大岡(大賀)弥四郎事件に関する歴史的な変遷の考察


序論

 大岡(大賀)弥四郎事件について、これまでは「御中間」もしくは「奴隷」の身分から出世した大賀弥四郎という人物が徒党を組み、武田勝頼の軍勢を岡崎城に引き入れて家康父子を討とうとした小規模な謀叛計画として捉えられてきた。しかし、新行紀一が大岡(大賀)弥四郎を「岡崎町奉行」(『三河(岡崎)東泉記』)、もしくは「諸事支配人」(『伝馬町旧記録』)として信康に仕える上級家臣であったと指摘し、柴裕之が天正三年の武田方による奥三河への侵攻がこの事件に連動した軍事活動であったことを一次史料を用いて考察したことから研究は急速に深化した。
 その後、この事件に関しては様々な言説が見受けられる。例えば、大久保忠教が記した『三河物語』は「大岡」弥四郎の名前を「大賀」に変えて、徳川譜代家臣による謀叛計画を意図的に隠蔽したという主張などである。これらの言説は根拠となる史料を用いて立証することができるのであろうか。
 本稿では大岡(大賀)弥四郎事件を記述する個々の史料を見直し、時間の経過とともにこの事件に関する記述が如何なる変遷を辿ってきたのか、そして、各史料から見い出すことができる特徴を考察してみたい。

本論

 大岡(大賀)弥四郎事件について記された一次史料は存在せず、その考察は二次、三次史料(歴史編纂書や家譜など)に拠らざるを得ない。本稿においては元文5(1740)年に成立した『武徳編年集成』を下限とする歴史編纂書に加えて、地元伝承の史料である『松平氏由緒書』『三河東泉記』『伝馬町旧記録』を対象にして比較検討していく。

大岡弥四郎事件に関する各史料の相関図(詳細は添付資料を参照のこと)

「大賀弥四郎」 or 「大岡弥四郎」

 「大賀弥四郎」という名前は『三河物語』をその起源とし、『家忠日記増補追加』『戸田本三河記』『濱松御在城記』といった史料が『三河物語』を参照して記述されたことによって後世に伝わったと考えられる。
 江戸幕府による歴史編纂書である『武徳大成記』『武徳編年集成』はその内容から『三河物語』『家忠日記増補追加』を参照して記述されたと推測できる。その理由はいずれの史料においても弥四郎を「大賀弥四郎」と記していることや下記のような特徴を見出すことができるためである。

・『武徳大成記』『武徳編年集成』は大賀弥四郎を「奴隷」の身分から出世したと記述するが、これは『家忠日記増補追加』の「(大賀は)卑賎ノ者タリト云ヘトモ」という記述を参照したことが推測できること。

・『武徳大成記』『武徳編年集成』における大賀弥四郎一派による謀叛計画の詳細な内容(岡崎城に武田勢を引き入れて人質もろとも占拠する)や捕縛された弥四郎が浜松・岡崎を引き回される描写が、『三河物語』『家忠日記増補追加』と同様の記述になっていること。

 また、「大岡弥四郎」と記されている史料群も存在する。『三河記(紅葉山文庫蔵)』『治世元記』『岩渕夜話集』といったものや『松平氏由緒書』『三河東泉記』『伝馬町旧記録』といった地元伝承の史料である。

 なお、『寛永諸家系図伝』の大岡清勝伝には「大屋弥四郎」、山田重次伝には「大岡弥四郎」と記されている。また、『譜牒餘録後編』十六の山田市兵衛伝には「大岡弥四郎」と記述されている。

