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至極の文法についての一考察ー中国語の最難関!?補語について2ー

【三つ子の魂百まで】

 実は、私、中学、高校で習って、というよりも、自分で参考書を読んで勝手にそう思い込んだだけ、といった方がよいのですが、漢文の文法というのは、漢語(熟語、二字熟語)の構成法と、基本的には同じで(注1)、そして、それは、

 主語→述語
 述語→目的語
 被修飾語→修飾語
 並列(〇→〇)
 特殊(上記の4種として分類できないもの)

 の5つ(注2)なのだと、固く信じ込んでおりました。
 そして、その信念のようなものは、その後、現代中国語を勉強するようになり、(現代中国語の)補語という概念に触れた際、強い拒否反応のようなものとして現れたのです。
 だって、そうじゃありませんか。「治天下五十年」は、「天下を治むること、五十年」という訓読から推察される通り、治天下が主語で、五十年が述語だと、ずーっと思ってきたのですから。
 勿論、漢文というのは、読む側がどう解釈するのかというのが非常に重要な要件なので、この文章を作った作者がそういう意図で書いていない、ということを証明することはできません。
 ですが、現代中国語の母語話者の方がそれをそのように主述の構造として解釈することは、個人的な印象に過ぎませんが恐らく先ず無いことのようにも思われます。また、時点を表す修飾語句は、述語の前に持っていき、時間を表すそれは述語の後ろに持っていくのが一般的な表現法だ(注3)、と現代中国語の文法では、されているはずのようにも思われます。ですので、ここでの五十年が述語に後行する修飾語だとしても(少なくとも現代中国語からすれば)全くおかしくありません。
 ただ、三つ子の魂百まで、というように、最初に習って身につけたことと違うことは、私には、それはどうしても受け入れられないことだったのです。そして、受け入れられないので、自分で勝手に文法構造を捻じ曲げて解釈するようになりました。やや(かなり)外れますが、例えば、「做完」を「やりおわる」のように勝手に並列(接続)に解釈するわけです(ここでの「完」は補語とされます)。他にも「准备好(準備好し、準備出来た)」と勝手に主述に解釈するわけです。
 この補語という存在は、大袈裟に聞こえるかもしれませんが、私に取って、本当に死ぬほど辛いものでした。最初に(恩師や、参考書を執筆なさるような、恩師の先生にも相当するような方々から)教わったことが、間違っている(のかもしれない)、と認めることは当然難しいはずです。また、(本当は補語という文法現象はあるのだが)方便として、そのように敢えて教えたのだ、という共有も無いわけですし、(そもそも補語という文法現象は存在しないという)自分達の解釈に正当性があるという主張の共有も無いわけです。そういう状況にあって、混乱するな、というのは、どう考えても酷だ、と私には感じられるのですが、皆様に於かれてはいかがでしょうか。

【〇〇至極が分かれば補語も分かる!?】

 私は、中国の中学校の国語の先生の資格を持つ中国の方や、中国語を勉強している日本人の方に、補語について議論を吹っ掛けるということをよくしておったのですが、それでも補語について納得することは中々できませんでした。
 ですが、そんなある日、偶然、中国の歌手の方(李宇春さん)の歌の歌詞が耳にとまりました。「A到爆」というものです。
 なお、youtubeでOfficial Videoとなっているもののリンクを貼っておきます。

