大岡弥四郎事件に関する一考察〈史実編〉


はじめに

 大岡(大賀)弥四郎事件については『三河物語』や『武徳編年集成』といった歴史編纂書に基づき、徳川家中で卑しい身分から出世した大賀弥四郎が計画した謀叛であったとして柴田顕正『岡崎市史』や中村孝也『家康伝』などでは描かれてきた。しかし、新行紀一が『新編岡崎市史』中世で大岡弥四郎は「岡崎町奉行」「諸事支配人」といった要職に就いた人物であり、事件は信康の母である築山殿や石川春重・松平親宅といった信康の上級家臣も関与し、西三河一帯を震撼させた「信康家臣一揆」とでもいうべき事態であったと考察した。さらに、柴裕之は天正三年の武田勝頼の三河侵攻は大岡弥四郎一派の謀叛計画に呼応して行われた軍事活動であったと指摘した (1) 。
 新行紀一・柴裕之の研究は平山優 (2) ・丸島和洋 (3) ・本多隆成 (4) ・黒田基樹 (5) といった研究者たちにほぼ継承されている。そして、大岡弥四郎事件は浜松の家康を中心とする対武田家主戦派と岡崎の信康周辺による路線見直しを求める親武田家派との抗争であったとして捉えられ、松平信康事件は大岡弥四郎事件に連動して関係者の処断が行われた事態であったとされている。

 しかし、現在の研究動向の大元となっている新行紀一の研究は再考すべき余地も多々存在するのではないかと思われる。そこで、本稿では大岡弥四郎事件に関する研究への各種の疑義を呈することで、徳川家・武田家の双方におけるこの事件の意味合いを改めて考察することを目指してみたい。

事件の背景に関する考察

「大岡弥四郎」と「大賀弥四郎」

 「大岡弥四郎」は松平・徳川中心史観の影響を受けて「大賀弥四郎」に変えられたという言説(平山2014年、柴2015年、黒田2022年など)が流布しているがそれは事実であろうか。
 『三河物語』およびそれを参照したであろう歴史編纂書(『家忠日記増補追加』『武徳大成記』『武徳編年集成』など)では「大賀弥四郎」とあり、『三河記(紅葉山文庫蔵)』『治世元記』『岩渕夜話集』や地元伝承の史料である『松平氏由緒書』『三河(岡崎)東泉記』『伝馬町旧記録』では「大岡弥四郎」として記されている。そして、江戸幕府が諸家の系譜を取りまとめた『寛永諸家系図伝』のうち大岡清勝伝には「大屋弥四郎」、山田重次伝には「大岡弥四郎」とあり、『譜牒餘録後編』十六の山田市兵衛伝には「大岡弥四郎」として記述されている (6) 。
 ここから「大賀弥四郎」として記しているのは『三河物語』およびそれを参照した史料群、「大岡弥四郎」として記しているのは『三河物語』とは異なる出典を参照したであろう史料群(地元伝承の史料を含む)、諸家の系譜を編纂した歴史書という傾向が読み取れる。また、江戸幕府が編纂に関与した複数の史料で「大岡弥四郎」が散見されることから、「松平・徳川中心史観によって大岡の名前が変えられた」という言説は不正確といえよう。
 『三河物語』を記した大久保忠教は永禄3(1560)年出生とされているため天正3(1575)年時点では15歳である。また、『三河物語』は寛永3(1626)年四月以降、遅くとも寛永9(1632)年頃に成立したといわれているので大岡(大賀)弥四郎事件からは約50~55年の時間が経過している (7) 。このような当時の忠教の年齢や『三河物語』成立までの所要時間を考慮すると、「大賀弥四郎」という名は忠教の単なる誤認識であった可能性も想定できないか。そして、諸家から呈出された複数の家譜で名前が一致していることから「大岡弥四郎」が本当の名前であろう。

