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映画『SNS 少女たちの10日間』は観て欲しいけど、観て欲しくない。

 会社の上司が、「子どもにいつ携帯を買い与えるべきか」で悩んでいた。最近なにかと物騒だし、GPSで位置を把握したりいつでも連絡が取れる状態にはしておきたい。だが、アプリゲームへの課金やネット依存、視力の低下などを心配しており、この春小学生になる愛娘の初スマホをどうすべきか、カタログ片手に悩んでいた。そんなお父さんに、この映画を薦めるべきなんだろうか。劇場から自宅へ直帰して1時間、ずっと悩んでいる。

 巨大な撮影スタジオに作られた3つの子供部屋。幼い顔立ちの18歳以上の3名の女優が「12歳の女の子」として振舞い、SNSのアカウントを作る。すると、アカウント作成直後から「おとなのおとこのひと」からの接触があり、彼女らにコンタクトを取った成人男性はなんと2,458名。彼らは「服を脱いで」「裸を見せて」「今度会おう」と誘い掛け、彼女たちがその要求に応えると脅しを始め、画面の向こうの少女たちを徹底的に凌辱する。おぞましい性暴力の実態が映し出されたドキュメンタリーは、やがてチェコ警察も動かすほどの騒動となった。そんな社会実験の様子をとらえたドキュメンタリー『SNS 少女たちの10日間』が日本で公開された。

 この映画の話をする上で、まずは自分の素性を提示しておかねばならないような気がしている。私は男性で、成人していて、子どもはいない。インターネットを通じて未成年(男女問わず)に性的な要求をしたことはないし、成人した相手に対してもそれは同様だ。ただし、“そうした”欲求の解消のためにインターネットを活用した経験が無いと言ったら嘘になるし、ネットの海に転がっている無数の画像や動画にお世話になったことなんて数えきれないほどある。そんな人間が、本作に現れる「オオカミ」たちのことを指差して何かを言う権利があるのだろうか。そう思いながら書いているということを承知の上でお読みいただきたい。

 本作はいわば「映画の形をした地獄」である。今この瞬間も世界のどこかで確実に起きている性的搾取の様子を観て、「SNSは危険だから気を付けよう」「見知らぬ相手とのコミュニケーションは怖い」だけの感想で済むのならまだいい方だ。私はハッキリと「人間でいることがイヤ」で仕方が無くなってしまった。画面の向こうの少女に性器を見せつけ、相手の尊厳をぐしゃぐしゃにしてやろうと下衆な笑顔を浮かべているこのクズ共と同じ人間で、そんな奴らが職をもって、家族をもっているのだ。一体、何を信じたらいいのだ。この映画を観れば、あなたの世界を見る目は確実に変わるだろう。職場で顔を合わせる人々、いつも通う飲食店で隣に座った人、隣人、そういった人々が外では立派な社会人として振舞いながら、その裏で子どもを辱め、脅迫しているかもしれないのだ

 思えば、自分は幸福だった。誰もが自分の携帯電話を持って当たり前の時代が到来した頃には中学生になっており、トラブルが皆無だったわけでもないが自死を考えるほどの大きな悩みに直面したことも無かったし、性被害とは無縁の人生を送っていられた。なればこそ、この映画は「知らなかった現実」を突き付けてくる。誰かとSkypeをして、通話が始まって相手のカメラに画面が切り替わった瞬間、むき出しの男性器が現れる。もう立派なホラー映画であり、現実に起きている分よりタチが悪い。こんな恐怖に日常から晒されている人たちがいるなんて、知らなかったのだ。

 そうした性被害を受けた少女たちは、男性との接し方や恋愛への考えに悪いイメージを抱き、その精神的ショックは図り知れない。親にバレたらどうしよう、裸の写真をばらまかれたら生きてはいけない。そうして死を選ぶ若い世代が後を絶たず、SNSを介した性暴力の深刻さが明らかになっていく。すでに成人し、企画の趣旨に同意した上で参加した三人の女優も「オオカミ」とのコミュニケーションに疲弊し、涙を流す場面もあるのだが、そもそも冒頭ではオーディションを受けた女優たちも過去にSNSを介した性的暴力の経験があり、そのトラウマが一生モノであることは本作を観れば伝わるはずだ。性的暴力は、一人の人間の心と人生に消えない傷跡を残すのだ。加害側は何の責任も、わずかな罪悪感さえ抱かずに。

 本作では、「どうして少女たちは裸の写真を送ってしまうのか」のメカニズムも語られるのだが、肝心なのはそうした若者たちの悩みにつけこんで、彼らをコントロールしようとする大人がいる、ということなのだ。

クルサーク監督は本作のための取材を重ねた経験から、少女たちの心理をこう説明する。
「12歳の少女たちは、いわば大人と子どもの“境目”と言える非常にデリケートな時期を生きています。親をはじめ、周りの大人たちは彼女たちに厳しいことを言う存在であり、なかなか対等と言える関係を築くことはできません。そんな時、ネットには親や教師たちと同じような年齢で、自分と対等に接してくれる存在、自分のことを理解してくれているようにふるまう存在がいるわけです。少女たちは、自分を大人として接してくれる存在、優しくしてくれる存在を求めてしまいます。
そうした状況でネットでコンタクトを取ってくる男たちは、まず彼女たちと友達になろうとしてきます。彼女たちのプロフィールはオープンにされていて、それを見れば趣味やペット、好きなものが全てわかります。そうした情報をミラーリングして、彼女たちに話を合わせてくるのです。そうすることで少女たちは徐々に、彼らを“信頼できる存在”と認識していきます。ある時点で彼らがこうした関係を「終わりにしたい」と告げると、少女たちは『関係を維持したい』と願います。そうした少女たちの心理に付け込んで『じゃあ裸の写真を送ってくれるなら…』と要求し、彼女たちもそれに応じてしまうのです」。(引用

 これが、この世から子どもへの性暴力が無くならない仕組みだったのだ。思春期特有の、親との心理的距離感に悩みを抱える若者たちのそれに寄り添うようなフリをして、相手が釣れたと思えば卑劣な要求を繰り返し、親や友達にはバレたくないという気持ちを利用する。狡猾で、愚劣で、反吐が出る。

 そんな現実を前に、どうしたら子どもを守れるのだろうか。もはやスマートフォンやSNSとは無縁の生活に戻ることは不可能だろう。であるのなら、自分の身を守る術を説いていくしかない。画面の前の相手が、本当にあなたを救いたいと思って接触しているとは限らないし、あなたの身体はあなたのもので、無暗に晒してはならないのだ、ということ。しかし、私に子どもが出来たとして、それをどのように伝えたらよいのか、まるでわからない。

 冒頭に戻ろう。娘にスマホを買い与えるかを悩むお父さんに、私が伝えられることは何だろうか。この映画を観て、子どもの悩みを受け止め、相談できる父親になってくださいと、未婚の身で言うべきなのだろうか。大人は子どもを守るべき存在である、という幻想をぶち壊してでも、この現実を突き付けてあげるのが、やがて一人の女の子を救うことになるのだろうか。少なくとも、愛娘のことを必死に考えているあなたが、この映画に登場する「性欲以外が抜け落ちてる」男ではありませんようにと、祈ることしか私にはできない。

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