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中国語の連続についての一考察―中国語連続文法3―

【連続文法(注2)という観点から漢文・中国語を見る】

 さて、皆さん、三国志、ご存じですよね。私も大好きでございます。その三国志の全文が確認でき、しかも、全文に検索が掛けられる、しかも、操作言語と申しますか説明文が日本語、という、有難いことこの上無い、物凄いサイトを発見いたしましたので、共有申し上げます。

http://www.seisaku.bz/sangokushi.html

 「以諸葛亮爲丞相」 陳寿『三国志』

 さて、皆さん、こちらをどのように訓読なさるでしょうか。
 「諸葛亮を以て丞相と為す」ではないでしょうか。「以諸葛亮」でご検索いただくとご覧になれるのですが、これには続き(とみなせる部分)があります。

 「以諸葛亮爲丞相、許靖爲司徒。」 陳寿『三国志』

 なお、句読点は、原典に元からあったわけではなく、読みやすさのため、解釈の上、(ご編集の先生の方が、という理解で問題無いものと存じますが)振っている(おいでの)ものです。
 では、上記のこちらは、どのように訓読なさるでしょうか。
 「諸葛亮を以て丞相と為し、許靖を司徒と為す」
 或いは、
 「諸葛亮を以て丞相と為し、許靖は司徒なり」
 ではないでしょうか。前者は「許靖」の前に(省略等の理由からか、或いは、省略等でなく、そもそも「以」が「許靖」に文法的影響のようなものを及ぼすのは当然だというような見方もあり得るか)「以」が付いていない、という解釈で、後者は、「~は~だ」式にそのまま訓読した形です。
 なお、「以~为~」というのは、現代中国語にも普通にある表現です。毛沢東選集第一巻の冒頭の付近の部分にもこの表現は使われています。

 「以其本阶级为主体的“独立”革命思想」 毛沢東(1925/12/1)『毛沢東選集 第一巻』

 また、「私は日本人です」や「I'm Japanese」に対応するものとされる、「我是日本人」、「~是~」という表現は、書く際には「是」にせず、「~为/爲/為~」のようにすることもよくあります。なお、「~為~」というのは漢文にも普通にある表現です。
 なお、因みにですが、広東語の場合、この「为/爲/為」「是」に対応すると考えられる部分は、「係hai(広東語の6声)」に入れ替えることができる模様です。

 「以諸葛亮爲丞相、許靖爲司徒。」 陳寿『三国志』

 こちらの表現を図示(注1)してみましょう。

以諸葛亮爲丞相、許靖爲司徒。

 上から下に進み、下まで進んだら右(の一番上)に進みます(そのまま上から下まで進み、以降同じことを繰り返します)。この図示から、漢文や中国語というのは、中学校で習った英文法の、(本当はVともOとも異なる性質の何かなのだと存じますが便宜上そのように申します)「V+O」の連続(注2)のような構造だ、ということが見て取れるものと存じます。

諸葛亮爲丞相(諸葛亮は丞相なり/たり)

 そして、中学校で習った英文法の「S+V+C」に対応するかのような、(そのようになぜか単独のような形で言った場合の)漢文、中国語の表現「諸葛亮爲丞相」(諸葛亮は丞相なり/たり)は、上記の図示から見て取れるように、「以諸葛亮爲丞相」という表現から「以」を減算したようなものだ、ということがお分かりいただけるかと存じます。そう致しますと、表現の根本、基礎、基盤みたいなものからして、そもそも英語等とは全く異なる可能性がある、と考えざるを得ないもののように思われます。
 なお、ここで申し上げたいのは、このように考えた方が、少なくとも学習教育中国語文法(注3)としては、教えやすいし、伝わりやすい、分かりやすいのではなかろうか、ということでございます。
 英語の場合、文型という名でも呼ばれる「S+V+C」というのは、その、ここでそのように表記した「」内の範囲みたいなものが1つのまとまりのようなものだ、と意識されるものですし、そういう何かしら閉塞(注4)したようなものを文(センテンス/sentence)と呼ぶのだ、と中学以来教わって参りました。ですが、漢文や中国語は、そのような文法構造には、なっていない可能性があるもの、と存じます。
 漢文、中国語の場合、V+Oのようなものが、単文のようなもので、英語等に訳したときに、S+V+Cのようにせざるを得ないものは、V+Oのようなものの連続で、(勿論当然実際は複文とも重文とも違う性質の何かなのでしょうが)複文や重文に近いものである、と言えます。
 