 上記のような「大賀弥四郎」と「大岡弥四郎」が混在した史料の残存状況から考えると、『三河物語』が弥四郎の名前を「大賀」に変えて、徳川家中での叛乱事件を意図的に隠蔽したという言説は成立しないと思われる。それは『寛永諸家系図伝』『譜牒餘録』といった江戸幕府による歴史編纂書でも「大岡弥四郎」という名前が散見されるためである。つまり、「大岡弥四郎」という名前は江戸幕府にとって必ず隠蔽しなければならない名前ではなかったと考えられる。徳川家中には譜代家臣として大賀氏も大岡氏も存在したことが新行紀一によって指摘されており、『三河物語』の「大賀弥四郎」はあくまで大久保忠教の認識(誤記等の可能性も想定できよう)に基づく名前であることを忘れてはならない。

諸史料から確認できる謀叛計画者のメンバー

 謀叛計画者のメンバーについて、ほとんどの史料で大岡(大賀)弥四郎・小谷甚左衛門・倉地平左衛門・山田八蔵が挙げられているが、地元伝承の史料である『三河東泉記』『伝馬町旧記録』では、他の史料では見出すことができない謀叛計画者の名前が挙げられている。

・『三河東泉記』…「家康様御前月山様(築山殿)」、大岡弥四郎、松平新右衛門、江戸右衛門八、小谷九郎左衛門(甚左衛門の養子)、山田八蔵

・『伝馬町旧記録』…大岡弥四郎、松平新右衛門

 『三河東泉記』の記述の特徴は、築山殿が謀叛の首謀者として挙げられている点であろう。しかし、同史料における築山殿の謀叛計画への参加に関する記述は例えば唐人医師の関与があった点など『松平記』の信康事件における記述と似通っている箇所が多く、取り扱いには注意を要するであろう。

扨又御母築山殿モ後ニハメツケ井ト申唐人ノ医師ヲ近付テ不行儀ノ由沙汰有アマツサヘ
家康へ恨有テ甲州敵ノ方ヨリヒソカニ使ヲ越御内通有縁ニ可付トテ築山殿ヲ後ニハ迎取可申ノ由風聞ス誠に不行儀不大形剰御子ノ三郎殿ヲモソヽノカシ逆心ヲスヽメ給ハント聞ヘシ

『松平記』(文科大学史誌叢書、吉川半七等、1897年)

此時勝頼ヨリミコヲダマシ月山殿ノ御内ニテ下女に色〳〵トラセテ取入り下女より中間ニ取入後ハ奥上臈達迄ニ色〳〵ノ進物ヲ致シ取入、終にハ御前様御目見へ申上、能取入折節見合申上ルハ、若御前様ニ今度勝頼と御一味ナサレハ□御前ハ天下ノ御台と備天下無双ニ可仰、若殿ハ若君ト仕天下ヲ可相譲と申上ル時、其頃西慶と申唐人医有リテ御屋敷へ節々出、御前様ノ御意ニ入、是ヲ談合マキ入、

『三河東泉記』(岡崎市立中央図書館古文書翻刻ボランティア会、2013年)

 大岡弥四郎・松平新右衛門・江戸右衛門七の三人は「町奉行」(『岡崎領主古記』)や「諸事支配人」(『伝馬町旧記録』)として記されており、新行紀一・平山優・黒田基樹といった諸先学は彼ら三人を信康家臣団における有力な上級家臣であったと指摘する。しかし、一次史料によって彼ら三人の奉行人としての活動は確認できないためその実態は不明である。

小谷甚左衛門を追い詰めた徳川方の人物

 謀叛計画者の一人である小谷甚左衛門を遠江国領で追い詰めた徳川方の人物は『三河物語』『家忠日記増補追加』では服部半蔵正成と記されているが、『武徳大成記』『武徳編年集成』では渡邊半蔵守綱と記されている。服部半蔵→渡邊半蔵への書き換えはどのような史料を根拠として行われたのかは不明であるが、あるいは同じ「半蔵」からの連想による誤記であったのかもしれない。しかし、渡邊半蔵を採用している『武徳編年集成』が『武徳大成記』を参照して記述されたと推測する材料にはなり得るであろう。