 以下では「大岡弥四郎」に統一して記述を進めていくこととする。

大岡弥四郎の出自

 大岡弥四郎は『三河物語』では「家康御普代久敷御中間」の身分から「奥郡廿余郷之代官」に出世したが、家康に対して逆心を抱いた悪辣な人物として描かれている。その他には『家忠日記増補追加』およびそれを参照したと思われる『武徳大成記』『武徳編年集成』では弥四郎を「卑賎ノ者」「奴隷」の出身であったと記述している。このような弥四郎の身分について柴田顕正や中村孝也の研究ではそのまま踏襲されてきた。
 しかし、新行紀一は弥四郎の身分について疑義を呈した。大賀氏もしくは大岡氏は松平・徳川家中に仕えた譜代の家臣であり、弥四郎がそれらの家の出身であるならば近世的な意味での「中間」や「奴隷」には該当しない。そして、弥四郎は「岡崎町奉行」(『三河東泉記』)、「諸事支配人」(「伝馬町旧記録」)として「岡崎城下や信康直領、さらには家康蔵入地の支配全般を統括する職であった」(新行1989年)と指摘したのである。
 新行紀一以降の研究においては大岡弥四郎を岡崎衆の上級家臣、信康家臣団の有力な一員であったと見做す研究が主流となった。弥四郎を「奴隷」出身であったとする記述は謀叛人に対する侮蔑的な評価に基づいて付与されたのであろう。しかし、『三河物語』の「家康御普代久敷御中間」という記述を作為の一環として捨象してしまってもよいのであろうか。
 『寛永譜』から確認できる松平・徳川氏のもとで町奉行を務めたという大岡氏の家系を確認してみよう。大岡介宗(孫右衛門尉)は松平広忠に仕えて三河で町奉行を務め、その息子である介次(孫右衛門尉)は家康に仕えて遠江で町奉行を務めたという。そして、介次の息子である清勝(傳右衛門尉)は家康に仕えて一揆の退治や三方原合戦で軍功を挙げ、大岡(大賀)弥四郎事件においては弥四郎を生け捕りにしたと伝わる。また、清勝の弟である正成(与三右衛門尉)は家康の命令で松平信康に仕えたという。
 介宗、介次、清勝、正成を輩出した大岡氏から確認できる特徴は、何れも「〇右衛門尉」という仮名を有することである。また、清康・広忠から仕えてきた大岡某の家系に連なり、信康に仕えたという義勝の仮名も「七右衛門尉」である。このような特徴から、大岡弥四郎は代々町奉行を務めた介宗の家系や清康・広忠から仕えてきた某の家系とは異なる大岡氏の出身、もしくは、これらの大岡氏の傍流の出身であったと考えるべきであろう (8) 。新行紀一は上級家臣の庶流と中下級家臣の付与によって信康家臣団は成立していたと述べるが、ここからも弥四郎の出身について推測できる。そのように考えると、弥四郎を「家康御普代久敷御中間」の出身とする『三河物語』の記述は大きく間違っていたとはいえないのではなかろうか。
 本稿では、大岡弥四郎は大岡氏の本流の出身ではなかったものの家康からその才覚を買われて「奥郡廿余郷之代官」もしくは「岡崎町奉行」「諸事支配人」に出世した人物であったと考えたい。

江戸右衛門七

 『岡崎領主古記』「伝馬町旧記録」には岡崎町奉行を務めた人物の一人として江戸右衛門七が挙げられている。『三河東泉記』によると江戸右衛門八(原文ママ)は築山殿や大岡弥四郎たちの謀叛グループの一員であったが、山田八蔵の密告で謀叛計画が漏れて切腹に追い込まれたという。また、「伝馬町旧記録」では謀叛グループの一員ではなかったものの岡崎町奉行の役職にありながら謀叛を防止できなかったという理由で切腹させられたという。つまり、地元伝承の史料に基づくと、江戸右衛門七は岡崎町奉行の要職にあり、大岡弥四郎事件の際に何らかの理由で切腹させられたとなる。
 江戸右衛門七が岡崎町奉行を務めていたことは事実であろう。『寛永譜』のうち松平康安伝によると、三方原合戦の際に康安は馬に乗って退却しようとしたが、傷を負っていた「参州岡崎の町奉行右衛門七」が「もし私を助けなければ康安は勇士ではない」と呼ばわったので止む無く馬を降りて右衛門七を乗せたという。
 それでは、大岡弥四郎事件に際して江戸右衛門七は切腹させられたと考えても良いのか。ある史料を提示することで別の可能性を考えたい。

「(朱書)本書竪紙」
  覚
一木曾之事、種々申分候之条、於明延者、急度番等可申付事
一河中嶋両郡堺目数ヶ所、景勝押領事、なにとそ令行、取返し可申事
一佐・奥両郡へ、新道を二筋可付之由、申事ニ候、上下迷惑不過之候、幾重も達而御詫言可申心底之事
 已上、
「(朱書)按天正十一癸未年也、」
 六月十六日     貞慶御判
  江戸衛門七殿