 他の例文でも見てみましょう。

天帝使我長百獣

 「天帝使我長百獣」 編者:劉向『戦国策』

 こちらは、どう訓読なさるでしょうか。「天帝、我をして百獣に長たらしむ」ではないでしょうか。
 天帝が我(狐)にそうさせた、ということであれば、僭越な言い方かもしれませんが、天帝にそうさせた誰かが、更に存在する可能性もあるわけです。そういう表現が本当にあるかどうかは別として、構造からだけで言えば、そういう表現ができる可能性はあることになります。
 試しにそのような例文を作ってみましょう。道教においては、織女(織姫)は、天帝の娘ということのようなので、或いは、織女なら、天帝を、使役するのは、僭越である等の理由から、不可能だったとしても、お願いするくらいなら、あり得るのかもしれない、とも言えなくもないのかもしれない、とも思われます。それは、以下のような言い方になります。

織女請天帝使狐長百獣(織女、天帝に請ふ、狐をして百獣に長たらしめよ)

 そういう部分を謂わばオミットしたような言い方、誰かが誰かにそうさせているとか頼んだとか、そういう任務、職務、或いは、運命や天命みたいなものに就けているとか、そういう風には言わないような言い方、そうなっている経緯や理由みたいなものについてはオミットしたような言い方、それが、「諸葛亮爲丞相」(Zhuge liang is the/a prime minister)とか「我長百獣」(I'm older than all animals)とかの、英語等に訳したらSVCのような表現になるところの、言い方になるものと存じます。
 先程申した、単文みたいなものの連続というのを、改めて図示いたします。

天帝使我長百獣

【中国語文法の図示の実験アップデートバージョン】

 『中国語連続文法2』の投稿では、外形的にはSVOのようにも見えるような形で図示を試みました。ですが、そちらですと、アポコイヌ―のようなものの図示がしにくい、というのが一つの(他にも多々ありますが)要改善点でした。今回は、その部分を、実験的にではありますが、改善してみた次第です。
 『中国語連続文法2』の投稿でも、図示の実験として、使わせていただいた『BBCNEWS中文』の記事を、(前回より少し短くなりましたが)もう一度使わせていただきます。なお、相・用・体というのが何なのかというのは、こちらの投稿『中国語の最難関!?補語について3』でご確認頂ければと存じますが、便宜上の対照表をこちらに載せておきます。

便宜上の文法用語対照表
https://www.bbc.com/zhongwen/simp/chinese-news-57969735

 中学以来、一途に、と申しますか何と申しますか、信じ込んできた、と申しますか何と申しますか、のような、漢文、中国語の文法構造は、漢語(二字熟語)の構造と同じだ、という、お教え、ご内容についてですが、基本的には、現在も、大変僭越な言い方で恐縮ながら大賛成でございます。
 それとは、また少し違ったお話として、お聞きいただければ幸いなのですが、漢語(二字熟語)の構造とされるものから主語+述語及び並列を除いた(また、二字熟語なので修飾語に修飾語が付く事例は当然想定されず、強いて言うならそれは並列の下位分類のようなものとでも考えざるを得ない)、

〇述語+目的語:殺人
〇修飾語+被修飾語:美人、強盗
〇述語+補語(被修飾語+修飾語):笑殺(※但し日本の漢文教育の中ではこの構造はオミットされているとも言えます)
〇特殊(上記以外):所感

という、二字熟語を作る構造は、今回、実験的にお見せした、図示の列の内部の構造として整理できるものが多いように思われます。そして、もう一方の、その列全体(として図示されるもの)は、用(述語、述部が対応)が無かったとしても、単文みたいなものと同列な何かとして整理できるのではないか、ということを、今回、お話しさせていただきました。言葉足らずは重々承知でございますがそのつもりでございます。
 「以諸葛亮爲丞相」から「以」を減算したものが「諸葛亮爲丞相」だと捉える方が、少なくとも、学習教育中国語文法(注3)としては、教えやすい、伝えやすい、分かりやすいのではないか、という発想でございます。

