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映画館で映画を観ることと、シン・ゴジラ

 まさか、映画泥棒のマナーCMを観て、涙腺が緩むことがあろうとは。

 見慣れたはずの企業CMに見入ってしまったり、もち吉の社長と再会できて嬉しくなってしまったり。そんな感情に襲われた人たちが、全国にたくさんいるはずだ。私も、そんな映画ファンの一人であることを、再確認したお話。

生きがいを失うということ

 新型コロナウイルスが全世界で猛威を振るい、外出しないことが「正しい」ことになってしまった2020年春。飲食店や貸会議室、コンサートホールなど人が集まる場所は軒並み営業自粛を迫られ、廃業に追い込まれた方も少なくないだろう。映画館も「密」を生むためか全国で一斉に休館ラッシュが起こり、日本で営業している映画館が一館もない、という状況にまで追い込まれてしまった。

 全国民の命を守るための自粛だとは承知しつつ、娯楽がその煽りを受けるのは、辛いものがあった。毎週末公開される新作映画の上映スケジュールと睨めっこしながら、週末の予定を考えることが当たり前になってしまった人生において、楽しみにしていた新作映画が軒並み公開延期の憂き目に会い、そのうち映画を楽しむ行為さえ奪われてしまった。上記のツイートは4月末時点のものだが、緊急事態宣言が解除されスクリーンが営業再開するまでの間、およそ二か月も映画館に行っていないことになる。

 そうなると必然、人生がつまらないもののように感じられた。大げさでもなんでもなく、「週末に楽しみを置いておく」ことで日々の労働や細々とした面倒ごとに耐えられていたことにコロナショックで気づかされ、いつ終わるともしれない閉塞感と、そんなこともお構いなしに降りかかってくる業務の重圧に、いつしかエンタメと向き合う気持ちやこんな状況でも楽しもうとする意欲がどんどん減退していくのを感じていた。新作映画を観ることもなければnoteの更新頻度も減り、文章を書くモチベーションも日に日に衰えていく恐怖感さえあった。コロナ前の自分には戻れないな、という確信が、ジワジワと自分を蝕んでいった。

映画館が“開いている”ということ

 それでもなんとか生き延びて、月日は6月へ。全国の映画館も感染対策をバッチリと施した状態での営業を再開し、ようやく日常の一部が戻ってきた。

 新作映画が公開延期となる中で、過去作のリバイバルが中心となったラインナップ。休館前まで公開していた『パラサイト 半地下の家族』『ハーレイ・クインの華麗なる覚醒』に混じって、『クリード』2部作や『君の名は。』『プロメア』が上映されるという異常事態に、どこか不謹慎な嬉しさを感じていた。自宅での鑑賞環境に物足りなさを覚えていたところで、あの名作を再び大スクリーンで味わえる。こんなに嬉しいことがあっただろうか。

 そんなわけで、何やかんや土日も働いて疲労困憊になった身体をなんとか奮い立たせて、2か月ぶりの映画鑑賞と相成った。復帰第1作に選んだのは、2016年の大ヒット作『シン・ゴジラ』。ゴジラを「国難」として描き、緊急事態宣言が映画内でも布告されるなど、今の日本と期せずしてリンクしてしまった一作。今のタイミングで観るに相応しい一作だというワクワクが、どうにも止まらなかった。

 地元の映画館はまだ寂しい人入りで、人と人との距離も遠く話声も聞こえてこないような、妙な静けさがあった。みんなスマホの画面を観ながら、静かに入場を待っている。そんな緊張感を保ったままの劇場ロビーは、少々居心地が悪い。

 それでも、心はまだワクワクを抑えられなかった。ネットで席を予約し、館内の無人端末でチケットを発券する。数か月前までなんの感慨を持たなかったルーティンでさえ、今日この日だけは楽しくて嬉しくて仕方がない。映画館を応援する意味でも売店に並び、いつもはあまり買わないポップコーンを選ぶ行為も、どこかこみ上げるものがある。

 いざ開場となった時、『シン・ゴジラ』のスクリーン一番乗りは私だった。ロビーにいた人たちは何を観るのだろう、という考えが一瞬よぎり、そして消え去った。床から天井まで伸びた白いスクリーンと、壁に併設されたスピーカー。そうだ、これが「劇場」というやつなのかと、打ち震えた。圧倒された。無人のハコをしみじみと見渡し、椅子の数に驚いた。投影された映像を、鳴り響く音楽や効果音を、たくさんの人と共有する。見慣れたはずの風景があまりに懐かしいもので、他の誰かがスクリーンを訪れるまで館内を歩き回ってしまった。映写室にいるスタッフからは、さぞ不審人物に見えただろう。申し訳ない。

 そして感情は、冒頭の文章に戻る。上映時間になるとスクリーンは徐々に照明が落ちて暗闇になり、CMが流れ出す。大きな文字と大きな音が、視界と耳を埋め尽くしていく。最新映画の予告はどれも「近日公開」が目立つが、PCのモニターで観るそれとは迫力が段違いだ。そしてみんな大好き「映画泥棒」さんと再会して、思いもしなかった感情に襲われる。こうして「映画を楽しむ雰囲気」が作られていく光景が、身体と心に染みわたるようにエネルギーを充填していく。映画館がある日常が戻ってきて、本当によかった。この喜びは、どうしてもうまく文章で伝えられない。