「御書集」〇笠系大成附録(『信濃史料』巻十六)

 上記の史料では、小笠原貞慶が上杉景勝によって押領された川中島近辺の領地を取り返してもらうことを依頼し、佐久郡・奥郡への新道開拓は困難であることを徳川方に伝えるために石川数正の家臣である「江戸衛門七」に宛てた書状である。『笠系大成』巻七の貞慶伝によると貞慶嫡子・幸松丸(後の秀政)は徳川方への人質として岡崎に送られた際に石川数正の館に置かれ、「江戸右衛門七」が目付として付けられたという。

或時家康卿請通密使於貞慶属我旗下貞慶不豫然不能固辞諾之家康卿使幸松丸迎三州岡崎按幸松丸到三州者天正十一年癸未二月乎也為質附託家臣石河伯耆守康昌居彼館以江戸右衛門七者為目付

『笠系大成』巻七(大日本史料総合データベースを参照)

 ここで考えてみたいのは「参州岡崎の町奉行」(『寛永譜』)を務めた江戸右衛門七と石川数正の家臣となった江戸右衛門七は同一人物であったのかということである。さらに、大岡弥四郎事件では江戸右衛門七は何らかの理由で切腹に追い込まれたとされているが果たして事実であったのだろうか。
 新行紀一は家譜や歴史編纂書を用いて信康家臣団の様相を復元しているが、信康死後に石川数正に仕えた家臣として安藤定次・中根甚左衛門・松平康安が挙げられている(新行1989年)。数正は信康事件以降に岡崎城代を務めたが、それに伴って信康家臣団の一部を吸収することになったと考えられよう。江戸右衛門七についても『三河東泉記』や「伝馬町旧記録」といった地元伝承の史料では大岡弥四郎事件の際に切腹したとされるが、それらの家臣たちと同様に松平信康の死後、石川数正に仕えたと考えられないか。記して後考を待ちたい。

石川春重と松平親宅

 新行紀一は『三河東泉記』に「小河城主石河修理亮子豊前守一同切腹被仰付候」という記述があることから、『寛政譜』を用いて「豊前守」を石川春重と推定し、大岡弥四郎事件において「武田勢の進攻をひかえた天正三年春の時点では、大岡を見せしめとし石川を切腹させるという形で、出来るだけ小事件にみせかけ」たと説明する(新行1989年)。
 しかし、石川氏関連の家譜や系図を確認してみると異なる様相が見えてくる。『寛永譜』には「東照大権現へつかへ奉る」とあり、春重が切腹した具体的な年月は記述されていない。また、石川氏に関連する系図での春重に関する記述を参照してみると下記の通りとなる。

〇「石川系図」(安城市歴史博物館所蔵「摂津守様御尋ノ書付」所収) (9)
「康正 豊前守 岡崎信康御守 天正七年切腹」

〇「石川家系譜難破録」(亀山市歴史博物館所蔵) (10)
「康正 三河小河城主 始康昌 右馬允 系在別 豊前守(中略)
仕岡崎三郎信康君天正七年自盡」

〇「石川家系図」(本證寺文書所収) (11)
「康正 豊前守 岡崎信康公御守 天正七年切腹」

 上記の家系図においてはいずれも康正の名前で記述されている。「石川系図」「石川家系図」では忠輔(伝太郎、右近大夫(「石川系図」)もしくは左近大夫(石川家系図))の息子、「石川家系譜難破録」では清兼(安芸守)の息子という相違点はあるが、康正(春重)が松平信康の御守役を務めて天正七年に切腹したという記述は一致している。
 『三河東泉記』において、石川豊前守の切腹は松平信康事件の後に記述されている。そのため、石川春重(康正)は信康事件に連座する形で切腹させられたと石川家関連の系図史料とあわせて考えるべきであろう。

