第691回 私撰松島百人一首その1

1、また気まぐれ発動

また新しいマガジンを始めようかと思います。

題して

松島百人一首

我が町は古くから風光明美な地として都にも知られ、

歌枕として多くの和歌に詠み込まれました。

平成の初めに刊行された町史にも多くが採録されていますし、

平安時代の和歌を前提とした、本歌取りも継続しています。

古い時代の和歌は実際に松島の景色を見て詠まれたものではなく、

固定化・様式化されたイメージに基づいて作られているものが多いですが

新しい時代の和歌では実際の景観に触れて詠んだものもあります。

これらの中から、一人の歌人と松島に関連する和歌を集めて

100人分ご紹介してみようかと思い立ちました。

2、これぞ松島を詰め込みました

まず、第1回目は都人が松島に対してどんなイメージを持っていたのかが分かるものを。

二条院讃岐(1141〜1217)

松島や雄しまのあまも心あらば月にやこよひ袖ぬらすらむ

「雄しま」というのは松島湾に浮かぶ、やや大きめの島で

様々な伝説に彩られた聖なる島です。

「をじまがいそ」という表現で磯の景観が詠み込まれることが多いですね。

そして欠かせないのが、あま=海女です。

今でも松島といえば牡蠣が名物ですが、これは近代以降に盛んになった養殖物。

平安時代当時にどんな海産物を採っていたのかは定かではありませんが

この地には海女がつきもの、というイメージがあったのでしょう。

そしで海女が海に入って濡らす着物の袖に

寂しさや悲しさで流す涙を抑えて濡らす袖を重ねるのが定番。

最後はなんと言っても月。

かの松尾芭蕉が「おくのほそ道」で

まず松島の月が心にかかりて

と記していますが、芭蕉が月を眺めたのもこの雄島でした。

「をじまが磯」「あま」「袖」「月」というフレーズはこの歌の前にも

後にも頻出なので、次回以降もぜひ注目してもらえればと思います。

3、歌詠みとしての幸せ

二条院讃岐は摂津源氏で以仁王の乱で没落した源頼政の娘。

二条天皇に女房として仕え、様々な歌壇で活躍し「女房三十六歌仙」として数えられるまでになります。

特に後鳥羽院が主催した史上最大の歌合と言われる千五百番歌合で詠んだ

世にふるはくるしき物をまきのやに やすくも過る初時雨哉

という歌は後世に度々本歌取りで取り上げられる「世にふる」の原初になっています。

父頼政や兄仲綱が平家との争いで非業の死を遂げる一方で、

二条院讃岐は仕えた二条院が崩御した後は藤原重頼に嫁いで子にも恵まれ、

晩年まで歌作を続けるなど、対照的な人生を送っています。

実家が滅んでいく中で、歌人として名声を得る晩年にどのような感慨をもったのか、想像が膨らみますね。

4、ちゃんと100人紹介しきれるでしょうか

いかがだったでしょうか。

和歌はもとより、歌人の歴史的な背景についても

まだまだ勉強不足ですが

おおよそ100人の選定は済んでいるので

少しでも我が町に興味を持ってもらえるような連載をつづけていければと思います。

本日も最後までお付き合いくださり、ありがとうございました。

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