【単文の列の内側の構造について】

便宜上の文法用語対照表

 漢文、中国語の単文の構造は、(便宜上中学以来習った英文法の用語を使いますが)V+Oのようなものだと申しました。勿論、実際には、VとOとだけで(常に)構成されるわけではなく、当然のように、その両者に、修飾語のようなものが付いてくることも多いわけです。その場合の構造を模式的に図示したものが、上図になります。学習教育中国語文法としては、中国語の単文は上図のような構造になっている、と考えると、教えやすい、伝わりやすい、分かりやすいかと存じます。
 補語、定語という、現代中国語で使われる文法用語(やその内容を)をご存じの方はもうお気付きかと存じますが、こちらの図示からもお分かりいただけるように、単文の列の3段目の「相、M、修飾語」の部分は、「用相」(V+M)の構造にも「相体」(M+O)の構造にもどちらにもなり得ます。そして、その、どちらなのかというのは、構造上からは判断できません。ご存じの通り、中国語は語順が重要な言語ですが、だからと言ってその語順で何もかもが解決するというわけではないらしいのです。次の例をご覧ください。

放点水 ←→ 放点

 「放点水」と言った場合、中国語のネイティブスピーカーの方に確認すると、「(一)点水」という構造だ(※ここでの「一」は省略可能)、つまり「(用)相体」の構造、「(謂語+)定語+賓語(中心語)」という構造だ、と仰います。文法構造まで含めて直訳すると、「少しの水、入れる」程度になります。因みに、日本語では「水、少し入れる」のように言うのが普通の言い方です。
 一方の「放点」ですが、こちらは「謂語+補語」、つまり「用相」の構造だ、と仰います。こちらを文法構造も含めて直訳すると「少し入れる」程度になります。
 なぜそういう違いが起きるのか、こちらの投稿にもご登場いただいた、中国の中学の国語(中国語ということ)の先生の資格をもつ方に伺ってみたのですが(なお、因みにこの方のご専攻は非母語話者に対する中国語教育です)、説明できない、分からない、とのことでした。
 なら(私は最初そうだと勝手に思い込んでしまったのですが)、「用相体」と続いたとき、必ず「用」+「相体」の構造になるのか、といえば、そんなことは無いようなのです。

看一下護照

 「看一下護照」の場合、「謂語+補語」+「賓語」、つまり、「用相」+「体」の構造です。「パスポート、ちょっと見せて」くらいが文法構造まで含めた直訳です。実際は「请给我看一下您的护照」のように丁寧な言い方をするかもしれませんが、文法構造の確認のため、敢えて短い文にした次第です。
 中国語の場合、「用相」「相体」という構造が両方あり得るのですが、それは、語順からだけでは確認できず、語彙の意味的側面からの確認も必要になる、と言える模様です。勿論、外国語が母語だと、意味の面から考えたとしても、勘違いをしてしまう可能性もあるので注意が必要だと思われます。
 ここで、申し上げたかったのは、語順だけでは文法構造が不明な場合が中国語にはある以上、そこの部分は、何というか、そのまま図示する必要があるのかもしれない、というようなことでございます。構造に対する解釈が必要になるケースがあるのだ、ということを、早い段階から教えること、学ぶことが、この、五層、五階、五段のような図示を使えば、できるのではなかろうかと考えておる次第です。
 また、今回は共有を割愛しましたが、助詞の類、後置、後行の付属語的、接尾語的要素の図示についてもよい方法が考えていければと存じます。
 以下の図示は、文法構造の解釈を矢印で実験的に図示したものです。

放点水、放点、看一下護照

 以上、取り急ぎ、ご共有申し上げます(例によって、この後何度も推敲し、修正バージョンを再投稿するかもしれません。申し訳ございません)。皆様よりご指摘が頂ければ、誠に幸いに存じます。引き続きまして、何とぞよろしくお願い申し上げます。

