見出し画像

中国語の最難関!?補語について3

 さて、皆さん、私は、漢文の文法は、基本的には漢語(二字熟語)を構成する方法と同じ(注1)で、それは、5種類で、主語述語、述語目的語、修飾語被修飾語、並列、特殊(注2)だと固く信じていた、と申しましたが、以下のリンクをご覧ください。

>>4.補足の関係

 Aで、行為や現象を示し、Bで、その対象や場所・事物などを補う、という関係。

・成功(成す ← 功を)
・失業(失う ← 業を)
・登山(登る ← 山に)
・帰郷(帰る ← 郷に)
・読書(読む ← 書を)
・降雨(降る ← 雨が)
・有力(有る ← 力が)
・無能(無い ← 能が)


 
こちらのリンクもご覧ください。

>>★目的語と補語の区別
 格助詞「を」を伴うものを目的語、格助詞「に・と・より」を伴うものを補語として区別するが、明確なものではない。あわせて補足語とする考えもある。

 さて、私が述語目的語と覚えていたものですが、最初のリンクの作者の方は、「補足(の関係)」と呼んでいらっしゃいます。2つ目のリンクの作者の方は、

「あわせて補足語とする考えもある」

と仰っていらっしゃいます。
 お二人のお話から推察するに、述語目的語というのは、述語補足語という名前だったのを私が忘れていた、ということかもしれません。
 なお、目的語と、補語とを区別する必要も無いので、一括して、補足語、または、補語と呼び、客語ということもある、とのことのようです。

 ところで、最初のリンクの作者の方の仰る、

「Aで、行為や現象を示し、Bで、その対象や場所・事物などを補う、という関係」

という定義は、僭越ながら、卓見だと存じます。因みに、もしかしたら、こちらは、藤堂明保先生のお考えに則したものなのかもしれません。
 ただ、補足だと、Complement/コンプリメントと訳されることになり、誤解が生まれる可能性が高いものと思われます。補足しているのではなく、追加説明をしている、付加しているだけなので、付加(adjunct/アジュンクト)とした方がよいかもしれないと存じます。ただ、それを日本語に訳すと、修飾語ということになってしまいますが(※なお、adjunctに英語の文法用語として個別の意味を与えるお考えもあるようですがそれは措きます)。
 しかし、このような事情はよくあることで、現代中国語、漢文の(目的語、補足語とは異なる所の)補語という文法用語を英語に訳すと、complementになってしまいます。ですが、英語のcomplementと、現代中国語、漢文の、その補語とは、全く異なった内容です。

 さて、読書、登山、降雨、いずれも、先行の言葉で、行為や現象を示し、後行の言葉を追加して、その対象、場所、事物などを示しています。日本語に翻訳した際、「書を読む」ともなるから他動詞+目的語と考え、「山に登る」ともなるから自動詞+補語と考え、「雨が降る」ともなるから自動詞+主語と考えるのは、何かがおかしいのではないか、と私は考えます。

 現代中国語ではこういう言い方はしないものと存じますが、「天降雨」と書いた場合、「天より雨降る」とも、「天、雨を降らす」とも訓読可能です。どちらを取るかは、訓読をどうするのかという問題です。
 中国語自体の、文法構造関連の問題として考えた場合、天は、主語なのではなく、行為や現象が生起(注3)する場のようなものです。
 これは「我食飯(我、飯を食す)」と書いた際もそれは変わりません。「食す」という行為の生起(注3)する実体を先に言って、次に行為の内容について追加説明し、更なる後続の部分で、行為の対象について追加説明しています。
 また、もし対象という言い方が分かりにくいようであれば、生起した行為や現象の波及先という言い方でもよいかもしれない、とも存じます。

 中国語に時制は無い、といっても誰も怒りませんが、中国語には、自動詞と他動詞との区別は無いとか、主語も目的語も無いとか、述語も無い可能性があるとか、と言うと、ご指摘を頂くかもしれません。
 例えば、中国語では、述語の後に来る名詞は、全部、目的語だとか、その考え方は形式的過ぎる、とかのような議論をお聞きになったことがあるかと存じます。勿論、そのような議論に批判が申し上げたいわけではございません。
 ただ、それは、外国語に翻訳したときどうなるのか、というのが基準の議論のように思われます。外国語に翻訳した際、それ(述語の後に来る名詞)が、目的語(或いは主語その他)になったりならなかったりする、或いは、述語が自動詞になったり他動詞になったりする、というのは、中国語自体においては、意味上の問題であるものと存じます。

