『シン・仮面ライダー』二回目の鑑賞と、前回のテキストに関する訂正とお詫び。

 またしても観てしまった、『シン・仮面ライダー』を。まだ二回しか鑑賞していないが、あと2~3回はおかわりしたいと考えている。脳内では激しく賛否が分かれつつ、他の作品群にはあまり抱かない種の中毒性に狂わされてしまうのも、『シン』シリーズの恒例行事となってしまっている。一番回数の少ない『シン・ウルトラマン』とて、4回は劇場に足を運んでいるのだ。

 二度目の鑑賞を経て、自分の記事を読み返してみる。最速公開日の夜、凄いものを観てしまったという興奮と、幾ばくかの期待外れとの間に苛まれたそのままを出力したつもりであるけれど、見落としている要素が多すぎて映画感想としてはかなり浅い、謙遜抜きで拙作と呼んでいいものである。

 無論、「ヘンな映画」であることは間違いない。対〇〇オーグ編を数珠つなぎにしたオムニバス形式が行き過ぎていて映画の常道たる三幕構成の境目は曖昧だし、プラーナがいつしか「魂」と同義語となりルリ子とイチローの対話の心象風景がライダーを越えてむしろウルトラシリーズ的な表現になっていて、観ていて非常に不安な気持ちにさせられてしまう。また、それは「そういうもの」だと理解しつつ、異形に改造され人間らしさを見失う恐怖にかられた本郷が、緑川博士の説明を受けてからルリ子を守るという動機に至るまでが、あまりに早すぎると感じてしまう。力を求めていたからオーグにしました、で怒らずにいられる精神の人間を「コミュ障」で一刀両断するのもギャグすれすれである。

 上掲の文章で挙げた不満点は、極端な要約をすれば「また人類補完計画の話してる」というものであった。庵野秀明による解釈で蘇ったSHOCKERはいかなるロジックで、人類の幸福実現を成し遂げようとしているのか。ここに最も興味を惹かれた一個人として、実際のフィルムで提示された内容については庵野氏の根強い思想を改めて感じ取りつつ、そこに驚くような新しいビジョンが無かったことに、少なからずモヤモヤを感じていたのだ。

 これに関しては大いなる誤読をしていたのだが、そもそもSHOCKERの上級構成員は人類幸福に関する共通理念を、最初から持ち合わせていないのである。SHOCKERは一枚岩などではなく、例えばコウモリならヴィルース(Virus)による人口調整と選民思想によって、ハチなら洗脳により意思や思考そのものを奪うことによって、彼らはそれぞれの趣向(趣味?)と方法によって己が思う人類幸福を目指しているに過ぎない。そのため、例の人類補完計画じみたハビダット計画もあくまでイチローの主義主張であり、SHOCKERの考える人類幸福の手段の総意ではない、ということを初見時に見落としていたのである。

 また、2号こと一文字が受けていた洗脳とは「辛い記憶や絶望を封じ込め多幸感で上書きする」というものであるとルリ子が語っていたように、イチローの中には“辛い”ものに蓋をしてしまおうという考えが強く根付いていると思われる。加えて、イチロー自ら「痴れ者」と表現した父・弘は、妻の死を契機に研究に没頭し、やがては自らをSHOCKERに引き入れ、その上で組織を裏切り本郷をバッタオーグにした裏切り者である以上、イチローはすでに(ロボットであるKを除いては)寄る辺がない状態なのだ。故にイチローはSHOCKER構成員もろとも全ての人類のプラーナ(魂)をハビダットに運ぶことを宣言しており、そこには組織としての崇高な理念や人類幸福への絶対のソリューションなど、ハナから描かれてもいないのである。

 よって、先のテキスト及び感想は、映画が描かんとするテーマの誤読と、それに沿っての独り相撲な失望を重ねているという、ネットの海に垂れ流すにはあまりに無責任かつ恥ずべき内容となっていて、手前勝手ではあるものの個人的な映画の評価とテキストの内容の一部修正をさせていただきたく、お詫びするものであります。すでにお読みいただいた方につきましては、大変申し訳ございませんでした。

 それを踏まえれば、イチローのハビダット計画に対し「ルリ子の復讐ではない」と前置きした上で、彼を止める決意をタチバナとタキの前で本郷が語るシーンは、実に感動的だ。なにせシチュエーションが海辺の砂浜であり、目の前の海は蒼いのだ。この海を血の赤に染めるような、一人の人間による身勝手なエゴの“補完”を成してはならぬと、同じく父を亡くした本郷が決意する。緑川イチローはやはり碇ゲンドウの再演ではあるのだが、彼の心を救わんと暴力を否定する者も確かにいる。SHOCKERの魔の手から人々を守るのではなく、ルリ子の意志を継いで目の前の孤独な男の魂を救わんとする姿も間違いなく「ヒーロー」であり、その境地にたどり着いてしまった本郷が「公的な」ヒーローとしての仮面ライダーを一文字に継いでほしいと願う心、それを汲んで“二人で一人の仮面ライダー”になることを選ぶ一文字の「粋」に、初見時には感じなかった熱を心臓に帯びることになった。

 劇場パンフレットに掲載された庵野秀明監督のコメントによれば、本作制作のモチベーションとは“オリジナルの魅力を社会に広げ、オリジナルの面白さを世間に再認識して貰う事”らしい。なるほど確かに、怪奇的で暴力的な作風も、スーツやグローブの汚れや傷の生々しさも、人知を超えた大怪獣ゴジラや神秘の巨人ウルトラマンよりも、異形の怪人こと仮面ライダーを強く想起させる。血を流し、泥臭く闘い、バイクで去るという、とかく神格化されやすい「初代」が内包している荒々しさを令和のフィルムに焼き付けるというコンセプトは、確かに成されていると実感する。映画としては歪であっても、「仮面ライダー」としては圧倒的に正しい。だからこそ、本作を他の映画と同じものさしで測れば綻びが目立つし、過剰なリスペクトに胸焼けもする。それでも、銀幕の向こうには強く憧れ、ポーズを真似したくなるようなヒーローがそこにいる。かつてブラウン管テレビを通して、その衝撃に心打たれた少年がクリエイターになり、その出会いを「シン生」させる。なんだかそのことが、二度目の鑑賞時に異様なほどに胸に刺さったのだ。

 諸手を挙げて絶賛は出来ずにいるものの、心の底から格好いいと思えるライダーに出会えたことは、どれだけ感謝してもし足りない。たとえその手が敵の血で汚れていようと、誰かの幸せを守るために涙を流す仮面のヒーローがいることを、スクリーンの前の私たちは知っている。庵野監督の語る“オリジナルの魅力“、すなわち仮面ライダーの「美学」とは、そういうことなんだと思いたい。

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