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「あの日」から今日までを生きてきた私たちへ。『すずめの戸締まり』

 世界は、あれからずっと狂ったまんまだ。

 劇場で『天気の子』を観た日、劇場を出たら外はどしゃ降りの雨だった。まるで原作再現だね、と友達と笑い合って、駅まで歩いた。それが2019年の出来事で、その次の年から蔓延し始めた感染症に今も苦しめられ、海の外で起きた戦争の影響で物価は上がり続けている。

 タガが外れて世界のバランスがおかしくなって、全部が上手くいかない。そう思うようになったのは、一体いつからだろう。暗いニュースから目を背けたくて、TVを消してSNSで気持ちのいい情報だけを取り込む。そんな生活をずっと続けて、身体も心も慣れてきたと思っていたのに、時々不安に押しつぶされそうになる。この閉塞感と永遠に付き合っていかねばならないのだろうか。ただ生きているだけで、なんでこんなに苦しいのだろうか。

 新海誠監督の最新作『すずめの戸締まり』は、流れ行く日常の非情さを、ぼくよりも切実に感じながら生きている一人の少女が主人公の作品だ。宮崎県で叔母と暮らす17歳の女子高生・岩戸鈴芽は、廃墟を探し歩く宗像草太という青年と出会い、彼を追う中で山中の廃墟にある「扉」を見つける。その扉は現し世とは異なる空間、死者が集う場所と繋がっており、そこから這い出した「ミミズ」は大災害を引き起こす要因だという。草太の正体はミミズが地震を起こす前に扉を閉める「閉じ師」であり、彼は鈴芽の力を借りて大災禍を防ぐも、人間の言葉を話す謎の白い猫・ダイジンによって草太は鈴芽がまだ幼い頃に使っていた椅子に姿を変えられたのだった。鈴芽は草太の身体を取り戻すために、日本各地の「扉」を閉めて周りながら、ダイジンを追って旅をすることになる。

 冒頭、鈴芽の朝の日常が描かれる。朝起きて朝食を食べて、叔母の環と一緒に家を出て、自転車で坂を下り学校へ向かう。その際にスクリーンに広がる宮崎県の自然の風景は鮮やかな緑と海の青が美しく、元気で生命力に満ち満ちた光景に思わずうっとりさせられる。だが、その毎日がどれほどに脆く壊れやすいものであるかを鈴芽自身が、いや、【あの日】日本に生きていた者なら薄々と感じ取っているはずだ。永遠に続く平穏などないことを、皆誰もが心の底に押し隠して、日常を謳歌しているに過ぎない。

※以下、本作のネタバレが含まれます。

 どうしても触れざるを得ないのだが、本作においては「地震」がクローズアップされ、本作の映像や音声などは生々しいくらいに【あの日】の報道映像を思い出させてしまう。実際に被災された方は、より強く当時のことを連想してしまうだろう。

 主人公の鈴芽も3月11日に被災し、その際に母親と生き別れてしまっている。その傷を胸の奥底に秘めながらも元気に明るく生活していた彼女だったが、ミミズとの危険な対峙の際に「(死ぬことが)怖くない!」とハッキリ言い切ったり、その癖草太の怪我を知れば強引にも家に連れ込んで傷の手当をして、有事の際は自分よりも(椅子になってしまった)草太の食事の準備を最優先するという、ある種の危うさを抱えてもいる。家族も友達もいて、帰るべき場所もある、どこにでもいる普通の女子高生に見えた鈴芽もまた、大いなる喪失に囚われ、今なおそれは回復しきっていないのだ。そしてそれは、住んでいた地域や被災の度合いによって差こそあれ、あの日を境にずっと奪われ続け、失い続けた我々日本人の姿を投影しているような気がしてならない。

 本作における、3/11を根拠とする「喪失を前提とした物語」は、直近の新海監督作品とはハッキリと異なる作風に感じ取ることができた。『君の名は。』では彗星による一つの町の消滅から少なくとも人命だけは救えたし、『天気の子』においてはヒロインと世界の二つを天秤にかけ、結果として東京が雨に沈んだ。喪失はあくまで主人公とヒロインの恋の成就に至る要因であり、その喪失――あるいは物理的・心理的な距離を発生させるギミック――はドラマを盛り上げるための「出汁」であったし、『君の名は。』における彗星周りの描写は当時賛否が別れていたような記憶もある。