山田八蔵は誰に謀叛計画を密告したのか

 『三河物語』では「山田八蔵が謀叛計画を報じた」と記されており、山田が誰に報じたのかは判然としない。『家忠日記増補追加』やそれを参照したと思われる『武徳大成記』『武徳編年集成』では山田八蔵が松平信康に謀叛計画を報じ、信康から家康に情報が伝達されたと記されている。
 また、山田八蔵以外から謀叛計画が漏れたことを記す史料も存在する。『治世元記』には逆心を抱いた穴山信君が家康に弥四郎の謀叛計画を密告したと記している。また、地元の伝承史料である『伝馬町旧記録』は塩商売のために信州へ行き来しており、天正二年に家康から「物見之役」を仰せ付けられていた八丁の者たちや「猿屋之者」たちが足助・武節周辺に派遣されていたことから弥四郎の謀叛計画が漏れたという話を伝える。

穴山信君の事件への関与

 穴山信君が大岡(大賀)弥四郎事件に関係したことを記す史料として『濱松御在城記』『治世元記』がある。『濱松御在城記』では弥四郎は穴山信君を通じて武田方に叛逆の意志を伝えたと記し、『治世元記』では弥四郎の謀叛計画は逆心を抱いた穴山によって家康に密通されたことが記されている。

磔に掛けられた大岡の妻子の人数

 弥四郎の妻子は謀叛計画の発覚後に磔に掛けられた。この妻子の人数が各史料から分類すると下記の通り三説に分けることができる。

・5人説
「念し原に、女房子共五人、張付にかけておく処」(『三河物語』)
「大賀カ妻其子四人ヲ捕テ三州念志原ニ磔ニス」(『家忠日記増補追加』)
「妻子五人ハ金子原ニ張付ニ懸ケ」(『戸田本三河記』)
「根石原父子五人斗ハリ付ニアガリ」(『三河東泉記』)

・8人説
「大岡妻子八人、於念志原行磔科」(『治世元記』)
「弥四郎父子、夫婦已上八人搦捕磔ニ被掛、其外同類悉く御成敗被成」(『岩渕夜話集』)
「其路次念志原ニ彼妻子八人ヲ桀ニ梟テ」(『武徳編年集成』)
「右ノ弥四郎親子八人女ばら壱そくまてはり津けニかけ給ふ」(『松平氏由緒書』)

・人数を明記せず
「彼弥四郎父子夫婦一類不残磔ニカケラレ同類御成敗」(『三河記』(紅葉山文庫所蔵))
「先ツ妻子ヲ念子原ニ磔ニス」(『武徳大成記』)
「其後根石原ニ而はり付女房一族御仕置被為仰付候」(『伝馬町旧記録』)

 上記のように分類すると、江戸前期には成立していたといわれる『治世元記』を境目として【5人説】は17世紀には成立していた史料が採用している場合が多く、【8人説】は18世紀には成立していた史料が採用している場合が多いように見受けられる。
 ここで注目したいのは『三河東泉記』『松平氏由緒書』に記された弥四郎妻子の人数である。『三河東泉記』は【5人説】を採用しており、『松平氏由緒書』は【8人説】を採用している。ここから『松平氏由緒書』の成立は18世紀頃まで下る可能性を想定できるのではないか。

大岡(大賀)弥四郎の死亡日数

 大岡(大賀)弥四郎は浜松・岡崎において市中引き回しにされた上で、首から下を生き埋めにされ、通行人に竹鋸を引かせて殺害されたことは各史料の記述でも一致している。しかし、大岡が死亡するまでの日数については各史料の記述が異なるため下記で取りまとめてみる。

・1日説
「鋸を取替へ〳〵引きけるほどに、一日之内にて引殺す」(『三河物語』)

