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『ニューダンガンロンパV3』賛否両論の結末は、デスゲームの最果てに至る。

 途方に暮れている。ゲームをクリアした時、達成感とか充実感とか、あるいは解放感や失望だったりと、ポジ/ネガ問わず何かしらの感情が浮かび上がるはずだ。なのに、『ニューダンガンロンパV3 みんなのコロシアイ新学期』の最後のムービーを観て、見慣れたタイトル画面に舞い戻った瞬間、感じたのは「困惑」と「虚無」である。

 が、数時間経て思い返せば、その心境は「納得」へと変わった。ナンバリングタイトルにして三作目、スピンオフにアニメに舞台にと肥大化したコンテンツが幕を下ろすなら、この手しかなかった。常にプレイヤーを翻弄し、欺き、論破する快感を与えてきたシリーズの、壮絶たる末路。それは、『ダンガンロンパ』自らが牽引した「デスゲーム」というジャンルそのものへの、捨て身の回答だったのだろう。

【注意】
以下、『ダンガンロンパ』『2』『V3』
アニメ『3』の致命的なネタバレが含まれます。
未プレイ/鑑賞の閲覧はお薦めいたしません。
【注意】

 思い返せば、『ダンガンロンパ』はプレイヤーにサプライズを与え続けることを常に意識したゲームだった。閉鎖空間で行われる高校生たちの共同生活において、次は誰が殺され誰が犯人なのか、一体どんなトリックが使われたのか、章が進むにつれ解放される新しいエリアには何が待っているのか……。このように、先の読めない展開と段階的に提示される謎とその回答を順当に配置してプレイヤーの知的好奇心を刺激し、もっと先へ、次の物語へ、という心の動きを誘導する。さながらミステリー小説を楽しむかのような気持ちを、『ダンガンロンパ』はプレイヤーに植え付けていく。

 一作目では高校生16人によるコロシアイと学級裁判というシリーズの基礎を叩き込みつつ、学園の外の世界と彼らの失われた記憶、同級生たちの中に潜む裏切者の存在が章と章を貫く縦軸として存在し、バラバラだった点と点が線で結ばれた時、プレイヤーは「最初の死者」の真実に行きつくこととなった。続く二作目では、黒幕たる江ノ島盾子を失ったにも関わらず始まった新たなコロシアイに巻き込まれた高校生たちの、これまた失われた記憶を取り戻す過程で明らかになる「世界の真実」が、大きくプレイヤーの心を揺さぶった。

 シリーズものの宿命として、「過去作は超えなければならない」という命題は、避けられないものなのだろう。その結果生まれたのが、「主人公自身がクロである」というプレイヤー心理の裏をかいた衝撃の開幕であった。

 ナンバリングタイトルとしては初の女性主人公、かつプレイヤーの分身として才囚学園に降り立った赤松楓。彼女の視点を通じて最初の事件を解き明かす過程において、プレイヤーはすでに作り手の用意したトリックにハマっていた。過去作を遊んでいれば「自殺」のパターンもあったし、そもそも主人公=プレイヤーの分身を容疑者として考える人間などいない。そうした「お約束」を自ら破壊した第1章の結末の衝撃たるや凄まじく、『V3』はダンガンロンパを破壊するダンガンロンパ、と呼べるほどの痛烈な先制攻撃に、過去最大級の「騙され」の快感を喰らったのである。

 ところが、以降の章は「ダンロンらしさ」の枠に小さく収まっていってしまう。モノクマからの動機の提示、段階的に取り戻される記憶、解放される新しいエリア、起こってしまった殺人と学級裁判。被害者とクロが死んで、人数が減って次の章へ。首謀者は一体だれか。王馬小吉は何を企んでいるのか。面白い。確かに面白いが、第1章の挑戦的な内容に比べれば、これでは物足りない。

 赤松の意思を継いで、希望を伝播する存在としての主人公・最原終一の活躍だって、決して悪くない。超高校級の探偵として捜査から学級裁判の中心として皆を支え、生き残るために切磋琢磨していく。メンターとなる百田解斗との友情、春川魔姫との和解だって理に叶っている。だけど、足りない。こんなんじゃ満足できない。『V3』がダンガンロンパらしくなっていく度に、どこかで期待の風船が萎んでいくのを感じる。もっと、もっと痛烈に騙してほしい。そうでなきゃ、『2』は超えられないじゃないか。それが、第5章を終えるまでの正直な感想だった。