 その点において、3/11という映画の外枠に起こった現実の事象をモチーフに登場人物の心理や行動原理の前提として設定し、失われたものはもう取り戻せない、不可逆なものとする今作のセッティングは、新海監督も並々ならぬ覚悟の上でこの脚本を書き上げたはずだ。鈴芽も、そして我々も、喪失の後を生き続けている。そのことを真正面から向き合うために10年の月日を、二本の映画を必要としたのだと思うと、本作が「集大成」と打ち出されるのはあながち間違ってはいない。我々の日常を破壊するのは“ただひたすらに美しい眺めだった”彗星でもなければ、巫女の人身御供によって降り続ける雨でもない。目的も意思もなく、意思疎通なんて出来やしない、この地盤の下に蠢く「何か」なのだ

 ただ、本作がより画期的だったのは、喪失そのものを受け入れて未来に向かって歩いていく、という理想的な作劇のその先、「取り戻せるものは取り戻したい」と言ってのけた点にある。東京に住む1,000万人の命と草太一人の命、その二つを迫られ「世界」を選び取った鈴芽の旅は、そこで終わらなかった。妥協なんてしないし、どちらかを犠牲にするのではなく両取りしたい。そんな願いを、いや、【欲望】をこの2022年に描いてくれたことは、こと私にとっては大いなる救いであった。

 2022年、『仮面ライダーオーズ 10th 復活のコアメダル』という映画があった。そして、私にとってこの作品は「喪失」という言葉がもっとも相応しい作品であった。

※以下、『仮面ライダーオーズ』の
ネタバレが含まれます。

 2本もnoteを投稿しておいて何だが、私にとってこの作品と向き合うことは「公式から出された結末をどう飲み込むか」を考え続ける旅でもあった。キャラクターの心理として、あるいは物語や作品のテーマの必然性として発生した別れを是とするか否か、それをどう受け入れるのか。本編を複数回観て自分なりの着地点をようやく見つけたところに、BD封入のライナーノートを読んで冷や水を浴びせられるような思いをしたり……と、2022年を総括する上で外せない映画体験であった。

 主人公の死は、10年ぶりの最新作にして完結編に用意されたフィナーレとして、正しかったのだろうか。どうやらその疑念がトラウマのように、心のどこかに刺さったまま生きていた私は、やはりあの結末に最後まで納得がいっていなかったのであろう。その傷を優しく包み込んでくれたのが、あの新海誠の最新作だったなんて、予想できるはずがなかった。

 『仮面ライダーオーズ』の愛すべきキャラクター、知世子さんの言葉を借りるのなら、「もっと欲張っていいじゃない」ということだ。東京の1,000万人も、草太も救う。その両取りを欲張れるのは、この世界で鈴芽だけだ。届くのなら、手を伸ばす。それは、たとえ見苦しくても感傷的すぎると言われても、私が本当に観たかった「いつかの明日」の光景で、わかったようなフリをして自分の本当の願いに――映司とアンクが一緒に暮らせる未来を信じていたかったというワガママに――蓋をしてしまったことへの、痛快なアンサーだった。

 新海誠は本作において、喪失のままで映画を終わらせなかった。3/11で受けた傷を受け入れて、苦しい日々を耐えてきた。今日この日まで、懸命に、生きてきた。そのことを、本作はただひたすらに肯定する。

 日本はもう、あの日を境に壊れてしまった。そして、3/11以前の世界には戻らないことを、誰もが悟っている。そんな世界で、少年少女が犠牲となることで続く日常を描くのは、希望がないにも程がある。だからこそ、『君の名は。』や『天気の子』には出来なかった答えを、スクリーンを通じて我々に提示した。誰かの犠牲を感傷的に憐れむのではなく、胸のすくようなハッピーエンドを。言葉にすれば陳腐だけれど、「震災」という理不尽な暴力によって何もかもを奪われ続けてきた人々には、希望も必要なのだ。

 そんなメッセージを、いま日本で最も注目されるアニメ監督として、さらには次世代のジブリ的な期待さえをも背負う立場になった今、堂々と打ち立てる度胸と矜持にこそ、私は賛を送りたい。面白いだとか感動したではなく「救われた」とさえ感じたのは、新海作品でも初めてのことだった。届きはしないだろうけれど、「ありがとうございました」と、この場で書き記しておきたい。

 そして、本作が「喪失」のままで終わらなかった意味を時折思い返して、映画館で感じたあの安らぎのようなものを心の支えにしていこうと思う。鈴芽と草太の旅路が、これからも幸せでありますようにと、願いながら。


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