 松平清蔵親宅(念誓)について、新行紀一は『寛政譜』の記述から天正三年の大岡弥四郎事件に際して信康のもとから致仕して蟄居したと述べる。そして、松平親宅の致仕は築山殿や大岡弥四郎、石川・松平などによる謀叛計画が発覚したことによる処断であったとされており、後の研究においても継承されている(平山2014年、黒田2022年など)。
 しかし、『寛永譜』では「東照大権現につかへたてまつりて三州長沢におひて御代官をうけたまはるか」とあって致仕に関する記述は確認できない。また、『松平甚助先祖由緒書』では「(親宅は)信康公若気之儀有之候ニ付、毎度御諫申上候得共御承引不被為在候ニ付、天正二年御役差上」、出家して念誓を名乗り籠居したという。これらの記述では信康と親宅との対立は見受けられるが、大岡弥四郎事件に関連するような内容は確認できない。

 新行は大岡弥四郎たちの謀叛計画は西三河一帯を震撼させる信康家臣団一揆であったと指摘しており、そのストーリーに基づいて石川や松平といった岡崎家臣団の重臣層も謀叛計画に関与していたと述べている。しかし、彼らの事件への関与は諸史料(家譜や歴史編纂書)から確認できず、あくまで新行が描くストーリーに基づいた憶測というしかないであろう。

大岡弥四郎一派の謀叛計画

 大岡弥四郎たちによる謀叛計画について、『三河物語』では家康が岡崎城に入城するときに弥四郎が馬前に立って開門を命じる立場を利用して岡崎城に武田勢を引き入れ、信康を討ち取って城内の人質たちを掌握すれば徳川方の将兵たちはことごとく降参し、浜松から脱出した家康を討ち取ることができることを見越した計画であったという。また、『三河東泉記』では吉良庄に旗百本を立てて敵軍がいるように偽り、武田勢を大樹寺口から引き入れて三河を占領させるという計画であったと述べる。
 あくまでも二次、三次史料ではあるものの『三河記』(紅葉山文庫所蔵)によると、大岡弥四郎たちは岡崎城の占領以外に別の計画を立てていた可能性がある (12) 。「悪党ヲカリ催シ先足助ノ城ヲ乗取勝頼ヲ岡崎ヘ引入ント調儀スル(悪党たちを呼び集めて足助城を乗っ取り、武田勝頼を岡崎城に引き入れよう)」とあり、足助城の乗っ取りも計画に含まれていたというのである。『治世元記』『岩渕夜話集』『松平氏由緒書』によると、大岡弥四郎は各地で一揆を起こして武田勢を岡崎に引き入れることを企図していたという。このように考えると、大岡弥四郎たちの計画は岡崎城周辺には留まらず、奥三河を巻き込んだ広域にわたる計画であった可能性が考えられよう。
 また、大岡弥四郎が岡崎城に武田勢を引き入れようとしたのはどのような目的があったのか。『三河物語』はその目的の一つとして松平信康の殺害を挙げているが、もう一つの目的として挙げられてる「徳川家が国衆から集めた人質たちの掌握」について本稿では注目してみたい。

 返々三郎き、その方まかせ申候、此かたなのきハ、なんとに御おき候へく候、一ゑもん可申候
その方儀ハ三郎に付、るすの事尤候、此国衆人しちあせりこと〳〵く取申候、御心やすく候へく候、三郎事其方まかせ申候、恐々謹言、
 十月二日     家康(花押)

關戸守彦氏所蔵文書(中村孝也『新訂徳川家康文書の研究』上巻を参照)

 これは徳川家康が信康の守役を務めた平岩親吉に宛てた書状とされており、「此国衆人しちあせりこと〳〵く取申候、御心やすく候へく候(三河国衆の人質はことごとく取ったので安心してほしい)」とある。この文書からは岡崎における信康の統治基盤を安定させるために家康が三河国衆の人質を集めていたことが分かる。岡崎城に国衆の人質を集約させる体制は大岡弥四郎事件以降も続いてたことは『家忠日記』から確認できる。

 九月大(中略)
同五日、癸丑、同普請候、家康より鵜殿善六御使岡崎在郷無用之由、被仰越候、(中略)
同廿二日、庚午、(中略)戌刻ニ吉田左衛門尉所より、家康各国〇岡崎在郷之儀無用之由申来候、
同廿三日、辛未、在郷ニ付而、鵜殿八郎三郎、松平太郎左衛門、我等両三人之所より、石川伯耆、平岩七之助所江使者をつかハし候ヘハ、早々在所江越候へ由申来候、(中略)
同廿六日、甲戌、西刻迄雨降、ふかうすへ女とも引越候、われら□□□□候、(中略)
同廿七日、乙亥、ふかうすへ越候、人足あらため越候、(中略)
 十月小(中略)
同六日、甲申、在郷御禮ニ濱松へ勘解由左衛門越候、