2020年に観る『シン・ゴジラ』

 公開当時、それはもう狂ったように映画館に通った『シン・ゴジラ』だが、「現実」を経ての鑑賞にて、やはり当時とは違った感想を抱くに至った。

 『シン・ゴジラ』におけるゴジラは、第2形態は津波のように人々を飲み込み、第4形態が真の力を発揮してからは放射能という形で人々の日常を侵食していく。まるで自然災害のように、無慈悲で抗いようのない破壊。それは3.11の大災害を嫌でも想起させ、日本人の深層にあるトラウマを呼び起こさせるからこそ、本作のゴジラは真に恐ろしい存在として東京に居座り続ける。

 その一方で、ゴジラは生物として目に見えてそこにいて、あまつさえ我々は感情を読み取ろうとすることも可能なのだ。牧吾郎教授の無念を見出したり、MOP2大型貫通爆弾を受けて血を流すゴジラに憐れみを抱くことさえあるほどに。目に見えず、ただ繁殖し続けるコロナウイルスの方が、我々の一方的な解釈を挟ませないという意味でゴジラより恐ろしく、禍々しく見えるのかもしれない。現実の我々はコロナウイルスに「蒲田くん」などと愛らしい呼び名をつけられないのだから。

 中盤の最大の見せ場。ゴジラがついに放射熱線を吐き東京を死の街に変えるシーン。その美しいカタストロフの光景は全ゴジラ映画の中でも最もお気に入りのシーンなのだが、やはり映画館でこそ真価を発揮するのだと再確認できた。紫の光に包まれたゴジラの口が大きく開き、煙から赤い炎へ、そして青白いレーザーに変化していく熱線が東京を焼き尽くす。無数の死の香り漂う切なさと、どこか解放感に似た感慨を抱かせるこのシーンには、何度となく落涙させられた。一体、この熱線に焼かれるのは、どんな心境なのだろうか。もしや、痛みや熱を感じる暇さえなく、消し飛んでしまうのだろうか。それはきっと、疫病に苦しめられるよりも救いのある死なんじゃないかと、よからぬ想像が頭を埋め尽くしてしまう。

 そうした未曽有の大災害に、個ではなく「集団」で立ち向かうのが「巨大不明生物特設災害対策本部」のメンバーたち。現実のコロナ騒ぎでは日本政府の対応に尋常ならざる批判が相次ぎ、日々の報道が国民を疲弊させたことも確かだが、「現場」というものはいつも必死に懸命になって働いている。風呂に入ることも忘れ、家に帰れずとも弱音を吐かずに何とか目の前の問題に食らいついていく。作中の官僚たちは美化された存在だと言う人もいるだろうが、何も一くくりにして政界を批判してしまっては、そうした人たちの努力や献身に気づけない。死の恐怖に怯えながらも最前線で闘い続けた人たちのことは、無条件に賞賛されるべきだ。そうでないと、救いがなさすぎる。

 何より響いたのが、竹野内豊が演じる赤坂が終盤に放った「スクラップアンドビルドでこの国はのし上がってきた。今度も立ち直れる」という一言。あの憑き物が落ちたような彼の演技と言葉の重みが、帰り道ずっと心に残り続けている。筆者は政治がわからぬ。だからこそ、復興に向けての具体的な方策やビジョンが何一つ浮かばないし、東京五輪が開催されたとて何かがいい方向に進むとはこれっぽっちも思ってはいない。それでも、前述した「コロナ前には戻れない」という漠然とした不安に対する、ささやかな慰めとしてこの言葉が響いた。

 本作の結末は、「人類がゴジラと共存していく」というものだ。核を落とさせる最悪の結末を招くことなくゴジラを凍結することに成功した矢口ら巨災対だが、日本は時限爆弾を抱えたままだ。いつゴジラが再始動するかわからず、全世界から常にその動向を監視され続けるだろう。作中の日本は「ゴジラ以前」には戻れない。それは我々が生きる現実も同様だ。コロナウイルスによって奪われたものは数えきれないほど多い。命、仕事、お金、生きがい。どんなに努力しようとも、失ったものは戻ってこない。そのことから目を背けることは許されないし、向き合って生きていくしかないのだ。もちろんこれは、幸運なことに家族や友人をコロナで失うことは無かったからこそ至れる境地なのだとは承知の上で、奪われた過去に囚われるよりはこれからを見据えて生きていく方が望ましいということが、やはり大切だと気づかされた。心の中にある不安を和らげてくれた『シン・ゴジラ』は、その甚大なる破壊の光景とは裏腹に筆者にとってセラピーになってくれたことに、感謝の念を禁じ得ないのだ。

映画館で映画を観ること

 改めて、映画館で時を過ごすことは何よりも贅沢な行為だと、そう実感した。動画配信サービスやレンタルソフトが溢れかえる時代、作品そのものに触れることは容易い。だが、映画館で鑑賞するという行為は「体感性」が加わり、ストーリーを追うだけに終始してしまいがちなお家鑑賞とはやはり別物である。スマートフォンやPCといった誘惑、あるいは突然の連絡から隔絶され、暗い場内でただひたすらに映画を向き合う空間。そこにこそ映画館で観る価値を見出しているから、映画館に通うことを止められないのだろう。

 公開延期になった数々の最新作、発声上映といったイベントが戻ってくるのはまだまだ先の話になるだろうが、映画館が当たり前のようにそこにあり続けてくれることは、何よりの希望だった。日常の象徴が少しずつ戻ってきている今、苦しい現状でも娯楽を楽しむ心の余裕が戻ってくれば、きっと人生は良くなるはず。そんな日が一日でも早く戻ってくることを祈りつつ、来週の上映スケジュールに目を通す。この時間が何よりも幸せだ。この文章を最後まで読んでくださった映画ファンも、きっとそう思ってくれると信じたい。

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