見出し画像

想像は宇宙を広げ、何度だって退屈から救ってくれる。『グリッドマン ユニバース』

 スマホのカレンダーアプリを開き、日曜日のお昼に「グリッドマン 映画」と記録する。これはどの映画を観る時も行う習性なのだけれど、つい感慨深く画面を見つめてしまった。実写とアニメの媒体の差こそあれ、「グリッドマンの新作映画が上映される」なんて、10年前の自分なら考えもしなかっただろう(同時に、エヴァの監督がゴジラや仮面ライダーの映画を撮っているよ、も含む)。放送当時は物心ついていなかったし、『電光超人』を完走したのは社会人になってからのことだけれど、そんな自分でさえつい物思いにふけってしまう瞬間があった。

 そして、こうも思うのだ。『電光超人グリッドマン』をリアルタイムで目撃し、仮に彼が心の中のヒーローであり続けた人間がいたとして、そんな人が『ユニバース』を観たら、どうなってしまうのだろうか。劇場で成仏したりしないだろうか。何というか、そのレベルのものを“喰らってしまった”という印象なのだ。今回の作品は。

 本作に至る経緯というか、日本アニメ(ーター)見本市における一作品から派生して『SSSS』シリーズが展開されていった流れについては、ご存じと思われるので省くし、ついでに過去の拙作をお読みいただけると嬉しい。要は私は、推しスタジオのTRIGGERと雨宮監督らスタッフが繰り出す「アニメ化された着ぐるみ特撮の旨味」に心沸き立つ一方で、新条アカネというどうしようもなく独りよがりで不器用で愛おしい神様(とその声優さん)に撃ち抜かれたり非実在青少年のもどかしくもいじらしい恋愛模様に翻弄され続けていたのである。『電光超人グリッドマン』という、言葉を選ばず言うのならマイナーな特撮番組のリファインとしてだけでなく、現代向けに形づけられた登場人物たちの群像劇で原典を知らない層へもアピールし、一番くじなどの関連商品ではグリッドマンや男性陣よりも可愛らしい(かつ、どこか煽情的な)女性キャラクターで埋め尽くされるという珍事こそあれ、その名は大きく知れ渡った。

 そんな経緯を経ての集大成『ユニバース』だが、少なくとも一度の鑑賞しかしていない自分には、この映画のあらすじを解説することすら困難を極める。TRIGGER作品ならラストバトルは宇宙空間になるだろうとたかをくくっていたが、なんと本作は「グリッドマンそのものが宇宙なんだよ」と平然とした顔で言ってのける。なんかもう、『グレンラガン』みたいなスケールの話なのだ。

※以下、本作のネタバレが含まれます。

 まず、本作が抱えるタスクはわりと多い。『SSSS.GRIDMAN』と『SSSS.DYNAZENON』のクロスオーバーとしての見せ場と、異なる二つの作品世界が融合?した理屈の説明。ガウマのその後と再会となる『SSSS.DYNAZENON』の後日談的要素。そして何より『SSSS.GRIDMAN』のアフターエピソードなのだけれど、ここが一番繊細かつ難解にならざるを得ないところなのだ。

 世界の創造主たる新条アカネが離れた後のツツジ台の世界はどうなっているのか。グリッドマンと怪獣との激闘の記憶は受け継がれているのか。自分たちが造られた存在であることを知った内海や六花はその事実をどう受け止めているのか。そして何より、物語の主人公でありながらほとんどの観客にとって初対面、という特殊すぎる事情を持つ響裕太は、どのような青年で、どのようなアクションを起こすのか。

 そうした事前の懸念に対し、本作は実に丁寧にそれを解きほぐしていく。怪獣の出現しないツツジ台の世界は何ら異変なく毎日が流れていき、グリッドマンや新条アカネのことを唯一覚えている内海と六花は学園祭の演劇の台本作りを通じてそのことをみんなに知ってもらおうとする。その台本作りを手伝う形で裕太は自身の記憶が無かった頃の出来事を知り、覚えていなくとも「自分がグリッドマンだった」ことを落とし込んでいく。