『家忠日記』天正六年条(『増補史料大成19 家忠日記』、臨川書店、1979年)

 天正六年九月五日に家康は国衆に「岡崎在郷無用」を通達し、二十二日には酒井忠次からも「岡崎在郷之儀無用」と伝えてきたという。二十三日には鵜殿長信・松平景忠・松平家忠の三人が石川数正・平岩親吉の使者を遣わすと「早々在所江越候へ由」を申し伝えてきたという。そこで、二十六日は家忠の妻子が岡崎から深溝に移り、二十七日には家忠も引き上げたという。
 当主やその妻子が「岡崎在郷」することは国衆にとっても負担となり、在所への帰還を許されるのは喜ばしいことであったため家忠は「在郷御禮」のために浜松に使者を遣わしたことが『家忠日記』に記述されている (13) 。
 国衆から集めた人質たちを岡崎に集約させる徳川家の体制は元亀~天正年間を通じて継続されていたことが分かる。大岡弥四郎が武田勢を岡崎城に引き入れようとした背景にはこのような徳川家の人質政策が絡んでいたと考えられないか。『三河物語』では岡崎城を占拠して城内の人質をことごとく奪い、家康の近辺を守備する者たちは小身なので人質を押さえてしまえば武田方に寝返るであろうという見通しを述べているが妥当なのかもしれない。

天正三年の武田方による三河侵攻との関係性

 柴裕之は山県昌景や武田勝頼が発給した書状を用いて天正三年の武田方による三河侵攻は畿内における足利義昭勢力や大坂本願寺と連携の上で実施されたこと、徳川方の内紛であった大岡弥四郎事件に呼応して実施された軍事活動であったことを指摘した。このうち「武田方の三河侵攻が大岡弥四郎事件に連動して行われた」という指摘が事実であったのか考察してみたい。
 まず武田家関連の発給文書や『甲陽軍鑑』では大岡弥四郎一派に呼応して岡崎城を占拠しようという計画について全く触れられていないことを指摘しておきたい。勝頼は三月二十四日付けで上野国衆の安中景繁に「計策之首尾相調候条、来朔日令出馬候(「計策之首尾」が整ったので来月朔日には三河へ出馬する)」と報じている (14) 。この書状のうち「計策之首尾」を大岡弥四郎一派との連携であったと考えられそうである。しかし、武田方は後に浅賀井・阿須利・八桑・大沼・田代といった奥三河の諸城を自落に追い込んでおり、「計策之首尾」はこれらの諸城に対する内通工作ではなかったのか。
 ところで、山県昌景などが率いた武田方の先衆と武田勝頼の侵攻過程をまとめると下記の通りである(平山2014年、柴2015年)。

天正三年三月~四月の武田方の徳川領国への侵攻過程
天正三年三月~四月の武田方の徳川領国への侵攻過程 参考地図

 平山優は大岡弥四郎事件の発生時期を武田方の先衆による足助侵攻との連動より天正三年三月ではないかと考察した(平山2014年)。しかし、『三河物語』ほかの諸史料では勝頼は奥三河への侵攻の道中で事件の露見を把握したように描かれているため、父の武田信玄の三周忌法要を済まして出陣してきた天正三年四月中旬頃に発生した事件と考えられないか。
 大岡弥四郎事件を天正三年四月中旬頃に発生した事件であったと考えると、勝頼は菅沼定盈が籠る大野田城や徳川方の吉田城が健在の状況下において岡崎城の攻略を想定していたことになるが果たして実現可能であったのか。また、卯月二十八日付けで杉浦紀伊守宛武田勝頼書状には「随而不図当表出馬為始三州足助城、近辺之敵城或攻落、或自落、万方達本意候」とあり、足助城や「近辺之敵城」(野田城、浅賀井・阿須利・八桑・大沼・田代の諸城)を攻略したことで「万方達本意候(万事思い通りになった)」と述べている (15) 。ここからはあくまで武田方の当面の目的は奥三河の諸城の攻略であり、岡崎城の占拠は副次的な目的でしかなかったとも考えられよう (16) 。
 本稿では、武田方の三河侵攻の目的は大坂本願寺への攻撃を行う織田信長への「後詰第一之行」であったとする柴の指摘は首肯できるが、「大岡弥四郎事件に連動して行われた」という指摘には疑問符を付けておきたい。