・3日説
「弥四郎ハ濱松岡崎引渡シ竹鋸ニテ三日ヒカセラレケル」(『三河記』(紅葉山文庫所蔵))
「弥四郎ヲハおかさきの町四つ辻にくびきわまでうつミ竹のこきりにていていりのもの共に三日くひを引せ給ふ也」(『松平氏由緒書』)

・7日説
「岡崎ノ町口ノ辻ニ生ナカラ土中ニ埋テ竹鋸ヲ以テ是ヲ截シム七日ニシテ遂ニ死ス」(『家忠日記増補追加』)
「又岡崎ヘ引反テ生ナカラ通路ニ埋テ竹鋸ヲ以テ其頸ヲヒキテ七日ニシテ死タリ」(『戸田本三河記』)
「竹鋸ヲ置テ往来ノ者ニ是ヲ挽シムル所兼テ 神君ノ仁徳國中ニ溢レ土民彼ヲ憎ムノ至リ老弱羣参シメ是ヲ挽テ七日ニ乄遂ニ死ス」(『武徳編年集成』)
「大岡弥四郎連尺町大辻ノ此所ニテ、七日ニ竹ノコキリニテヒカレ」(『三河東泉記』)

・13日説
「依之捕於大岡、於岡崎四辻、以竹鋸引殺十三日」(『治世元記』)

 上記より『武徳編年集成』については『家忠日記増補追加』の記述が反映されている可能性を想定することができ、後年の江戸幕府による編纂史料における『家忠日記増補追加』の影響力を再確認することができる。その他には【3日説】【13日説】が存在するが、もしかしたら【13日説】は【3日説】の誤記かもしれない。明確な根拠は無いため可能性のみ指摘するに留める。

大岡(大賀)弥四郎事件に関する『三河物語』の特異性

 大岡(大賀)弥四郎事件に関する一つの疑問として、この事件が『三河物語』では記述されたにも関わらず、『松平記』『当代記』といった江戸時代初期に成立していた史料ではその記述が確認できないことが挙げられる。その理由として、特に大久保忠教にとってはこの事件を描くことによって徳川譜代の家筋として大久保氏の功績を誇示し、江戸幕府による譜代家臣の軽視を批判しながら子孫たちには譜代としての忠誠を果たす必要性を説く『三河物語』全体にも通底する目的が存在したためであろう。『三河物語』で強調されている大岡(大賀)弥四郎事件における大久保氏の功績とは、弥四郎が謀叛計画を語るときに「大久保一類共が、御敵を不申候う筋目之者にて候う間、可奉付(大久保一類は家康に敵対しない家筋の者なので、こちら側に付くことはないであろう)」と述べていること、捕縛された弥四郎は家康の命に応じて大久保忠世によって引き回されたことが挙げられる。
 また、『三河物語』の記述において、他の史料では確認できない特徴として大賀弥四郎夫婦の会話がある。これは齋木一馬・新行紀一等が指摘するような『三河物語』の作為の一環として捉えることもできようが、『三河物語』にしかこの記述が存在しないことから大久保忠教が主張したかったことはこの部分に凝縮されているのではないかと推測する。

