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映画『モンスターハンター』わずかに物足りない、ゲームを遊ぶ手触りへの渇望。

 トニー・ジャーが、ディアブロスと、闘う。なんと甘美な響きだろう。最初に発表されたトレーラーを観た瞬間から、ずっとこの映画に恋をしていた。アイアン・ジャイアントVSメカゴジラ、ゴジラVSコング、そしてトニー・ジャーVSディアブロス。映画はいつだって、おれの夢を叶えてくれる。どっちが強いかを想像するだけで、退屈な就業時間を乗り越えることができた。そうして膨らみに膨らんだ期待値が盲目にさせたのか、監督がポール・W・S・アンダーソンだということをすっかり忘れていた。ゲームの実写映画は彼とその嫁に任せなければならない法律でもあるのだろうか。いや嫌いというわけではないんだけど、なんかこう…ねぇ?

 というとまるで悪い映画のように聞こえるかもしれないが、映画モンハンはその実、ゲームのどの要素を持ち込むかという点で、とてもよく練られている。肉を焼くとかおなじみの武器といった視覚的なモチーフは着実に抑えつつ、『モンスターハンター』というゲームを遊んでいる“実感”を抱かせる展開がしっかりと用意されているのだ。例えば、本作でははじめにディアブロス亜種が立ちはだかるのだが、辛くも逃げ切った主人公らはネルスキュラの大群に遭遇してしまう。唯一生き残った主人公アルテミス(監督の嫁)はハンター(トニー・ジャー)と出会い、ひと悶着あったが協力し、ネルスキュラと闘って素材を入手し、ディアブロスに再び立ち向かう。この「〇〇を倒すための△△の装備を作るために△△を倒す」というルーティーンがモンスターハンターというゲームの基本にして根幹となる「上達」の過程そのもので、これを踏襲してくれているだけで好感度が上がる。他にも、「薬草を使って傷を癒す」「キャンプでネコ飯を食べる」「素材の剥ぎ取り」といったモンハンらしさが、実写映画ならではのアレンジ込みで映像化され、ゲームでは簡略化されがちな描写に深みが加わり観客=ハンターに「モンハンやってんなぁ」と思わせてしまう。作り手がゲームのファンだというのはウソではないようだ。

 その一方で、本作は怪獣映画としての面白さを原作より大幅に拡充している。改めて、二本角の巨大生物が地中から襲ってくるというビジョンの、なんと恐ろしいことよ。ゲームでも幾度も苦しめられ苦手意識の強いディアブロス亜種が、行く手を阻む門番として立ちふさがるあの絶望感。近代兵器をものともせず、尾を振るうだけで特殊部隊が壊滅していく様は、自分の身の丈の何十倍もある相手と闘うことの無意味さを思い出させてくれた。どう考えたって、こんなデカくて強いヤツに人間が勝とうだなんて、ありえない話なのだ。画面の中で、知恵と勇気だけでモンスターに勇ましく立ち向かうハンター、この映画を観た後ではハッキリと狂人に見えてしまう。

 さらに映画版では、ゲームではどうしても描けない「死」がしっかりと描写されている点も、モンハン史として画期的である。当然ながら、巨大生物の前では人間は無力だ。ディアブロスの角に刺さっては死に、リオレウスのブレスに消し炭にされ、ネルスキュラに卵を植え付けられる。CEROの楔から解き放たれた瞬間、ハンターという生き方は死と隣り合わせである、というリアルが浮かび上がってくる。現行の最新作『モンスターハンター ライズ』がよりカジュアルに、プレイヤーへのストレスレスな工夫がいくつも施されているのとは正反対に、「ラクーンシティの方がマシ」とさえ思わせるサバイバル描写は初期モンハンの荒々しさ、あるいはファンの二次創作や公式ノベライズなどの描写を彷彿とさせ、世界観に広がりを持たせてくれる。

 その上でもちろん「オレの嫁映画」でおなじみポール印の作品なので、ミラ様はめっぽう強く、美しくて気高い戦士だ。とくに今作はディアブロス“亜種”なのがおそらくミソで、黒いディアブロスは生態上「繁殖期の雌個体」という設定があることを踏まえれば、「オレの嫁でエイリアン2やってみた」が監督のコンセプトに違いない。ネルスキュラ周りの描写がどう見てもアレなのがその証拠と言えよう。

 原典へのオマージュと実写映画ならではの好ましいアレンジ。しかし映画が進むにつれ、なぜだか広がっていく違和感。その正体はきっと、「おれが“やっていた”モンハンじゃなかった」という気づきを得てしまったからだろうか。これまでの文章と矛盾するのだが、『モンスターハンター』というゲームを遊んでいる“実感”は、悲しいかな本編が進むにつれ薄まっていく。この感覚は個々人の「モンハン感」が異なる以上賛否が分かれるだろうし、そもそも未プレイ者なら気にならないかもしれない。だがしかし、PSPで数多のモンスターと闘った学生時代を思い出せばこそ、この映画とは距離を置いてしまった理由も今なら言える。

 個人的には、「怪獣映画に寄りすぎてしまった」ことが大きい。繰り返しになるが、自分よりも何十倍も大きく、翼を持ち飛行して火を吐くような生き物を狩るなんて、ゲームなればこそのリアリティで、実写映画ならそれなりの工夫が必要になってくる。とくにクライマックスのリオレウス戦は、「もし我々の世界にリオレウスが現れたら」というシチュエーションで、空の王者と対決することになる。その絵的な面白さは評価すべきだが、同時に決着のありきたりな印象も拭えなかった。爆発物を食らわせて内部から破壊するという行為のモンハンらしくなさに、物足りなさを感じたプレイヤーが全国にたくさんいたはずだと、信じたくなってしまう。

 持論だが、『モンスターハンター』というゲームの魅力は上達が実感しやすい点にあると思っている。プレイヤーキャラにレベルの要素は無く、武器や防具の強化、属性選びによって狩りの最適化は図れるものの、最後にものを言うのはプレイヤースキルだ。敵の攻撃パターンを覚えて被弾を減らし、敵の攻撃の隙をみて反撃したり、有効な罠や戦法を熟知していく。すると回復アイテムの消費量や討伐までのタイムといった目に見える形で、プレイヤーは「上手くなった」と直感的に感じることができる。これこそがモンハンの醍醐味であり、今でも変わらず全世界のプレイヤーを惹きつける魅力だと信じている。

 本作に今一歩足りないのは、飛竜と闘う上での基本的なメソッドを踏襲してくれなかったことから生じる、ゲームプレイの手触りそのものだ。かつては「ターン制」と揶揄されたこともあったが、敵の攻撃を回避してその隙に攻撃する、そんな泥臭い攻防の繰り返しで勝利をつかみ取る、あの感覚が本作では味わえなかったのだ。リオレウスがヘリを落とし、米兵をブレスで焼き払う映像も楽しい。だけれど、それはどうしても『モンスターハンター』というゲームの楽しさの再現にはならない。モンハンあるあるがふんだんに盛り込まれてはいるものの、肝心の部分が抜け落ちてしまったような本作にしこりが残るような物言いしか出来ないのは、真に求めていたのはビジュアルの再現度ではなかったということに、映画館からの帰り道にようやく気付いたからであった。素直にライズ買えよ、ということか……。


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