むすび

 ここまで大岡弥四郎事件に関係する人物や謀叛計画の背景について諸史料を用いて考察してきたが、下記でまとめてみよう。

① 大岡弥四郎が松平・徳川中心史観の影響を受けて「大賀弥四郎」に変えられたという言説は事実ではないと思われる。また、弥四郎は松平・徳川氏のもとで町奉行を務めたという大岡氏の家系とは異なる出身、もしくは傍流の出身であったと推測できるため、『三河物語』の「家康御普代久敷御中間」という記述は大きく間違っていないのではないか。

② 『三河東泉記』や「伝馬町旧記録」は、弥四郎と同様に「参州岡崎の町奉行」の立場にあった江戸右衛門七が事件の関係者として切腹させられたと記述する。しかし、後年の史料から同姓同名の人物が石川数正の家臣として仕えていることが確認できるので、右衛門七は存命して信康死後にその家臣団が解体されてから数正に仕えた可能性も指摘できるのではないか。

③  新行紀一はこの事件を信康の母である築山殿や石川春重・松平親宅といった信康の上級家臣も関与した「信康家臣一揆」として定義したが、家譜や系図史料からは石川や松平といった信康の上級家臣が事件に関与したという記述は確認できなかった。

④ 大岡弥四郎たちの謀叛計画は『三河物語』などでは武田勢の引き入れによる岡崎城の占拠として描かれている。また、二次、三次史料ではあるものの『三河記』(紅葉山文庫所蔵)などは各地の一揆を煽動して奥三河の諸城を攻略するような計画が存在した可能性を示している。また、岡崎城の占拠は同城で抱えている国衆の人質たちの掌握を企図するものであった。

⑤ 大岡弥四郎事件の発生時期は天正三年四月中旬頃と推定する。大岡弥四郎一派との連動で武田方による三河侵攻が実施されたという見解があるが、武田家関連の発給文書や『甲陽軍鑑』で弥四郎一派との連携には触れられておらず、当初の目標は足助城などの奥三河地域の制圧であったと考えられる。

 これらの考察からは、大岡弥四郎事件について「浜松の家康を中心とする対武田家主戦派と岡崎の信康周辺による路線見直しを求める親武田家派との抗争」として徳川家中を震撼させる大規模事件であったと捉えるのではなく、『三河物語』が描くように大岡弥四郎を首謀者として信康の中・小級家臣によって計画された小規模な事件であったと考えるべきではないか。
 それでは、徳川家と武田家との双方における大岡弥四郎事件の意味合いを考えてみたい。徳川家にとっての大岡弥四郎事件は徳川領国である三河の不安定化を象徴する事件であったという意味合いを有する。しかし、この事件には信康の上級家臣は関与しておらず、徳川地域「国家」の存立危機を巡るような重大な事件ではなかったと考えられる。また、武田家にとっては三河侵攻における当初の目的は奥三河の諸城の攻略であり、大岡弥四郎一派との連動による岡崎城の占拠は副次的な目的に過ぎなかったのではないか。
 大岡弥四郎事件を捉え直すことは松平信康事件を再考するにあたっての重要な材料になり得る。いずれの事件においても徳川地域「国家」の存立を巡って家康を中心とする反武田路線派と信康周辺の岡崎衆を中心とする路線見直し派との対立が存在したとされている。しかし、本多隆成は大岡弥四郎事件の苦い教訓があったことから、松平信康事件の際には家康を中心とする反武田路線派に対抗できるような信康家臣団は存在しなかったと述べる(本多2017年)。さらに、本稿で考察してきたように大岡弥四郎事件が小規模な事件でしかなかったとすると、現在の研究状況は徳川家中の動揺を過度に強調し過ぎている傾向にあるのではないか。今後の研究の進展を期待したい。

