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クジの名は。 久地の桜散策(3)

君の前前前…世からずっと、伝え続けてきたんだよ

ここでやっと、シリーズ(1)の冒頭にある「なぜ、久地の古墳を訪れたのか」をお話しします。

(2)も関連がありますので、お暇がありましたら是非。

エピソード・ゼロ 「久地(クジ)の名は。」

ある日、南武線に揺られてボンヤリとしていた時のこと。「…武蔵小杉、武蔵中原、武蔵新城、武蔵溝の口、津田山、久地、登戸…」とアナウンスが流れているのを聞いているうちに、突然気になった。

「クジ」って何? クジと言えば岩手県や茨城県の久慈。なぜこんな所に「クジ」があるの? 他は武蔵〇〇とかなのに、この駅名だけとっても違和感。

気になって仕方がない時は、ググるしかない。

〜知って育てる郷土愛〜 久地・宇奈根(くじ・うなね)
久地・宇奈根地区は高津区の西端で多摩区に接し、北側を多摩川が流れ、東南部は下作延、溝口、二子に接した地域です。

“久地”の由来については、多摩川の流路の変遷によって、河岸久地山の丘陵地がクジ(えぐ)られたことにちなむと考えられています。クジは急な崖を意味する言葉で、各地に久地、久慈の地名は見られます。

“宇奈根”については、“溝”を意味する古い言葉にウナテ があり用水の溝の目立つ地という説があります。一方ウナとは畝の転訛したもので、多摩川沿岸の自然堤防状の低く長く延びた畝のような地形にちなむという説もありますが由来はよくわかっていません。

“久地”も“宇奈根”も多摩川の流れが造形した地形に由来していると考えられます。 

キラリ高津ニュース(2009.12)

 「くじ」れているからクジなんだ…原始的な命名法。それにウナネ?なんか古語っぽい語感。すっごく気になる。

まずは、気になる宇奈根から

宇奈根の語源
宇奈根(ウナネ)という地名が残っているのは、多摩川を挟んだ川崎市高津区と東京都世田谷区の2カ所。用水を意味するウナテか畝(ウネ)が転化したようです。いずれにしても稲作に関係しているので、古くからこの辺りは穀倉地帯だったのでしょう。(中世以降、周辺は稲毛庄と呼ばれている)
興味深いのは、宇奈根命(ウナネノミコト)を祀ったウナネ神社が、全国に複数あることです。宇奈根命は用水の守護神や洪水除けの神様です。

多摩川の両岸に同じ地名!?
脱線ですが、多摩川を挟んだ川崎と東京側で、同じ地名の地域がたくさんあります。丸子、等々力、二子、野毛、瀬田…など。何ででしょう?
これは、多摩川が暴れ川だった名残り。昔は川が蛇行していたので、同名の地域は当時陸続きでした。多摩川の大氾濫や流路整備によって流れが変わり、現在のように真ん中で分割されてしまいました。

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多摩川両岸の地形や土地利用からの考察p20「多摩川流路の移り変わり」より
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 手前は宇奈根多目的広場、奥が東京都世田谷区の宇奈根



「クジ」は縄文の言葉?

久地の語源に話を戻します。クジという音に対する意味を考えてみます。

アイヌ語が語源?
前述の「クジる」の他に、調べてみるとアイヌ語由来説が出てきます。

この地名(久慈)は、
(1) 海食で「くじられた」、または「崩れた」場所の意、
(2) アイヌ語の「クツ・イ(断崖のある所)」の意、
(3) アイヌ語の「クチ(帯を締める、くびれた所)」の意、
(4) アイヌ語の「クシ(川の向こう・通る)」の意、
(5) 「コシ(越し)」の転で「越すところ」などの説があります。

この「クジ」は、マオリ語のKUTI「(川を)引き寄せる(合流する場所)」の転訛と解します。

ポリネシア語で解く日本の地名・日本の古典・日本語の語源 地名編


なぜ本州の地名に?
遠く離れた北海道のアイヌ語が、なぜ本州の地名の由来なのでしょう?

アイヌ語は、「縄文の言葉」
2万年前頃にはほぼ現在に近い地形の日本列島がつくられ、1万6千年前に縄文時代が始まり、縄文文化が 1 万3千年続く。その間、大陸から分離された日本列島で文化も共有化され、共通する言葉も育まれたと考えられる。

3千年前に大陸より大量の人が渡来、弥生時代が始った。そして現代人に繋がる弥生人が誕生し、縄文人は日本列島の南北両端に移動。(縄文人の遺伝子は)北海道のアイヌの人々に70%、沖縄の人々に30%*受け継がれている。

閉ざされた北海道で、縄文を純粋に受け継いで来たのがアイヌの人だとすると、縄文時代に話されていた言葉もアイヌ語に受け継がれたと考えられる。
つまり、アイヌ語は「縄文の言葉」である 。

(*縄文人の遺伝子は本州人にも10%受け継がれている)

言葉化石・アイヌ語地名は「縄文の地名」(門田英成:アイヌ地名懇親会)

ざっくりとまとめてみると、
①列島に広く存在していた縄文人が、徐々に列島の両端に移動。
②東北の一部と北海道は続縄文時代に。縄文語がアイヌ語に継承される。
③日本各地に縄文語由来の地名が残存。アイヌ語との共通点が判明。

 
縄文語の機能と名づけ
縄文時代は、状態を表すオノマトペ(擬音語・擬声語・擬態語)が言葉の役割を果たしていました。縄文人はオノマトペを使ってモノや場所に名前をつけ、「危険な個所」や「食べ物がある場所」を仲間と共有することで生き延びてきたと思われます。 
(下記リンクは子ども向け資料ですが、素晴らしい内容なので是非ご一読を)

