与えていた。植物等の素質を引き出して、風土的文脈の中で「最大限発揮」せしめる、庭園的構成と云えるだろう。これについては、橋から見た時に極めてフォトジェニック(写映的)な効果をもたらしている、掲揚国旗その他諸々に附いても同様である。

新遺品館
左にあるのが手水舎
献水碑

さて、二の鳥居をくぐる、前にまた附記しておきたい事がある。二の鳥居の向こうと広場の間は、一応柵で仕切られている。しかし、鳥居の横は空いているし、社務所の方に迂回すれば普通に入る事が出来る。この様な「抜け」感、則ち、空間的に連続はしつつ身体的(認識的)に区切られてはいるが、しかし相互に支障なく繋がっているという在り方にも、自分は庭園的修辞を感じるのである。

さて二の鳥居をくぐると、古代遺跡を思わせる広い広場と参道があり、左手に幾本かの木が並び、右手に社務所等があり、正面に山と社殿がある。
参道の長さは100mほどであり、雄大な建築と言える。突き当りには賽銭箱?があり、ネットの情報から推測するに、社殿が閉鎖される深夜にはここから参拝するのだろうと思われる。拝殿を眺めれば、屋根は見事な青緑色(青銅色)であり、壁や柱は木造である。
そこから白い階段を登り、参拝する。奥には丸い鏡が置かれており、殿中で何やら行われている事もある。参拝者は子連れから老人、中年、若者と、性別属性問わず様々である。あいにくと外国系や外国人は見掛けないが。
参拝後、右手に行けば石柵があるのだが、その下には外地から持ち帰った砂などが埋められているらしい。些やかだが文明的な行為といえる。

先述した様に、そこから二の鳥居をくぐらずに社務所の方に抜けられる。社務所はいつ建てられたのか知らないが、木造調の立派な建物である。神社側の軒下には自販機等が置かれた空間があり、共憧的な景を成している。玄関前には、こちらからも参拝出来るようにだろう、手水舎が置かれている。中に入ると、左手に受付と事務所、奥に御守り等の棚、左手に二階への階段(関係者のみ)、右奥に休憩可能な、ソファや机が置かれた待合室的な空間がある。
休憩場?待合室?には、模型や諸々の資料、靖国神社発行の遺言集などがあり、座って読む事が出来る。遺言集は靖国神社が門前に掲示していたものを取り纏めたものであり、内心その真偽への疑いが無いというと嘘にはなるが、しかし書かれるべきものが書かれるべき修辞法で書かれているものであり、大いに価値を感じるものだった。
私情だが、自分の発想や価値観は、大学入学後の東京旅行で訪れた遊就館で見た遺書等に、(その後の苦境を経て、良くも悪くも) かなり影響を受けている。遺言集に価値を感じるのも当然というべきだろう。結局何度かの参拝のうちに、執着を感じた勾玉のキーホルダー1個と、遺言集1冊(約550円)を買う事となった。因みになのだが、勾玉の方は、鈴が付いており動くとチリチリ鳴っていて邪魔だったが、鞄のポケットに挟み込むようにして入れる事で音を鳴らなくする事が出来た。些やかな合致で問題を解決出来て良かった。

社務所外観①
社務所外観②

さて、ここからはこれまでに記述しなかった施設や情景について述べていこうと思う。

⊡ 神池、養浩館など

まず神池である。神池と言っても、神社境内に設けられた池を云っているのであって、此処では特に、ご神体になっているとか、それ自体が祀られているとかではない。しかし昨今の私にとってその存在はとても重要なものであった。大学入学後の自分は特に、水と庭園に恋焦がれていた。仙台に新宿御苑の様な、水を湛えた日本庭園が無い事を、文明の退廃に絡めて何度恨めしく思ったか分からない。その起源のひとつに、(昔に訪れた時に見た)これがあったろうと思う。

この神池は参道から少し西に逸れたところにある、割合大きな池で、水は富養にして濁り(但し参拝時には羽虫害は特に感じなかった)、鴨が十数匹か飼われている。池の形は真丸では無く、庭園的色調を為している。湖畔には自然様の路があり、ベンチなどが置かれている。座って水景と一緒に鴨でも眺めていれば、何十分と過ごしていられそうであった。

実際、その様な極楽は中々得難いものである。仄暗い部屋で布団で寝たり、安いカフェでのんびりしたり、図書館で安呑に浴したりする事と同一視できるだろうか?あれら排他劃扼の御殿に、それらの安穏と、精神的空白・意識の擬制を認めるのは難しいところがある。