大賀弥四郎ハ、是をバ夢窹知らずして、女房に向ひて申けるハ、「我ハ謀叛之企み、御主を打奉らん」と申けれバ、女房まことにもせずして、「ぢやれ狂者にも、いうべき事をこそ云たるもよけれ。さやうなる事を。いま〳〵わ敷。聞き度もなし」とてそばむけバ、弥四郎重て申けるハ、「夢々偽にあらず」と真し顔に申けれバ、其時、女房おどろきて、「げに〳〵、左様なる企をたくミ給ふか。さても〳〵、天道の尽果て給ふ者哉。上様の御蔭雨天蒙りて、何かに付て乏しき事ハなくして身を過ぎ申事をさへ、天道おそろ敷候らへバ、一度ハ御罰と当り可申と思へバ、御主様の御事おろかにも思ひ奉らず。其故、各々御普代久敷御侍衆立さへ我等が真似ハ成給ハぬに、況哉、御身ハ御中間之身なるを、か様に奥郡廿余郷之代官を仰被付候らへバ、何が御不足ハ有て、御謀叛をくわ立被申候哉。其儀を思ひとゞまり給へ。然らずンバ、我々子共共に刺殺して、其故にて謀叛をくわ立給へ。必ず御主様之御罰ハ忽ちに蒙りて、御身の果も、此世から呵責せられて、辛苦を受けて果て給ふべし。我身なども烙・張付にもあがりて、浮名を流さんも目の前なれば、只今刺殺し給へ」と申けれバ、其時、弥四郎申ハ、「女之身として、知らざる事を申物かな。其方をバ此御城へ移して、御台といわせん」と云けれバ、女房云ハ、「若も御台といわれゝバ祝言だが、いわれぬ時の不祝言ハの。御身聞き給へ。「仏法ハ実がいれバ傾く」と云、「人間ハ実がいれバ反る」と云ハ、御身之事なり」とて、其後物もいわず。

『三河物語』(日本思想大系26、岩波書店、1974年)

 大賀弥四郎がその妻に謀叛を打ち明けた場面であるが、弥四郎妻は「上様(家康)の多大なる恩恵を受けて、何の不自由もなく過ごすことができるのに天道恐ろしきことである。天罰が下ると思えば、御主人を疎かにしないはずである。長きにわたる御譜代の侍衆でさえ我等の真似はできない、まして奥郡二十余郷の代官に命じられているにも関わらず、どのような不足があって謀叛を企てようとするのか」と弥四郎の謀叛を止めようとしている。
 『三河物語』下巻では大久保忠教による子孫に対する教訓が滔々と述べられているが、その中で知行を取る者と取らない者について記されている。忠教は「飢へて死する共、此心持を持つべきなり」として子孫には知行を取らない者の心構えを忘れてはならないことを説いているが、知行を取る者の心構えとして挙げられているのは下記の通りである。

一、主人に弓を引いて、叛逆する者
一、卑怯なことをして、人に笑われる者
一、世間体が良く、御座敷で上手く立ち回ることができる者
一、算勘が得意で、代官役が板についた人
一、節操がない他国人

 大久保忠教が描く大岡(大賀)弥四郎の人物像はこれらの知行を取る者の心構えに該当する点が多いように見受けられる。大久保が『三河物語』を通じて主張したかったことは子孫に対して弥四郎のような人物を反面教師として徳川譜代の家臣として忠義を尽くすようにという教訓ではなかったか。『三河物語』に作為性を認めるならば、大岡→大賀に変更したことではなく、弥四郎夫婦の会話の創作に求めるべきであろう。

結論

 ここまで各史料において大岡(大賀)弥四郎事件が如何に描かれてきたのかを比較検討してきたが、見い出すことができた特徴をまとめてみよう。

① 大岡(大賀)弥四郎事件に関する江戸幕府の歴史編纂書の記述は『三河物語』を大元の下敷きとして、まずは『家忠日記増補追加』が編纂された。それらの史料を参照して『武徳大成記』が編纂され、最終的に『武徳編年集成』として纏められたという変遷が推測できる。それは『家忠日記増補追加』が記した「大賀は『奴隷』の出身」が『武徳大成記』『武徳編年集成』に反映されており、『武徳大成記』が記した「小谷新左衛門を追い詰めたのは渡邊半蔵」が『武徳編年集成』に反映されていることからも理解できる。

② 『三河東泉記』『伝馬町旧記録』といった地元伝承の史料について、一部の記述で17世紀中~後期に成立していた史料との共通点が存在しているものの、謀叛計画者のメンバーや謀叛計画の漏洩に関して他の史料では確認できない独自の記述を有している。ただし、これらの独自の記述は他の史料との突き合わせによって比較検討できないものが大部分なので、その信憑性には注意を払う必要があるのではないかと思われる。

