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初見感想『仮面ライダーオーズ 10th 復活のコアメダル』お願いだから、その手を伸ばして。

 「オーズの完全新作が来年公開

 そんな言葉がタイムラインに流れてきた時、胃の中でいろんなものがせり上がってきた。それが喜びか戸惑いか焦りだったのか、あるいはそれらがぐちゃぐちゃに混ざったものだったのか、今でも断言できないでいる。

 『仮面ライダーオーズ』がどんな作品だったか、をざっくり省略して、なぜ今回の完全新作がこれほどまでの生理反応を呼び起こしたのかと言えば、私もあの最終回が全ライダーの中でも五指に入るくらいには大好きだから。と同時に、「続き」に対して神経質になってしまうのが『オーズ』の何に惹かれているのかの証明になっているのだと、10年経って改めて考え込んでしまう。

 「ただのメダルの塊」が選んだのは一見すると無欲な旅人の青年。しかしこの青年の中には誰よりも大きな欲望が秘められていて、この数奇な出会いによって欲望を餌とする生命体が「死」を知り、生命体として「満足」を得たまま消滅する。1話の出会いから動き出した運命をジェットコースターの如く稼働させてきた物語のエモーショナルはクライマックスバトルで最高潮に達し、哀しくも美しい別れが視聴者の胸を打った。火野映司とアンク、最高のバディは前作『W』とは異なる結末を経ることで、半ば神格化された印象さえ受ける。

 だからこそ、アンクの復活はファンが最も観たい光景でありながらも、同時に最終回の余韻を壊しかねない諸刃の剣なのだ。出来る限り慎重に、それこそ割れたメダルを綺麗にくっつけるように細心の注意を払って臨まなければ、あの一年間の物語を否定しかねない。その高すぎるハードルに最初に挑んだのがご存じメインライターの小林靖子女史であり、『MOVIE大戦MEGAMAX』のオーズ編においては一時の再会であることを強調しながらも「いつかの明日」への希望を残すという、あの時点では最適解と言ってもいい感動的なエンドマークだった。

 そして記憶に新しい『平成ジェネレーションズ FINAL』では、仮面ライダーオーズ最推し強火オタクこと、主演俳優・渡部秀氏の監修の下、クロスオーバーという土台すらも利用して反則スレスレの復活劇を披露。その暴走気味な愛はしかし、二人の高い演技力と演出効果や劇伴といったあらゆる要素が噛み合った結果、仮面ライダー映画全体を見渡しても突出した催涙度とエモーショナルを誇るシーンが連発して、もちろん私も号泣した。映司がようやくアンクの手を「掴む」ことで、最高の奇跡を成し遂げられたのだ。作品への深い愛と理解が果たした再会と、そして別れ。アイスの味を感じられたかは定かでなくとも、「命」の確かな感触を味わってから消えゆく様を表情一発で演じきった三浦涼介氏の演技は、「アンク」というキャラクターの表現としてベストアクトだと今も熱っぽく語りたくなる。

 そう、あくまでアンクの復活は“一時的で”、“奇跡のような出来事で”あり続けた。これまでの客演が「いつかの明日」の具体性を積み重ねつつ、TVシリーズで一度完結した物語ゆえに、決定的な場面は描かれない。再会という名の希望に手が届くまで、火野映司は旅を続ける。それが『オーズ』のこれまでの帰結であった。

 そこにいよいよメスが入れられてしまうのだから、ただ事ではないのである。ファンが創作する同人誌でもなく、公式からお出しされたオリジナルキャスト・スタッフ再結集しての完全新作でついに「いつかの明日」がやってくる。いわばパンドラの箱の蓋に手をかけるが如き所業であり、そのことに色んなお気持ちがぐるぐる頭を巡ってしまうのはファンの性。楽しみであり、恐ろしくもあり。描かれないことが美徳とまでは言わないが、公式から出てしまえばもう「戻せない」のである。観るべきか、観ないべきか。いやもちろん観ないなんて選択肢は論外なんだけど、でもさァ~~~~~!!!!を繰り返していたのが、2/28日19時までの私の心境だった。