神池①
神池②
神池③
神池④
神池⑤
神池⑥

附記しておくと、上述のものを排他の御殿呼ばわりするのは不合理である。
あれらは珈琲・カフェインと並んで、良好な作業環境を提供してくれる、貧乏人に必要不可欠なインフラ(生活基盤)である事に間違いはない。
しかしそれでもその様な呼ばわりをしたのは、自分がそれらの無力さをしばしば感じるが故であり、それを説明するものとして精神的空白・意識の擬制云々という戯言については間違ってはいないと考えると共に、端的に示す他の適当な表現が思い付かなかった為だ。
その様な精神の包摂的部分を担う存在、及びそれらへのアクセシビリティの不足は、特に孤独な人間にあっては環世界に縮退圧を掛け、ついには破壊する…、などと思っている。


また、神池の北側には養浩館(剣道場)があり、池を眼前に構えて優然と佇んでいる。赤・黒・白を基調とした落ち着いた佇まいの建築である。

養浩館①
養浩館②


また境内の南方には、静岡縣神社庁が置かれている。こちらは瓦屋根調の建造物である。
何れも境内の雰囲気によく馴染み、一方で、神社の風合いにも共生様のアクセントを加え、以て日本的色彩を成している。

静岡県神社庁。写真撮影時には(別日にはいなかった)黒いアルファードが玄関前に停まっており、玄関構えと相俟って暴団事務所みたいな写真映りになってしまったので、看板のみ。
宮城県には銀杏通りに所在している。
以前は右隣の空地部分に前の遺品収蔵館があったらしいが、既に更地になっていた。

⊡側文の2

なお、神社庁といえば、というか神道関連団体に広く言えることだが、宮司等のみに限られているのは勿体無いと思っている。
神道は日本国1億2000万人の共有財産であり、歴史と民俗の最も生きた形の一つであり、民族と共同体の、歴史を代表して、紐帯と尊厳の中核部分をなすものの一つでもある。にも関わらず(民族の尊厳を冒している⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎)後進的な憲法条文のせいで、とかく金が無い。その表れが、長野県護国神社のクラウドファンデングや、千葉の護国神社の郊外縮小移転だろうと思っている。
地方の社を含めた、伝統的な神社仏閣の維持修繕・活用進化の為に、広く安定的に必要資金を募る保守ナショナルトラスト(基金)を誰か作ってくれないかと、思い続けて久しい。

⊡ 大鳥居前からの景観

また、柚木駅側の一の鳥居の門前から、大鳥居と静鉄電車とマークイズと国1の共態を窺う事が出来ると先に述べたが、これについて少し詳述したいと思う。
まず、現代的繁栄と近代的遺産は不可分の、事実上の牽連関係と、規範的な(=価値の観点を加えた上で見出せる)繋がりによる文明的塔を成しているという前提がある。
文明とはひとつの塔の様なものだろうと思う。古代から積み重ねられてきたものの上に、新しいものを構築していく。その中には、古代の生活環境にのみ存し、今や再現不可能となったものもある (例えば、葦原・色浜などの地名の身体性や古宗教のあり方、村のしきたり等々)し、今なお私たちが (記号論理とは別の仕方で) 拠り、その血肉となって生きているものもある。その資源の総称を「塔」に例えている。
勿論、時代の趨勢により、外勢力の知見を取り入れたり、塔の部分を勝手に入れ替えてテセウスの船みたいになったりしているかもしれない。しかしそれでも文明の塔に拠っている限り、我々は過去との脈絡・紐帯を維持出来るのみならず、未来についても身を委ねることが出来、ついでに死と消滅の恐怖と束縛からも、幾分か自由になれる/なれているのじゃないかと思う。

明治維新など文明の塔に拠った典型例であろうと思う。同一性が揺らぎそうなほど海外文化を取り入れ、その実勢に於いて隣国を凌駕したほどにも関わらず、その衝撃を「古来の」修辞法の中に押し込める事で、混乱・動揺を抑え、市井の一般的な協力・動員を調達した。そして、それまでの日本文明の延長線上に、新境地や修辞法的新段階とでも言うべき、近代日本の繁栄の在り方を示したのである。現代の繁栄がその延長線上にある事は決して偶然ではない。
国策の失敗と占領政策、戦後情勢等により、その塔は大きく損傷したというべきだが、血の滲むような努力と幸運の結果、文明的連続性と経済的繁栄は相成っている。

以上の事を念頭に置いたとき、大鳥居と広場、静鉄電車、マークイズ、国1の組み合わせから成る景観は、上述の様な過去の積み重ねの帰結としての、現代の位相と繁華を象徴する景観として、高く評価し得るのである。