 また、言語学の言語類型論では、下記リンクにあるように

「>>全ての言語は名詞と動詞の区別を持つ」

とされているようですが、私は、中国語には品詞も無いのではないかと考えております。では、中国語にあるのは何なのかというと、仮説(のようなもの)というと、大変僭越ながら申し上げます。

 中国語にあるのは、二字熟語のようなものが連続(注4)する構造で、動詞や述語がある言語において、動詞や述語が有していると思われる、一定の言い切りや完結性みたいなものが恐らく存在しないのです
 そういう言い切りや完結性みたいなものを、片方の語に緩い程度に発現させるものは、二字熟語のように2つに分ける、という仕組み、構造で、動詞や述語として最初からその言葉がそのようにあるわけではないように思われます。

 しかし、自分で言っておいて恐縮ながら、動詞も述語も無いとなると、正直、流石に説明に窮する部分もあります。動詞とか述語とか言えないというのは、説明に際しては、困るようなことではあります。
 そこで、緊急避難的対応として、用言体言という言葉の用・体を日本の国文法から借りることとします。なお、用言、体言の語源は、仏教の三大(体・相・用)だそうです(注5)。そこで、修飾語を相とします。その三者に当てはまらないものについては、緊急避難的に「*」とします。候補としては、道、空、無(无)、虚とかでしょうか。

■漢語(二字熟語)の文法構造5種
体用
用体
相体、相用、用相 
※古い漢文には体相もあり。
用用、相相、体体、**
*用、用*、*体、体*、*相、相*

 ※体言、用言、相言、*言という品詞があるのではなく、語を2つ続けた際、上記のいずれかに分けて捉えることができる、ということ。

 中国語は、2字熟語の連続(注4)のようなものだと申し上げました。
 「我食」「食飯」の連続(注4)のようなものとして、「我食飯」。これは、「体用」「用体」の連続(注4)で、理由はなぜか分かりませんが、連続(注4)なのに2回目の「用」は言いません。なお、漢文では「食」でよいのですが、現代中国語では「我吃饭」と「吃」にします。
 「騎馬」(用体)と「騎得快」(用*相)との連続(注4)は、現代中国語では「騎馬騎得快」となり、これは「用体用*相」という構造で、理由はなぜか分かりませんが、そのまま連続(注4)させます。なお、そのように連続させるのが文法的に正しい、という認識で、「騎馬快」と非連続で言うのは、何が言いたいのかは分かるし、現実的にそのように書いたり言ったりする人もいるかもしれないが、決してデフォルトの表現ではないそうです。
 また、「騎馬騎得快」と言った際、「快」が「騎」の修飾語で、補語であることは認められるものの(それが現代中国語として不完全な文であっても「騎馬快」で通じることからも「快」が「騎」の修飾語・補語なのだと分かるものと言える)、では、「騎得快」の部分全体が果たして何なのか、その全体を補語相当句(补语短语)とみなしてよいのかどうかは、何とも難しい問題と言えるのかもしれません。
 また、「得」の後に来るのは、形容詞や副詞に対応するようなもので、数量を表す名詞に対応するようなものは来れない、とのことのようです。ですが、「吃飯吃了五次」のように「得」を使わずに連続させることもできますし、こちらの場合は、「吃了五次飯」のように連続させないものも問題無い文として認定されるそうです。

〇騎馬騎得快。
〇吃飯吃了五次。
〇吃了五次飯。
×吃飯吃得五次。
×△騎馬快。

 私は、なぜ現代中国語の補語で、「騎馬騎得很快」と、わざわざもう1回「騎」と言わねばならないのか、長いことずーっと不思議だったのですが、そもそも中国語はそのように連続(注4)させる言語で、同じ語が消えるパターンと消えないパターンと、両方あるということなのかもしれないと、最近は感じております。
 また、現代中国語には「看看」「考慮考慮」のような「動詞の重ね型」という用語でも紹介される文法がありますが(試行のような意味合いを表すとされる)、そういったものがあって何らかの意味や文法的意味を表すのだったら、重ねずに連続させるパターンもあって、そちらにも何らかの文法的な役割が与えられている、ということもあるのかもしれない、とも思われます。重ねるのがよくある普通のことなら、2個同じものが出て来るのだって、それほど驚くには当たらないことなのかもしれません。

参考文献:
注1:鎌田正・江連隆『理解しやすい新漢文』㈱文英堂1983p44
注2:鎌田正・江連隆『理解しやすい新漢文』㈱文英堂1983p28-30
注3:山口明穂『日本語の論理―言葉に現れる思想―』大修館書店2004
注4:江副隆秀『日本語教授法の一考察3江副式重箱文法』新宿日本語学校1997p33
注5:村田美穂子『体系日本語文法』すずさわ書店2008p28

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?