髭男爵の彼と同じ53世

 もちろん、プレイヤーの不感症など、作り手は承知の上だったのだろう。アニメ『3』にて完結したかに思われた希望ヶ峰学園、ひいては江ノ島盾子との関係性が明かされ、才囚学園を舞台した新章『V3』が、実はこれまでの作品と地続きだったことが一旦は提示される。それはまさしく、シリーズで繰り返されてきた希望VS絶望という対立軸の再演であり、才囚学園の外の世界がいかに絶望的であっても、未来機関や苗木誠が助けに来てくれるかもしれない。そんな「希望」をとりあえずプレイヤーに根付かせておく。

 その上で、『V3』はそんな淡い希望すらズッタズタに引き裂いてしまう。全ては、「ダンガンロンパ」というコロシアイエンターテイメントによるもので、人類の滅亡も最後の生き残り16人という「設定」すら嘘っぱちであり、生死を賭けて闘った愛すべきキャラクターたちも含めて全部が「フィクション」だと、そう告げたのだ。

 もう、無茶苦茶である。学園の外に出なくてはと殺人に手を染めてしまった者の苦悩、使命のために命を捧げた者、悲惨なコロシアイから仲間を解放するために人殺しの汚名を自ら被った者。そうした想いの一つ一つに公式自ら冷や水ぶっかけて、「いやコレ作り物なんで」と言い切ってしまう。当然、批判を呼ぶのは避けられない。

――「ニューダンガンロンパV3」の発売から1ヶ月が経ちましたが、ファンからの声は届いていますか?
小高氏:届いていますよ、ものすごい賛否両論の意見が(笑)。

賛否両論を越えてでも作りたかったゲーム―
「ニューダンガンロンパV3 みんなのコロシアイ新学期」小高和剛氏にインタビュー

 小高氏を初めとするクリエイター陣にも、激烈な反応が届いたはずだ。何せ、「ダンガンロンパ」というコロシアイを楽しむ“外の世界”の人々とは、今コントローラーを握っている「あなた」、つまりはゲームを遊んでいる現実の我々プレイヤーに他ならないからだ。同級生の殺害を強要されるという、現実ならば炎上間違いなしのインモラルなゲームは、しかし「ビデオゲームのあらすじとしては」最高に興味をそそるものであるし、消費者はそれを承知でこのゲームを購入しているのである。モノクマが「視聴者のみなさーん!!」と呼び掛けた時、このゲームはこちらを指差しているのだ。

 派手でポップなコロシアイを楽しんだでしょう?相手を論破するのは気持ちよかったでしょう?希望が絶望を上回る展開に歓喜したでしょう?これではまるで、ゲームから我々への一方的な追及である。決して、対話ではない。それを受けた我々はしかし、すでにナンバリングの三作目、それも最終章まで辿り着いた時点で、作り手を批判する権利は失われているのである。

 序文では、『ダンガンロンパ』はプレイヤーにサプライズを与え続けることを常に意識したゲームだった、と述べた。その堂々たる完結編で到達したのは、『ダンガンロンパ』自らが線路に飛び降りて肉片と化し、そのショッキングな画を見せつけて「オマエたちが望んだエンターテイメントだぞ」と言ってのけることだった。「自殺」こそが、ダンガンロンパを破壊するダンガンロンパとしての必殺技だった、ということだ。

「アナタたちはダンガンロンパの世界でしか生きられない」
という理屈を否定する綾波レイと同じ中の人のキャラクターの図。

 これらの事実を突きつけられて、最原たち生き残りの超高校級は自らの命を犠牲にしての「放棄」を選択する。コロシアイをエンタメとして消費する意識であったり、人間の命や感情を弄ぶことの残酷さを今一度突き付けるために死を選ぶ。希望と絶望の勝利によって完結するはずだった、これまで53回に渡って続いた「ダンガンロンパ」を破綻させるには、ゲームそのものを解体する選択肢しかあり得ないのである。