⊡ その他写真等

南側の沿道。赤目がかわいい。
南国感がある。
碑の由来
石や碑
何か偉い人の銅像。手入れが行き届いている。
木漏れ日の小径
石灯籠
外へと通じる水路
字・日本語が多い神社。
「明治百年記念事業第一鳥居再建 昭和四十三年」
静鉄、静銀、鈴与のほか、木内建設やポーラ化成工業、シャンソン化粧品など、名だたる企業名が並ぶ。
ポーラが静岡市発祥だと、これを読んで初めて知った。
クミアイ化学工業 (旧:庵原農薬)はこの年、ポーラはこの三年後に、其々静岡から東京へと本社を移転している。
寄附金額自体はそんなに多くなさそう。
何で傾いているんだろう……。
蚤の市の様子①
蚤の市の様子②
普段の日の表参道
どうか無事に集まって欲しい。

⊡軽佻浮薄の文 

さて最後に、尤もらしいド級の駄文を載せておこうと思う。内容がほとんど言い掛かりでしかないので、本当は書き直したかったのだが、上手いこと頭が働かず、ちゃんと書けなかった。しばらく置けば書けるかもしれないが、如何にも時間がない。従って、「軽佻浮薄の文」としてそのまま載せておこうと思うが、読む必要は特にない。

△軽佻浮薄の文の本文

これについてはここに限った話ではなく、市内は全体的に仙台よりも水が豊かである。

〜類置 : 静岡の水文化環境
宮前町には何本かの水路が通っているが、市内は仙台と比べて全体的に水路や川が多い。これは静岡平野の地理的帰結と言えるだろう。川が少ない仙台も河岸段丘が故であり、低地に下れば水は増える。当然の道理といえるが、何にせよ仙台の主要な部分に水の文化が希薄な事は事実であり、水の庭園である日本庭園の不在とも相俟って、仙台は「渇水都市」だなどという思いもあった。対して静岡は水路が多い他、街中には駿府城の堀が豊かな水辺景観を供給している。また青葉通のゴロンゴロンや常磐公園の噴水、駅前の人工滝、紅葉山公園など、人工的な水場もよく整備されている。また清水や用宗・安倍川駅、大浜、久能などは言うまでもなく大海に近い。また全体的に平坦な低地である為、淡水が「よく馴染んで」存在している様にも感じる。例えば安倍川は、一年のほとんどに於いてほぼ「渇水」して砂利であり、表面をちょろちょろと流れるのみであるが、それ故に広瀬川の様に流される心配とはほぼ無縁である。仙台は基本的に坂なので、水の流れも急であり、ついでに言えば空気も乾燥しており、水に親しむという意味ではどうしても負に働いてしまっている様に感じてしまう。並置出来ているかは不明だが、以下に静岡と仙台のそれぞれの「河川流域図」を載せておく。もし並置できているとしたら、その差は明らかである。

https://www.city.shizuoka.lg.jp/s9568/s007948.html
https://www.city.sendai.jp/kasen-chose/kurashi/shizen/midori/kasen/toiawase.html

〜本旨
その様な中に於いても、護国神社の水景・水環境は特段に豊かであり、質も高く、象徴的な位置付けを占めている。
私には、護国神社に湛えられた文化の水が、静岡平野全体に拡がっている様なイメージを感じられたのである。

⊡ 市街との繋がり(周辺環境)

宮前町
静鉄
国道1号線の正面に富士山が見える良スポット。

⊡束文

時間的にも文章的にも、余りにも長くなってしまった。本当はもっと色々と書きたかったのだが、所与の目的をほとんど達せられる事なく、また副産物も収穫が遅く、総合して60%程度の達成度と云える。
何より、ただでさえ逼迫している人生が、この文章の執筆のせいでさらに苛烈に逼迫している。これ以上引き延ばす訳にはいかない。

○附置感想
・これには下書きがあるのだが、下書きの方が簡素簡潔かつ素直で読みやすく、悲しくなった。読みやすくしようと軟派に間を開けてみたり、文章の間に写真を挟んでしまったり、効率的であるべきという言語規範を忘れてしまったり、根拠もどき等という要らないものを付け足したりしたせいで、テンポが悪くなってしまったのだろうと思う。勿論試してみなければ発見も無かったのだから、すべきではなかったとまでは言わないが、自分は、文章や文字、表現を以て価値を剔抉したかったのであり、原文ではよりそれが出来ていたのだった。それが上記の理由で、上手くいかなくなってしまった。間については修正はしたが、元々あった筈の味が失われてしまった訳で、悲しくはある。

・また書いてみて幾つか気付いた事がある。まず第一に自己の修辞法について、総論・序文→各論・具体 (⇆側文・関連事) の形式を取る事だ。第二に、こういう文章を「原典」として、(出て来る単語とか概念とかを)研究とかしていけば良かったのだという事に、今更ながら気付いた。第三に、自分は政治論・社会論・言語論 (国家国民論)あたりが好きで、無意識的に大きな影響を受け、断片的にではあるが、人格と思想に統合している事である。

①は以上。

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