見出し画像

下作延稲荷塚古墳 久地の桜散策(1)

満開の桜と消えたお稲荷さん

 「この古墳を見に行こう」と思ったきっかけは、少し長くなるので後々お話しします。まずは実際に散策した順序に沿って進んでいきます。

久地駅から緑ヶ丘霊園へ

 JR南武線・久地駅から出発。改札口から溝の口方面へ線路沿いを進むと踏切があり、緩やかな坂道が見えます。ここが緑ヶ丘霊園北口です。

画像1

 ここは桜の名所として有名。ただ、霊園なので、どうしてもお墓が目に入ってしまいます。(写真にお墓が入らないように配慮)

画像3

 長い坂道を進むと墓地が見えてきます。

画像3

 お手洗いのある場所を左折すると少し急な坂道。ここを登ります。

画像4

 土手に階段が見えてきました。

画像5

 土手沿いに歩いていくと…

画像7

 なにやら、こんもりとしたものが見えます。

下作延稲荷塚(しもさくのべいなりづか)古墳

画像8

 すっかり木に覆われていますが、こちらが古墳です。直径約27m、高さ2.9mの円墳で6世紀後半の築造と推定。円筒埴輪、馬形埴輪が出土。

画像9

 木と木の間を入っていくと…

画像10

 墳頂部分。あれっ?平らになっていますね。

画像18

 墳頂からの眺め。もともと斜面なので高く感じます。

画像19

 正面から見て左側は、草が茂っていてよく分からない。

画像8

 右側面からの眺め。きれいなお椀型です。

画像21

 右斜め後方から。下の台は後から造成したものですかね?

消えたお稲荷様
 あれ?リンク先写真と違うと思った方、はい、その通り。鳥居とお稲荷様が無くなってます。

 実は、昨秋一度ここを訪れています。その時は、古墳を探すのに霊園内をグルグル徘徊し3週目にやっと発見(霊園の外側で分かりにくい)。その甲斐あって、晩秋の景色と鳥居や祠で一体の寂寥感のある写真が撮れ、noteには鳥居が目印と書こうと思っていました。
 ところがっ!写真フォルダ整理をした際に、誤ってフォルダをまるまる削除(涙)。このリベンジは、桜の時期にしようと心に決めていました。

 で、来てみると何やらスッキリしています。何か落ち着かないような、拍子抜けしたような、お稲荷様がないと単なる地面の盛り上がり…
 見回してみると立札がありました。どうやら、個人所有だった稲荷塚の土地を霊園に移譲したようです。公園には宗教施設を設置できないので、お稲荷様は別の場所でお祀りするのでしょうか。

画像11

(前も立札あったらしいが、全く覚えていない)

 状況は理解しましたが、今までずっと存在していたものが無くなるのは何だか寂しい。たった1回しか来たことのない私がそう思うのだから、長い間見ていた地域の人は一体どんな感じなのだろう。犬の散歩やジョギングがてらお参りしていた人は、これから何に祈るのだろう。

 お稲荷様が無くなったら、今後この古墳は何と呼ぶのかな?下作延古墳になるのかなと思ったが、世田谷区の狐塚古墳だって公園になっても名前変わっていないから、このままだということに気が付いた。(当たり前~当たり前〜…)
 古墳としては元の形に戻るのだから良かったのか。でも、お稲荷様がいたお陰で、今まで残ることが出来た可能性は高い。この近辺の他の古墳は既に消失しているらしい。

 だいたい日本人は、少しでも高い所があると何かお祀りしたくなる性分。
 それと、何かにつけて神頼みし過ぎ!(近所の神社は素通りのくせに)お守りも集め過ぎ!(机の中に何個も入ったまま)御朱印も貰い過ぎ!(スタンプラリーじゃないからねっ)

 この場所は現状のまま保存されるようなので、とりあえず一安心。

園内の桜並木

画像16

 霊園内の尾根づたいに桜が植えられています。

画像14

 並木道になっていて美しい。本当はもっと重なりあって咲いていたけど、人が多くてあまりいい写真が撮れませんでした。

画像14

 メイン・エントランス側。こちらは公園になっていて、親子連れが花見をしていました。

画像15

 津田山駅側の出入り口。老大木は樹勢が衰え始めているようです。園内の所々で寿命に近い木が見られ、伐採跡もありました。

画像16

 新しい世代のため、桜の若木が次々と植えられています。

緑ヶ丘霊園周辺の地形

 緑ヶ丘霊園周辺の地形はかなり複雑。大昔は津田山も含んだ舌状台地だったのが、平瀬川に浸食されて分離したのだろうか?この辺りは下末吉台だが、東名高速以西は多摩丘陵となり、台地面の切り替わりポイント。 


東高根遺跡

 霊園の西側には東高根森林公園があり、古代の集落跡が発見されている。以前遊びにいった記憶があるけど、原っぱが広がっていたような…?

 竪穴住居址などの遺構は台地全域にわたって散在して、その数も100~150軒を越えるとみられる。弥生時代後期(3世紀)から古墳時代後期(8世紀)まで長期間継続したようで、最盛期は弥生時代後期らしい。
 遺跡では、居住部分〔台地上〕と稲などの生産の場である谷水田〔谷戸部〕とがセット。さらに斜面にはシラカシの照葉樹とクヌギ・コナラなどの落葉樹がモザイク状に繁茂していて、食糧となる植物などが採集できた。 
リンク先より要約)

 同じような谷戸地形があるこの地域には、集落跡や古墳がもっと存在していたのかもしれない。
 今回は別の目的地があるので、またの機会に訪れたいと思います。


(2)につづく。


オタク気質の長文を最後まで読んでいただきありがとうございます。 またお越しいただけたら幸いです。