 これは意図的か偶然かは不明だが、この結末によって『ダンガンロンパ』は、自らが属する「デスゲーム」というジャンルの限界を暴いてしまったように思える。デスゲームとは、不可解なシチュエーションに放り込まれた登場人物が、理不尽な要求(殺人)を科せられた極限状態を示すものであり、映画やゲーム、アニメ等でも人気のジャンルである。しかしその結末は、主人公あるいは視聴者(プレイヤー)の感情移入を誘うキャラクターの敗北か、黒幕的な存在に立ち向かい脱出する、といった二択になることが多い。

 『ダンガンロンパ』で言えば、その二択とはまさしく希望VS絶望、どちらが勝利するかが争われてきた。超高校級の才能を持つ若者、あるいはそれを見守る人々全てを絶望に染めんとする「絶望」と、それでも「希望」は前に進むと信じ続ける者との闘い。ところが、デスゲーム=『ダンガンロンパ』はどんなに作品を増やしていっても、希望と絶望の対決を延々繰り返すだけになってしまう。ゲーム、アニメ、舞台、小説とメディアミックスを広げていった『ダンガンロンパ』だが、その対立軸は変わることが無かった。『ダンガンロンパ』の敵とは、実は「マンネリ」だったのではないだろうか。

――(笑)。ファンの意見が賛否両論になるというのは、予想していたのですか?
小高氏:賛否両論になるのが良いとは決して言いません。しかし、それを越えてでも作りたい強烈なゲームとして「ニューダンガンロンパV3」があったので、賛否両論になるとしても作ろうと考えました。これを作らないと、いつまでも1、2と違う「ダンガンロンパ」は作れませんから。

賛否両論を越えてでも作りたかったゲーム―
「ニューダンガンロンパV3 みんなのコロシアイ新学期」小高和剛氏にインタビュー

 常にプレイヤーを驚かせ続けねばならない『ダンガンロンパ』が、作品を増やせば増やすほどデスゲームというジャンルのお決まりから抜け出せなくなる矛盾。モノクマがいて、コロシアイが起こって、学級裁判が開かれればいつもの『ダンガンロンパ』になってしまう。そんなループから抜け出すには、『ダンガンロンパ』を壊すしかなかった。『ニューダンガンロンパV3』が革新的な『ダンガンロンパ』であるためには、デスゲームという枠組みそのものを破壊するしかなかったのである。この決断こそが、シリーズ完結編として作り手が選んだ「有終の美」なのだろう。

 皮肉なことに、この結末によって気づかされるのが「希望は絶望があってこそ映える」という、どうしようもない真実である。希望と一口に言っても、その言葉の具体性や真実味はその実不明瞭なものであった。かつて苗木誠が、日向創が、熱心に希望の尊さを謳っても、私にとってその言葉はあくまで「コロシアイという絶望を撃ち抜くための概念」に思えてならなかった。例えば、彼らが街中で「希望は前に進むんだ!」「希望は負けない!」と言い張っていたとしても、それは宗教勧誘の戯言として見向きもされなかったのではないか。

 つまり、希望は絶望を打ち砕いてこそ、真実味を帯びるものである。とすれば、絶望なくして希望なし、ということでもある。絶望がなければ希望は存在を許されず、しかしその希望を打ち砕かんと新たな絶望が産まれる。そのサイクルは、アメコミにおけるヒーローとヴィランの関係性を彷彿とさせる。ジョーカーがいるからバットマンが産まれたのか、バットマンがいるからジョーカーが産まれたのか。永遠に答えの出ないこの問いのように、希望も絶望も伝播しながら、一方が沈んでもお互いの存在がまた新たな希望/絶望を産む。そんなサイクルを絶つためには、「絶望を退けた“希望”というカタルシスを得る」という『ダンガンロンパ』の“陽”の部分すら、切り捨てなければならなかった。そういった意味で、シリーズ完結編『V3』は『ダンガンロンパ』というコンテンツの寿命を著しく削ぎ落しながらも、これ以上考えられないほどの完璧なエンドマークを打ちつけた。

 ファンからの愛着さえも切り捨てて、コンテンツの心臓部に自ら刃を突きさして崩れ去っていく。その尖った姿勢、異形っぷりこそ、「同級生が同級生を殺す」という陰惨なプロットのゲームゆえの誠実な回答だったのかもしれない。こんな大胆で挑発的な幕引きなんて、そう観られるものじゃない。面白かった、というより感服した、という方が正しい気がする。本当に、してやられました。ありがとう、そしてさようなら、ダンガンロンパ。

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