 一連のセットアップを終えたところで、怪獣が再来し、新世紀中学生のメンバーもこの世界に帰ってくる。裕太は仲間や想い人を守るためグリッドマンになることを決意し、初めて響裕太とグリッドマンの意識が共存した形で顕現する。劇場の大スクリーンと大音響で体感する、「アニメ化された着ぐるみ特撮の旨味」に痺れていると、“新人”ことダイナレックスが介入し、その声に観客は安堵する……というのが冒頭。手際が良く、この時点でクロスオーバーもファンサービスも十二分に含まれている。

 そこから邂逅する、グリッドマン同盟とガウマ隊のメンバーたち。なぜだか「満を持して」感が漂う六花さんと夢芽の絡みや、六花ママと買い物に行く流れが自然すぎる暦先輩にはつい口元が緩む。また、ちゃんとお別れが出来なかった「思い残し」を清算する蓬とガウマさんのやり取り。CV:榎木淳弥氏の震える声音が涙を誘うし、ロールモデルとなる父親像が身近にいない蓬にとってのガウマの存在の大きさを、改めて実感する。そんな騒がしくも優しい時間を経て、ダイナゼノン組が学園祭の手伝いをする形で、両作のキャラクターが青春の一時を共有する。

 このように、シリーズを追ってきたファンが思う「観たいもの」をかなり丁寧に、取りこぼしなくビンゴシートを開けていくような手際で進行していく本作は、加点方式ならこの段階で100点を優に超えるほどに理想的なクロスオーバーを形成していく。二作のキャラキターが会話して、笑いあって、みんなで「グリッドマン物語」を形作っていく。その際に「みんなが描いたグリッドマンの落書き」が映り、少しずつ本作のやりたいことが見えてくる。このタイミングで、本作は急に牙を剝いてくるのだ。

 なぜか少年少女の姿で現れるアンチくん(ナイト)と2代目ちゃん。彼らが明かすこの世界の異変の正体は、正直なところ理解が追いついていない。

 『SSSS.GRIDMAN』と『SSSS.DYNAZENON』の世界は地続きではなく、別の宇宙同士である。さらにその外側に「新条アカネが生きている現実世界」「『電光超人グリッドマン』の世界」「ハイパーワールド」があって、その他無数の「グリッドマンから生まれた世界」が存在する……らしい(その表現として終盤にスピンオフコミックのコマが無数に現れていた)。となると、今我々が目にしている作品内世界とは『電光超人』を観た現実世界に生きる新条アカネが創造した『SSSS.GRIDMAN』からさらに派生したスピンオフコミックや小説や『SSSS.DYNAZENON』が何やかんやあって一つに融合しつつあるカオス宇宙ということになる……のだろうか。この辺りはもっと台詞に集中し、ノベライズ版などで確かめたいところだが、まさかこんな“卵が先か鶏が先か”を考える羽目になるとは思わなかった。

 なので、この辺りの思考に引っ張られ、作品への没入が削がれたのは、正直に告白する。ただそれでも本筋を見失わなかったのが、ここまでで生じた「カオス」を作品の性質に、ひいてはクロスオーバーそのものに持ち込んだからこそ、作品内のカラーが種明かしの前後の二つで固定されていたからだと思いたい。

 グリッドマンから生み出された無数の宇宙(=作品や二次創作)は一つになり消滅しようとしながらも、グリッドマン自身は自らの「形」を留めることで、裕太に見つけてもらおうとする。それを手助けすべく、「友達のために」介入する現実世界の新条アカネ。アレクシス・ケリヴを従わせる形で始まる呉越同舟と、全ての元凶への強襲。

 これまた難解さを補強するのが、ぽっと出すぎるラスボスことマッドオリジンなのだけれど、私は鑑賞を終え家路に着く途中で、鑑賞中の既視感の正体に気が付いた。彼は「鳴滝」なのではないだろうか。自分の思う作品像(ヒーロー像)を尊び、そのレールから外れるものを酷く憎悪する、過激な原理主義者。「グリッドマン」とは「特撮番組」であり、「アニメ」や「小説」や「漫画」のような想像力を認めず、目の前の「響裕太が乗り移ったグリッドマン」を全力で否定する。前フリも伏線も一切提示されないまま生じた宿敵は、言うなれば「SSSSキラー」として、今この映画を観ている我々さえも攻撃する。円谷なのに東映の味がする……!!