 ここから本題。『復活のコアメダル』なのだけれど、やはり根底にあるのは「ありがとう」なのである。完結後に大出世を果たし人気者になった反面、スケジュールを押さえられず再演が困難になっていったライダーは無数にいるし、演者が俳優を引退したり不祥事を起こしてしまったり等哀しい出来事もたくさん見てきた。その上でオリジナルキャストが誰一人欠けることなく集結し10年越しの単独最新作が創られるなんて、夢のようだ。

 そしてもちろん、オーズの新作を創ること=映司とアンクのその後を描くことに対して最も考え、悩みぬいたのはキャストやスタッフの皆々様であるからこそ、こんなに愛が溢れる作品が生まれたことは鴻上さんならずとも祝福すべき出来事だ。奇しくもコロナと戦争の影に怯えなければならない不安定な2022年の現実は、災害という理不尽な暴力と戦い抜いたTVシリーズとの縁も感じずにはいられず、なればこそ「欲望」「愛」というキーワードが希望たりえるところも、実に『オーズ」らしい。

以下、『復活のコアメダル』の重大なネタバレを含みます。
すでに本編をご覧になった方のみお読みください。
また、本稿は02/28の「完成披露舞台挨拶 全国同時生中継」
鑑賞後に執筆したものになります。

 ここまで述べてきたように、オーズの新作となれば当然、ファンの興味は「なぜ/どうやってアンクが復活するのか」に注目してしまう。だが、本作は冒頭でそれをあっさりと消化してしまう。復活したアンクと変わり果てた世界と映司との再会。最もエモーショナルになるはずの見せ場と舞台設定の説明を淡泊に、事務的に進めてしまう本作を観ていくと、どうやら主題は“そこ”じゃないらしいということに気づく。

 ファンに対しても再会の余韻に浸らせてくれない意地悪な作品はやがて、その恐ろしい現実を目の当たりにさせる。映司に憑りついていたのは彼自身の多大なる欲望から生まれた人造グリードのゴーダであり、そして映司は800年前の王との闘いに巻き込まれた少女を守るため自らを犠牲にし、すでに死んでいるというのだ。目の前の命を助けるために躊躇いなく手を伸ばした映司は、その命を散らしていたのである。

 それでも、かつて自分が憑りついた泉信吾が息を吹き返したように、ゴーダを利用することで映司を取り戻せるかもしれないという可能性に賭け、アンクは一時的な共闘関係を結ぶ。メダルを投げて渡した相手も、アイスを用意したのも、全て映司を模した偽りの存在。まるでこちらの身も心も切り刻まれるような鬼畜の所業が続く本作は、衝撃の結末へと至る。

 全てのコアメダルを吸収したゴーダは、映司を捨て単独の存在となった。そんなゴーダを倒すため、映司とアンクは最後の変身に挑む。二人の絆はタジャドルコンボを更なる形態・エタニティへと進化させ、TVシリーズ最終回を引用する形で飛翔する。そして闘いに勝利したとき、映司はアンクを信吾の身体へと託し、かつて庇った少女の無事を知って息絶える。映司の最大の願いは、アンクを復活させること。その願いが叶ったことを見届けて、満足したことで火野映司の旅は終わりを迎える。

 公式から出た以上、この結末は受け入れなければならない。映司が死んだ。ずっと待ち望んでいた「いつかの明日」はほんの一瞬で、その優しい笑顔にはもう会えない。どんなに手を伸ばしても人間の命は一度きりで、どうやっても取り戻せない。澄み渡った青空の下、大切な仲間に看取られて旅立った映司くんの表情は、私の心に深い傷を残していった。

 もはや、映画の出来不出来を語れる余裕すらもない。一個人の感情以外で、この別れと向き合うことは不可能だ。であるからこそ、ここからは一人のファンの身勝手な欲望という前提の下、読み進めていってほしい

 800年前の王との闘いにおいて、少女を守るために躊躇いなく身を挺した映司は、紛れもなく“火野映司”の在り方そのものだった。たくさんを守るための力を求めオーズとして戦い続けてきたこれまでの彼を見ていれば、手が届くのなら伸ばさずにいられないのが火野映司という男であることをみんなが知っている。

 でも、あくまで私は、映司にもっと欲張りになってほしかった。アンクを復活させたいという願いの先に、「アンクと一緒に生きていきたい」という願いがあることを、私は信じていた。死ぬのが嫌だと、アンクと離れたくないと、もっともっと身勝手でいてほしかった。それくらいのエゴが許されたっていいじゃないか。アンクを取り込んで、共生するほどの貪欲さを見せてほしかった。置いていかれる寂しさを知る映司が、アンクにそれを味わわせる結末なんて、悲しくてやりきれなくて、辛いに決まっているじゃないか。

