「わたしという生き物のこと」

 私という生き物は、全く矛盾だらけだ。内向型で無口だけど、目立ちたがりで語りたがり。
 小学校3年生の頃、朝学活の時間に「1分間スピーチ」という時間があった。しかも、毎日朝学活の時間に、一日一人ずつ、出席番号順にスピーチをする。内容はお題があって、それに合わせたもの。しかも、原稿は読んではいけないので、話す内容は全部頭の中に入れなきゃいけない。なんたる地獄か。

 話す内容だけなら、自分の意見はいくらでも出てくる。しかし、それを授業中に教室の前に出て、スピーチをするとなったら、話は別だ。
 まず、私は声が小さい。教室でみんなが聴こえる大きさで話せなんて、当時は圧倒的にできなかった。後ろの方の席にいる二人組は、「聞こえない」って怪訝そうな顔でコソコソ話している。
 しかも原稿などないので、顔を上げなければならない。どこをみていいかわからない。同級生からの視線が辛い。次第に頭が真っ白になって、話す内容も吹き飛んでしまう。クスクスという笑い声と痛い視線だけが頭の中に入ってくる。

 だけど、しゃべっている内容を誰か一人にでもわかってもらえると、すごく嬉しい。だから本当は大声で叫びたい。伝えたい。本当は、きっと、私の話を聞いてもらいたい人なのだ。

 そんなこんなで、私は自然と文章を書くようになっていた。文章なら思い切り叫べる。聞いてもらえて、幸運にも見てもらえる人がいたりする。ここはすごく話しやすくて、天国みたいに落ち着く場所だ。


 繊細で傷つきやすいけど、怒りや悲しみをエンジンに変えられる。だから私はどんなことがあっても生きていける人。それはある意味、立ち直りが早くて、「強さ」でもあるんじゃないかな。
 気になったことについていろいろ一人で考えたりする時間は、実のところ、好きなのだ。
 モヤモヤして、絡まった心の糸を一つずつ丁寧にほぐしていく感じがして。自分自身に誠実でいられるような気がして。

 うじうじ考えているのを人に話すと、「なんでそんなことで悩んでるの?」とか「生きづらそうだね」「そんな悩まなくていいのに」なんて言われたりする。
 だけど、周りの人が思うほど、私はかわいそうじゃない。弱くもない。
 私はあえて、傷つくという選択肢を選んでいる。逃げないで、自分自身の感情を受け止める。それは、簡単にできることじゃない。だからこそ、向き合いたいのだ。
 気にしてないふりをして、強いふりをして、知らないうちに他人に不快感を撒き散らすよりも、これはずっと優しくて強いことなのだ。
 他の人には申し訳ないのだけど、私は自分が大好きだし、自分のことが誇らしい。試練に立ち向かうために、他の人とは違う選択をしているというだけ。そのために困ることがあったとしても、それが私の欠点であるとは言えない。

 一人で自分と会話する時間が必要だけど、一緒に会話してくれる人がいると嬉しい。
 休み時間は一人で絵を描いたり本を読んだりしながら、「何描いてるの?」「何読んでるの?」って聞いてくれる人を待ってるタイプだった。一人で過ごすことに対して、何も困らない。だけど私は臆病でもあったのだ。


 noteを新しく始めた。以前もnoteに文章を投稿していたのだが、1年ほど前に辞めてしまった。久しぶりにnoteを開いた。以前のアカウントに投稿する気持ちにはなれず、新しいアカウントを作ってみた。自分の中で、何かリセットしたかったのかもしれない。

 私はあるときを境に、文章の書き方が変わってしまった。自分の内面を何かしら表現する際の、「書き方のクセ」のようなものがある。それがガラリと変わってしまったのだ。
 その根本にあるものは同じ。だけど自分が何を大事にしているのか。それが変わってしまったのだと思う。
 前までは、机がメイン。書くために生きてた。でも今は、書くことは生きて経験したことを記録するもの。だからすごく言葉が感覚的なものになってしまって、丁寧に整理したり、しっかりした真面目な文章が書けなくなってしまった。でもまあ、今の自分は、今は好きだから大丈夫だ。


 依存しないで生きていきたいと思った。だけど人は、依存するものをいくつも持つ方が、健康的なのらしい。
 例えば、趣味をたくさん持つこと。私は多趣味である。私にとっての趣味の定義は、生産性とか、勉強にもつながらない、便利でもないのに、なぜか無性にやりたくなること。楽しくて、思わずやってしまうようなこと。
映画、音楽、読書、散歩、手帳、執筆。

 最近は、自分だけのためのプレイリストを作るのが好きだ。
 雨の日、憂鬱な夜、金曜の夜、疲れた日の帰り道、明るい気持ちになりたい朝。
 火花みたいにバチバチと弾けるロック。ふわふわと漂う柔らかい幻想的な音楽。
 聴くだけで小学生の頃の自分に戻れる、懐かしい海外ドラマやアニメの主題歌たち。
 そういえば、音楽だって、いろんなものを聴く。プレイリストの名前やテーマを考えるのも楽しい。


 自分の内面の以降期間中は、だいぶ文章が書けなくなってしまった。この文章だって、ちゃんと書けているかわからない。ただ頭に浮かんだことをダラダラとそのまま打ち込んでいるだけだ。でも自然と、頭がスッキリする。タイピングの音が落ち着く。

 人生は、物語で、今日一日、今という瞬間は、本の1ページのようなもの。今の自分を文章に書くことで、それをより深く実感できる。
 ある意味、現実逃避なのかもしれない。私は弱いもの。
 だけど文章の素晴らしいところは、どんな最低な出来事も、どんな退屈な一日も、文章にしてしまえば、全部文学になる、ということ。それが唯一の救い。
 名作を作るのは、一部の素晴らしい作家先生に任せてしまえばよろしい。
 私は自分を救うために文章を書いている。世界の隅っこに、私一人くらい、こんな自分勝手な執筆家がいたって、許されるかもしれない。
 だから私は、自分自身を、好きな小説の主人公にでもさせるようなつもりで、文章を書く。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?