名づけ=コトバの基本的機能
(前略)でも、腹が減ったら何でも食べるという生活だったら、毒のモノもたくさんあるわけですから、みんな死んでしまいます。
 まずは食べられるものを見極めて、毒で食べられないものや、なんだかわからないものを区別しないといけません。そのためには『名づけ』をしないといけません。名前によってみんなの共通した認識になるからです。これはコトバの基本的な機能です。

日本人と縄文の心(小林達雄 国学院大学名誉教授)

そのような話を聞いたら、もう、久地に行って語源を確かめたくなりますよね!(強引)

久地の地形

もう一度、久地周辺の地形を見てみます。

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久地は多摩川の氾濫低地。川に削られた津田山の崖下です。
先はのクジの語源をチェックしてみましょう。

(1)川にくじられている ✓
(2)断崖がある ✓
(3)津田山が他の台地からくびれている ✓
(4)東京側から見れば川の向こう ✓
(5)多摩川や津田山を超すところ ✓

ほら、全てクリアしている!
これなら、川崎市にあってもクジと呼ばれる理由が分かります!(また強引)


地名が教えてくれる過去の災害

久地を含めた高津区周辺は、大雨や台風が来る度に多摩川や平瀬川による洪水被害が起きていました。

多摩川の洪水の記録
(前略)洪水の記録といっても、古くは余程その当時の政治に影響を与えたもの以外は、記録に残っていないので、中世以降に起こった出来事で、過去を推論することになる。洪水の記録としては、二年に一回くらいの割合で記録され、数年に一度大きな被害が出ている、村名などが記録される洪水が起きている。

まず、右岸の川崎側を見ると、1200 年以降に、
多摩区 11 回 (登戸、宿河原、菅、上菅生、二ヶ領用水取水口)
高津区  2 回(北見方、諏訪河原、二子、溝ノ口、久地)
中原区  3 回(上平間、平間)
幸区   6 回 (南加瀬、下平間、南河原)
川崎区 13 回 (川崎、川崎宿、六郷橋、六百代、大島新田)
などの地名が出てくる。

多摩川両岸の地形や土地利用からの考察(川崎市)p13~

溝口も「水が通る所(溝)の出口」が語源と言われ、この地域は、水と切っても切れない縁があることが伺われます。


プロポーズは大洪水を越えて

二子新地駅に向かって多摩提道路を渡ると、いきなり、なにやら近代的なモニュメントが現れました。岡本かの子文学碑、かの子の実家は二子村にありました。

明治43年8月多摩川で大洪水が発生。新聞でその事を知った岡本一平は、二子村に住む恋人の大貫かの子に会うため多摩川までやってきました。かの子は資産家大和屋の娘で、すでに一平の子を宿していたのです。一平は多摩川の泥水を泳いで渡り、かの子に家までたどり着きます。
結婚を切り出しますが、父親はしがない漫画家には娘をやれぬと言い、取り付く島もなし。しかし、多摩川を渡ってきた男の熱意は両親の心を動かし、ついに血判状を書いて結婚を承諾させることとなりました、
このとき、宿していた子が、あの岡本太郎なのです。


現在も続く危険性

先の台風19号では高津区で内水氾濫が起き、犠牲者も出ています。

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高津区ハザードマップ



防災から考える古い地名の価値

地名の由来や歴史を調べる最中で、川崎市が発行している意義深い資料を見つけました。昔ながらの地名がその土地の形状や性質を示していること、その地名から災害を予見する可能性を述べています。

地名が教える地形の歴史-川崎の地形から見た災害地名と崩壊地名-
(川崎市:pdf全32ページ)

これを見ると、普段は穏やかで便利で住みやすい久地も、危険地名であることが記されています。

橘樹(たちばな)も危険地名?

前前…々回に散々取り上げた、古代川崎市の名前「橘樹郡」。
タチバナはミカンじゃなくて、タチ(崖)のハナ(端)を意味しているらしい。確かに、橘樹官衙のあった伊勢山台付近は、台地が多摩川に削られた崖の端っこ。もしかして、ミカンは傾斜地に育つから「タチ(崖)のハナ(花)」? 
ダブルミーニングならば、古代人のネーミングセンスすごい!
 
珍しい地名「子母口(シボクチ)」も地形由来。昔は丘に挟まれた地形を「シブ」と呼び、その出入口なので「渋口(シブクチ)」。「渋」の印象が悪いので、何らかの過程を経て「子母」に転じたらしい。


未来への警告

町村合併や大手デベロッパーの都市開発で、古い地名が突然キラキラネームに変わってしまうことがあります。タウン、シティー、プラザなどは、過去の惨事をきれいに拭い去ってしまうでしょう。

それは、昔の人が現代人に残しておいてくれた大切な伝言を消し去ってしまうこと。何百年、何千年と同じ災害が繰り返された場所で、危険性を後世の人に伝えるよう、昔の人は土地にその地名を刻み込みました。時を超えて伝わるように…。

それを、たかだか数十年しか生きていない現代人が、目先の利益のために変えることの危険性を、私たちは本当に理解しているのでしょうか?

悪名の地に住まざるを得なかった先人達は、少しでも良いイメージになるよう、音をそのままに印象の良い漢字を当てたりしていました。そのような経緯を含めて、後世に地域の伝承や歴史を伝えることは大切です。

住民の流動化、新旧住民間の交流途絶などで、過去の災害体験の共有が難しくなっている現代。改めて、古い地名や防災郷土史の重要性を感じます。


新しいキレイな地名は、その土地が潜在的に抱える危険性を、
私たちに教えてくれますか?



オタク気質の長文を最後まで読んでいただきありがとうございます。 またお越しいただけたら幸いです。