 アンクを残して映司が一人で逝く。それは、「ただのメダルの塊」でしかなかったアンクが一つの「命」へと変化し、そしてそれを差し出したことで人間のまま映司を送り出したアンクの最後の欲望を、無にしてしまう。あるいは、TVシリーズにおいて比奈ちゃんや後藤さんが映司の手を掴もうとしたのは、他者を救うという火野映司本人の意思を尊重しながらも、彼を神様にしない=時には自分のことを優先してほしい、一人の人間として「火野映司」を大事にしてほしい、という願いがあったはずだ。

 もちろん、アンクに生きていてほしいという映司の願いも、それが「欲望」である限り、尊重されるべきだ。だって『オーズ』はそういう物語だから。わかる、わかるよ。「それがお前の願いなら」という言葉が、全部物語ってくれているよ。でも、でも、ずっと待ち望んでいた、同時に観てしまうことが怖かったいつかの明日が「別れ」だなんて、アンクの亡骸を掘り起こしてまで見たい光景だったかというと、やはり「否」になってしまう。アンクには、自分を送り出そうとする映司の手を、無理やりにでも掴んでほしかった。あがいて、諦めないで、命を繋いでほしかった。

 しかし、今回の彼の決断は「火野映司」として正しい。火野映司が「満足」してこの世を去るのも、『オーズ』として正しい。先ほど、この文章を「身勝手な欲望」と注意書きしたのは、そこをお伝えしたかったからだ。作り手は何も裏切っていない。私の欲望と作り手の描きたいものが哀しくもマッチせず、その苦しみに私がむせび泣いているだけなのだ。何か欠けたままで終わるのが『オーズ』らしいけれど、満たして終わって欲しかった気持ちが、この作品を飲み込ませてくれずにいるだけだ。

 たとえご都合主義と揶揄されようと、(作品がそう至るべき、ではなく私自身の願い、であることを留意いただきつつ)いつかの明日は映司とアンク、比奈ちゃんも後藤さんも伊達さんも知世子さんも里中さんもみんなが笑顔でいられる、そんな日であってほしかった。得る代わりに失わなければならない現実を否定してほしかった。誰かを犠牲にせずとも、みんなで手を繋いで終われれば、それでよかった。完結編と銘打って、ある意味で未来への希望を閉じてしまう大事な一作を、涙で終わらせてほしくなかった。それが一人のファンである私の欲望なのだけれど、残念ながら叶わなかった。

 『MOVIE大戦MEGAMAX』において、共に戦うのもこれが最後?と問う映司に対し、アンクは「そうしたくなかったら、きっちり生き残れ!」と叫んだ。後付けということを承知の上で、映司の最期を看取った40年後のアンクの言葉として、これ以上に重たいものはない。別れの言葉を告げずに去っていったアンクを想い、希望を見出すことも出来なくなってしまった。そのことが今、悲しくて仕方がない。

 言うまでもなく、渡部秀氏と三浦涼介氏の演技は、素晴らしかった。時に役を離れ演者自身の気持ちが前に出てしまうところも含めて、これぞ『オーズ』と言わんばかりの熱演で涙を誘った。本当に美しかった。あの笑顔にもう一度会えてよかった。舞台挨拶で見せたお二方の涙は、彼らがこの結末を受け入れるために必要な痛みの表出として、私の胸に刻まれた。

 ありがとう。映司とアンクでいてくれて、ありがとうございました。誰よりもこの役を理解し、愛し、全力で表現してくれたお二方がいたからこそ、『オーズ』は忘れられない一作になりました。どんなに言葉を重ねても伝えきれないだろうけれど、『オーズ』と出会ったのは得とか損とかじゃなくて、間違っていなかった。大好きな仮面ライダーの幕引きに立ち会えて、幸せでした。

 ただ、今後春映画やオールライダー映画が製作されたとしても、そこに「火野映司としての仮面ライダーオーズ」がいないことは、どうしようもなく、さみしい。


【3/13 追記】
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
この度、二度目の鑑賞とパンフレットの読破にて、
追記となる記事を書かせていただきました。
併せてお読みいただけると幸いです。


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