【訂正(緊急避難):助詞「得」の無い表現について】

 『中国語連続文法2』の投稿で、「他总是吃饭快」という例文を提出いたしましたが、こちらについて、訂正のご報告がございます。このような助詞「得」を使わない言い方は、現実的にはよく見かけるような事例ではありますし、何が言いたいのかは分かるそうですが、文法的にはおかしい、という認識になるものだそうです。正確には、「他总是吃饭吃得快」のように、「吃」という「用」を、2回言う必要、連続させる必要があるのだそうです。確かにそちらの言い方がデフォルトだということでないと、「他总是吃饭吃得快」という言い方が存在する理由みたいなものがよく分からなくなるような気も致しますが、これは私の母語が日本語だからこそそのように感じる、ということなのかもしれません。
 そして、数量のようなものを表す一種の名詞性をもつものとも思われるものが「用相」の「相」になる際には、助詞「得」は使えない、とのことです。ただ、その場合も、「吃饭吃了两次」のように、「得」を使わずに「用」を連続させることができるし、「吃了两次饭」のように連続させない言い方も問題無いとのことです(但しなぜか「×吃了饭两次」とは言えない模様です)。右、取り急ぎ、ご共有申し上げます。

〇騎馬騎得快。
〇吃飯吃了五次。
〇吃了五次飯。
×吃飯吃得五次。
×吃了飯五次。
〇吃了它五次。
×△騎馬快。
×△(!?)吃了五次它。※文法上は不可とされており、△という認定で問題無いのかどうかは不明。ネットで検索すると類似の言い方がヒットする。

【動量詞、名量詞(物量詞)というご共有の活用について】

 現代中国語の場合、数や数字自体として使う場合以外、数詞は必ず、助数詞(中国語では量詞)をその後ろに伴って一対にした状態で使われるのだそうです。そして、そのように一対になった状態のものを数量詞と呼ぶのだそうです。
 また、量詞(助数詞)については、動量詞、名量詞(物量詞とも)という下位分類が可能とのことです。
 そこで、以下のように整理することが可能かどうか皆様にご批判が頂きとう存じます。
 ①用相体(述語・修飾語・目的語)という語順で、相が数量詞の場合で、かつ数量詞の後半部分が名量詞(物量詞)の場合は、相体の構造になり用相の構造にはならない。
 ②用相体(述語・修飾語・目的語)という語順で、相が数量詞の場合で、かつ数量詞の後半部分が動量詞の場合は、用相の構造になり相体の構造にはならない(←これは恐らく間違っているものと思われます)。
 (間違っていると思う傍証を述べます)日本語では、「彼は毎日御飯を五回(も)食べる」のように言う方が普通で、「彼は毎日五度の飯を食らう」のように言うのは、(三度の飯より好き、という慣用表現があるからこそ使う)表現として敢えて選択してそのように言うのだと思われます。日本語からの類推でしかありませんが、「五回の飯」のように言う言い方をする言語が他にあっても不思議ではないですし、(日本語と違って)そういう言い方は別に普通だという言語だってあるかもしれません。
 すると、「他每天吃五次飯」と言ったとき、「五度の飯」式の文法構造になっている、としてもさほど驚くには当たらない、と考えてよいようにも感じるのです。ネットで検索すると、実際そういう表現はヒットします。こちらで「37年中央只开了两次的会,到底有何深意?」というのが確認できます。考え方としては、
 2.1 会話等でそういう表現が無いとは言えないが、文法的に間違った表現である。
 2.2 そういう言い方はあり、「的」と表記はするが「~的」の部分が名詞やその仲間を修飾しているわけではないし「地」等と書くべきということとも違う。
 2.3「的」の有無に関わらず動量詞が名詞やその仲間を修飾する事例はあり得る。 
 と、3つ可能性があるように思われます。
 ③次に、用体相(述語・目的語・修飾語)の語順で、その相が数量詞の場合は、その後半部分が動量詞か名量詞(物量詞)かの区別にかかわらず、用体、用相という構造が同時に存在することになる。
 自分で言っておきながら言葉にすると何と分かりにくいのかと存じます。時間を見つけて図示の工夫がしていければと存じますので、引き続きまして、何とぞよろしくお願いいたします。

◆参考文献
注1:江副隆秀『日本語の助詞は二列』創拓社出版2007p22-23他
注2:江副隆秀『日本語教授法の一考察3江副式重箱文法』新宿日本語学校1997p33
注3:大津由紀雄 著 編(他著作者多数)『学習英文法を見直したい』研究社2012
注4:江副隆秀『日本語教授法の一考察3江副式重箱文法』新宿日本語学校1997p33


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