 概念が怪獣の形をしたラスボスに対し本作は、「創作賛歌」とも言うべき壮大なテーマを声高に叫びだす。『電光超人グリッドマン』から生まれた数多の物語と、その世界に生きる人間が紡いだ関係性。それらを偽物とあざ笑う敵に対し、グリッドマンから派生したダイナゼノンが、グリッドマンを模したグリッドナイトが、真正面からぶつかっていく。彼らの命は、他者を想う気持ちや恋心は紛れもない本物で、それを否定する権利は誰にもない。この映画を観るために劇場に駆け付けたファンの気持ちを代弁するように、『SSSS』を彩った戦士たちが立ち上がり、マッドオリジンに向かっていく。それはまるで、凸凹であってもここまで走ってきた積み重ねを自ら肯定してみせた『劇場版 仮面ライダージオウ Over Quartzer』のようであり、カロリー過多な映像がこちらの処理速度を上回ることで生じるドラッグ感がたまらない。

 事前に予測すら出来なかった、あまりに巨大かつ普遍的な着地に驚かされたが、これが『グリッドマン』の映画として考えると、かなり腑に落ちるものがあった。なにせ全ての始まりたる原典において、実体を持たないハイパーエージェントが、人間が作り出したCGを元にその身体を得たものを私たちは「グリッドマン」と呼んできたからだ。元よりグリッドマンとは、人間の想像力から生まれたヒーロー。なればこそ、想像を抑え込もうとする存在に負けるわけがない。あまねく全ての「グリッドマンユニバース」を取り込み、力へと変え、どんな苦境でも立ち上がる。それはまるで、シリーズを追ってきた自分さえも肯定してくれる暖かな光であり、『電光超人』から観てきた人ほど、眩しく感じられたはずだ。

 『グリッドマン ユニバース』とは、『SSSS』二作を統合するための屋号を越えて、『電光超人』から生まれた全ての派生作品をも取り込む、ビッグバンの如き試みだったのだ。それは偉大なる原典を生み出した円谷へTRIGGERが贈る多大なるリスペクトであり、同時に自分たちが紡ぎあげてきた創作物に対する無条件の肯定と深い愛情を意味するものへと昇華された。剛腕にも程があるというか、本作の感想でよく目につく「ここまでやるか!?」の一端は、全ての関連作品とキャラクターとを抱きしめるかのような視野の広さと、それを映像とセリフで叩き込む異様な完成度に由来するものだろう。

 しかしして、ここまで4,000字を費やしても、この映画の要素の半分はおろか、三分の一にすら届かないかもしれないという事実に、戦慄するのだ。クロスオーバーにおける醍醐味はもちろんのこと、裕太から六花への告白までのドラマしかり、後輩でありながら先輩の風格漂う麻中蓬の覚醒だったり、アツすぎ主題歌三連発だったり、劇場で悶絶する羽目になった「よもゆめ」「ガウひめ」「新条アカネとアンチくん」については、それ単体で記事が出来てもおかしくないくらいのエモーションを持ち合わせていた。今となっては、これだけのボリュームが二時間弱に収まっていることが不思議で仕方がない。

 この映画には、「グリッドマン」が詰まりに詰まっている。その全てを受け入れるには一人の人間の脳はあまりに小さすぎるし、作品愛を拳とフィクサービームで浴びせられては、もう参ったという他ない。信じられないほど深くて、驚くほど普遍的。おそらく、本作に最もDNAが近い作品は『LEGO® ムービー』になると思う。そんな途方もない作品が、この国のクリエイターの想像力から生まれたことに、我々はどのように恩を返せるだろうか。

 少なくとも、近いうちに劇場に再・訪したいと思う。ところで、推しカプのダブルデートが公式から供給される優しい世界って、なに?

この記事が参加している募集

#アニメ感想文

12,450件

#映画感想文

66,844件

いただいたサポートは全てエンタメ投資に使わせていただいております。