(1) 柴裕之「付論 長篠合戦再考-その政治背景と展開-」(同『戦国・織豊期大名徳川氏の領国支配』(岩田書院、2014年)所収、2010年初出)、同「第2章 松平信康事件は、なぜ起きたのか?」(渡邊大門編『家康伝説の嘘』所収、柏書房、2015年)
(2) 平山優『敗者の日本史9 長篠合戦と武田勝頼』(吉川弘文館、2014年)、同『武田氏滅亡』(KADOKAWA、2017年)、同『武田三代 信虎・信玄・勝頼の史実に迫る』(PHP研究所、2021年)
(3) 丸島和洋『武田勝頼 試される戦国大名の「器量」』(平凡社、2017年)
(4) 本多隆成「松平信康事件について」(『静岡県地域史研究 第七号』2017年9月)、同『徳川家康と武田氏 信玄・勝頼との十四年戦争』(吉川弘文館、2019年)
(5) 黒田基樹『家康の正妻 築山殿 悲劇の生涯をたどる』(平凡社、2022年)
(6) 「大岡弥四郎」と「大賀弥四郎」の表記違いを含めた大岡弥四郎事件に関連する歴史的史料の変遷について、前回のnote記事で考察した。

https://note.com/turedure7014/n/nf1901447f810

(7) 高木昭作「三河物語の成立年について」(『東京大学史料編纂所報』第5号、1970年)、齋木一馬「『三河物語』考」(日本思想大系26『三河物語 葉隠』所収、岩波書店、1974年)
(8) 新行紀一は大岡弥四郎の出自に関連して後本多家家老の中根氏系譜において中根正照の女が「大岡弥四郎妻 弥四郎為岡崎城代謀叛、子孫尽滅」と記されていることを紹介している。しかし、同系譜は中根信照(後に忠実)について「大権現常憫正秋無子使信照為嗣(大権現は正秋に子が無いことを憐れんで信照を嗣子とした」と記述するが、谷口克広は『織田信長家臣人名辞典 第2版』において否定しており、同系譜の信憑性は不明である(『中根家文書』上巻(岡崎市、2002年))。
(9) 安城市歴史博物館『特別展 安城ゆかりの大名 家康を支えた三河石川一族』(2018年)を参照
(10) 「亀山市歴史博物館所蔵 加藤家文書 その4 目録4」を参照
亀山市史 史料編 (kameyamarekihaku.jp)
(11) 神田竜也「本證寺家老石川家覚書-系図の史料紹介を中心に-」(『新編安城市報告書3 本證寺文書史料集「諸事記」』所収、2003年)
(12) 『三河記』という題名を持つ史料は百点近くの異本が存在しており、江戸幕府は天和3(1683)年に官撰事業として『三河記』の定本作成を進めて『武徳大成記』を完成させたという。本稿で用いた『三河記』(紅葉山文庫所蔵)は幕府の御蔵に保管されていた上中下三巻本であり、比較的早い時期に成立したとされている。あわせて播磨良紀「今川義元の西上と〈大敗〉-桶狭間の戦い」(『戦国合戦〈大敗〉の歴史学』所収、山川出版社、2019年)を参照した。
(13) 新行紀一の研究以来、家康が松平家忠を含む三河国衆に対して「岡崎在郷無用」を通達したのは「信康と国衆の関係の親密化を防ごうとしたもの」とされている。しかし、同時期は駿河を巡る武田方との合戦が継続しており、牧野城や岡崎城の普請に従事しなければならないなど三河国衆にとって過重な負担が掛かっていたと推測できる。そのため、家康は三河国衆に掛かる負担の軽減策として「岡崎在郷無用」を通達したのではないか。妻子を含めた在郷が家臣にとって負担になっていたことは太田牛一『信長記』に記載されている弓衆福田与一や井戸将元の事例から確認できる。
(14) 『戦国遺文武田氏編』第四巻 2473号
(15) 『戦国遺文武田氏編』第三巻 1701号
(16) 卯月十四日付け天野藤秀宛穴山信君書状のうち「向于尾・三両州出勢之趣相聞」や卯月二十八日付け杉浦紀伊守宛武田勝頼書状のうち「此上三・尾国中へ令乱入可決是非候」より、当初から勝頼は織田信長や徳川家康との決戦を志向していたと考察する向きもある。しかし、遠江国衆の天野藤秀や大坂本願寺坊官杉浦紀伊守に宛てた書状には対外への誇張表現が含まれている可能性もあるため注意しなければならないであろう。また、太田牛一『信長記』によると武田方の足助方面での活動に対して織田信忠が尾張衆を率いて出陣したが、合戦には至らず信忠は帰陣したという。このように奥三河で軍事活動を行う武田方が織田方との合戦に至らなかったことから、武田方が当初は織田・徳川方との決戦を志向していなかったと推測できないか。


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