③ 『三河物語』の作為について、弥四郎の名前を「大賀」に変えて、徳川家中での叛乱事件を意図的に隠蔽したという言説が存在するが、『寛永諸家系図伝』『譜牒餘録後編』といった江戸幕府の歴史編纂書においても「大岡弥四郎」という名前が確認できるので妥当ではないであろう。
 また、大岡(大賀)弥四郎事件に関する記述は江戸幕府草創期に成立した『松平記』『当代記』といった史料では確認できない。大久保忠教にとっては『三河物語』を通じて徳川譜代の家筋として大久保氏の功績を誇示し、江戸幕府による譜代家臣の軽視を批判しながら子孫たちには譜代としての忠誠を果たす必要性を説くという目的で記述する必要があったのであろう。そのため、大賀弥四郎事件の記述に大久保氏の徳川氏に対する忠誠を散りばめ、弥四郎夫婦の会話を創作することによって徳川譜代家臣として勤めるべき義務を説いたと推測できる。『三河物語』の作為はこの箇所に確認できる。

 本稿では各史料の大岡(大賀)弥四郎事件に関する記述の変遷を確認してきた。繰り返しにはなってしまうものの、この事件の考察においては大部分が二次、三次史料に拠らざるを得ないというのが現状である。しかし、それらの史料を比較検討することによって新たな指摘ができる部分も少なくないと思われるので別稿で考察してみたい。

主要参考文献

〇地方史

・『新編岡崎市史』2 中世(1989年)
・『新編岡崎市史』6 史料 古代・中世(1992年)
・『新編岡崎市史』7 史料近世 上(1983年)

〇史料

・『家忠日記増補追加』巻之五(早稲田大学図書館所蔵本を参照)
・『岩渕夜話集』(岡崎市立中央図書館所蔵本、岡崎市立中央図書館 古文書翻刻ボランティア翻刻一覧を参照)
・『治世元記』(内閣文庫所蔵、『大日本史料』第十編之二十九を参照)
・「伝馬町旧記録」(『新編岡崎市史』7 史料近世 上を参照)
・『戸田本三河記』中(内閣文庫所蔵、『大日本史料』第十編之二十九を参照)
・『浜松御在城記』巻九(内閣文庫所蔵本、国立公文書館デジタルアーカイブを閲覧)
・『武徳大成記』巻九(内閣文庫所蔵本、国立公文書館デジタルアーカイブを閲覧)
・『武徳編年集成』巻之十五(国文研データセットを閲覧)
・『松平記』(文科大学史誌叢書、七等、1897年)
・『松平氏由緒書』(松平親氏公顕彰会、1994年)
・『三河記』御庫本 下(内閣文庫所蔵本、国立公文書館デジタルアーカイブを閲覧)
・『三河東泉記』(岡崎市立中央図書館所蔵本、岡崎市立中央図書館 古文書翻刻ボランティア翻刻一覧を参照)
・『三河物語』(日本思想大系26、岩波書店、1974年)

・東京大学史料編纂所編『大日本史料』第十編之二十九(東京大学出版会、2017年)

〇編著書

・黒田基樹『家康の正妻 築山殿 悲劇の生涯をたどる』(平凡社、2022年)
・平山優『敗者の日本史9 長篠合戦と武田勝頼』(吉川弘文館、2014年)
・本多隆成『徳川家康と武田氏 信玄・勝頼との十四年戦争』(吉川弘文館、2019年)
・渡邊大門編『家康伝説の嘘』(柏書房、2015年)

〇論文

・柴裕之「付論 長篠合戦再考-その政治背景と展開-」(『戦国史研究叢書12 戦国・織豊期大名徳川氏の領国支配』に所収、2014年、2010年初出)
・高木昭作「三河物語の成立年について」(『東京大学史料編纂所報』第5号所収、1970年)


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