 全く意味が分からないので、中国の国語の先生に確認したところ、簡単に言うと、これは「すごくいい」というような意味だと。Aというのは、ABCのような評価の意味で、それが爆発するくらいにそうだ、ということだと。
そこで、では、この「到爆」というのは補語ですね、と確認して、そうだ、という答えが頂けました。補語という考え方に触れてからもう何年も経つのに、やはり私には分からない、ということに、またしても私は強く打ちのめされたのです。
 さて、そんなある日、中国人の友人のWechat(微信)の、朋友圏(LINEのタイムラインのようなもの)を偶々見た際、「荣幸至极」という言葉が目に入ったのです。漢字を日本の字体に入れ替えると、これは、「栄幸至極」になります。因みに、これは訳としては、「大変光栄」くらいになります。
 これを見た瞬間、この「至極」というのは、補語なんじゃないかと、そして、そうだとすると、「恐悦至極」とか「迷惑至極」とかのように、日本語では言うのだから、実は、補語というシステムは、日本語が母語の人間に取って、もしかしたら、そんなに受け入れがたいものでもないのかもしれない、と、ふと思ったのです。そして、「A到爆」の「到爆」も、使う言葉が違うだけで、文法構造としては「至極」と変らないんじゃないか、と腑に落ちたのです。
 日本語では、少なくとも至極と迷惑との組み合わせに関しては、「至極迷惑だ」も「迷惑至極だ」も、どちらの言い方も可能です。勿論、迷惑至極の至極は、日本語においては、四字熟語を作る際の接尾語のようなもので、「至極、当然(だ)」のように、「当然」の修飾語になっているわけではないでしょう(※ただし、「~至極」の、文法的でなく意味的な解釈と申しますか、そういうものとしては、なぜか「至極~だ」という意味のようにされているような気も致します)。
 ですが、「迷惑なること、至極なり」とか、そういう風に、イチイチ、主述構造に変換して理解しているわけでもないはずです。強引といいますか、敢えて解釈するとしたら、主述構造に解釈することもできそうだ、というだけではないでしょうか。
 そして、それは、補語という文法構造そのものは、日本語には確かに無いのだけれど、漢字の四字熟語としての「〇〇至極」という言い方は、日本語には厳然として存在する、という事実から生起している何かのように、私には感じられたのです。

【言い得て妙】

 「言い得て妙」は、「うまいこと言う(ね)」にも言い換えることができるかと存じます。なお、この日本語は現代中国語に直訳可能です。訓点の部分を消せばそのままほぼ中国語になります(但し、こういう表現がどの程度
頻出するのかというのは、また別問題ではありますが)。ただ、漢文では「言」でよいのですが、現代中国語では「説」にする必要があります。すると、

 説得妙
 说得妙

 となります。この現代中国語の「说得妙」は、「うまいこと言う」のように解釈して問題無いもののはずです。文法的解説ですが、ここでの「得」は、動詞に後続する助詞で、その後に補語(後行修飾語)が続くものとされるものです。
 日本語では「うまいこと」という句(フレーズ)が、「言う」に先行しています。この「うまいこと」に「を」を付けるのが一般的かというと、どうもそうではないように思われます。なぜかと申しますと以下のような事例があるからです。「複雑な内容をうまいこと(単純化して)説明したもんだ」のように言った場合、ここでの「うまいこと」に「を」は先ず付けられません。
 中学高校で習う国語文法では日本語には目的語は無いことになっておりますが、こちらは、「を」が付いたからといって、一意的に対格だと決められない事例の一つのように感じられます。
 外れますが、このような現代中国語の助詞の「得」が、果たして近現代の日本語の直訳表現なのかどうかということは私には分かりません。また、後ろに補語を従える助詞としての「得」は(漢文ではなく)唐代以降の白話小説に見られる用法のようで、それを訓読したところから、言い得て妙のような言い方が日本語に出てきたのかどうかについても私には分かりません。

 天下を治ること→五十年
 うまいこと→言う

 このような「~こと」は、助詞を入れないのがデフォルトの表現だ、と言えないでしょうか。すると、和語の数のヒフミヨイムナヤコト、のコトと(音が同じだからか何かしら)通底しており、時数詞(副詞的用法を持つ一種の名詞で、普通の用法の場合助詞は不要になる、という特徴をもつ)(注4)のように扱われている、という可能性も、穿ち過ぎかもしれませんが、或いは排除できないのかもしれないとも思われます。

参考文献:
注1:鎌田正・江連隆『理解しやすい新漢文』㈱文英堂1983p44
注2:前掲書p28-30
注3:三野昭一『中国語文法の基礎』三修社1989p130
注4:江副隆秀『日本語の助詞は二列』創拓社出版2007p30-35

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