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親孝行見習い8年生のあの頃【音声と文章】

山田ゆり
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1302
※note毎日連続投稿1357日コミット中。1302日目
※音声・文章、どちらでも楽しめます。



おはようございます。
山田ゆりです。



今回は
親孝行見習い8年生のあの頃
ということをお伝えいたします。


アルツハイマー型認知症の母を介護して8年の頃の日記から


2016/09/01

同居の母はとても明るくて、
泣いている姿を私は見たことはありませんでした。

いつもあっはっはと笑い飛ばしていて、
肝っ玉母さんって感じで
怖いもの知らずでした。

私が「おばけが出たらどうしよう。」と暗闇で怖がると
「そんなの、怖くねぇ。いぢばんこえぇのは人間だぁ。」と
いつも言っていました。


あの夜、母は暗闇を怖がりました。
一人で部屋で寝るのも怖がりました。
「は?これは絶対、おかしい。」と私は思いました。


その日、父が急逝しました。
畑に出かけた父が夜になっても帰ってこない。
皆で探したらトラクターなどを置いてある小屋で亡くなっていました。
朝はあんなに元気だったのに。


後で思い返すと、少し前から母は忘れっぽくなっていましたが
配偶者の死によって、母に心理的ダメージの強力なスイッチが入ってしまったようです。



その後母は、お金の管理ができなくなり、
また、お金を私が盗んだと言い出し、
いつも「金を返せ。金をくれ。」と叫び
近所の奥様方にも「娘にお金を盗られた。」と言いふらしていました。

また、通帳を何度も失くして、
私をすぐに疑ってきました。
やっと探し出しても、またすぐに失くして、
私を疑って、探し出してそしてまた失くしての繰り返しでした。



ある日、金融機関に母が一人で出かけて行き
「娘に通帳と印鑑を取り上げられた。」と訴えて、夜に支店長さんから電話が来ました。


父の三七日法要の時には
母は父が亡くなったことを理解していませんでした。
母の認知症は坂を転げ落ちるように急速に進んでいきました。


夜になると特に凶暴になり、
ガラス戸を力いっぱい閉めて
ガラスが割れたりしました。



夜中に母は「眠られない」と訴えてきました。

仕事と介護で疲れて寝ている私の枕元にやってきて
「私は眠れず困っているのに、おまえはよく眠れるものだ!」と、母はわめき散らしていました。


体はいたって丈夫なので、
毎日私からお金をもらって
スーパーから同じものを毎日買ってきて
それが12個になった時
私は母を激しく叱ってしまいました。


私はその頃、転職をしてまだ2年位で、
次から次へと仕事が舞い込んできていました。
上司の期待にも応えたいのでかなり無理をしていました。


残業が突然あり、昼休憩中も上司から仕事を頼まれ、
昼休みも十分に休めず、
仕事も介護も、いっぱいいっぱいでした。


会社を休みたい。
でも、会社を休んでも、家に帰れば母がいて、
当時、私は休める場所がありませんでした。


寝不足で、通勤途中、赤信号で車を止めた時
目を軽く閉じると、スッと意識が深く落ち
一瞬で深い眠りに入ってしまいました。

だから、赤信号で止まった時はなるべく
目を閉じないように気を付けていましたが
それでも、ちょっと瞬きしたつもりが、
目を閉じた瞬間、急にグッと深いところに落ちていく時があり
何度、後ろの車にクラクションを鳴らされた事か。

あの頃、よく、事故を起こさなかったと思います。



そして、半年したころ、
ストレスによる右耳が突発性難聴になり入院しました。


母も私も、くたくたでした。


その頃のかかりつけ医に、
「母が夜中に眠れないと言って暴れて困っています。」
と相談しましたら
「いいじゃないですか。ご本人が元気なら。」
としか言って下さらず
薬はいつも通りアリセプトしか処方してくださいませんでした。
そこは地元では有名な脳外科医院でしたが、母の症状は悪くなる一方でした。



母の暴言は本心からのものではなく、
病気がそう言わせているのだと理屈では分かってはいましたが
それでも、母の言動にはほとほと困って、
母に殺意さえ覚えた時が何度もありました。

母の首を絞める寸前までいきました。
その手を開いた私は、
「このままだと、私は母を殺してしまうかもしれない・・・。」

その思いにずっと悩みました。



介護者が認知症の人を殺めたという事件が起きると、
その記事を読みながら
殺人の罪を犯した介護者に同情していました。

本当に自分が不安でした。

会社では優しいおばさんでいられるのに
家では母を激しくののしる自分がいる。

そんな自分にいつも自己嫌悪に陥り、
自己肯定感を全く失くしてしまいました。



これではいけない。
何とかしないといけない。

いろいろ調べて、私は地域包括センターの方に相談しました。
そして、センターの方の提案で病院を変えてみる事にしました。


新しい病院に行く前に、
今までの母の状況をパソコンで入力し
とにかく詳細な状態を把握していただく事に私は専念しました。

当日、新しい病院の先生にその書類をお渡しし
更に自分の言葉で母の状況と介護する側の状況をお話しました。

不眠を訴える母に医師は
朝はアリセプトと胃薬とあと一種類、
夜は導眠剤と胃薬を処方してくださいました。


その薬を飲んだその夜から母はぐっすり眠ることができ、
まるで魔法にかかったような感じでした。

ぐっすり眠れた母は以前のような穏やかな性格に戻りました。
あんなに凶暴だったのが嘘のようでした。

母も私も、夜、眠ることができるようになったので、
私も少し気持ちが落ち着きました。


そして、介護で苦しむことはやめよう
笑って介護をしようと思いました。

それにはテキトウで行こう。
本業は手を抜くことができません。
だから、本業以外はテキトウを目指しました。


茶碗が流し台にほったらかしになっても
死ぬわけじゃない。
食べる時に使える分があったらそれでいい。


掃除だってやらなくても
死ぬわけじゃないからテキトウ。

どんどん、テキトウを広げて行ったら、
毎日がとても楽になっていきました。



理想はあるけれど、
今はそれを求めていたら自分が潰れてしまうから
私は、自分を守るため、家族を守るために、
テキトウな世界を作りました。


今は、超テキトウな感じで介護を続けています。




育児も介護も手がかかります。
育児は子どもの成長が楽しみです。
しかし介護は日に日に、できないことが増えていきます。
育児とは全く逆の世界です。



でも、親に対する慈しみの心は
育児と同じです。

3人の育児と母の介護をしてきた私はそう思います。



これから母はもっとボケボケになると思います。
でも、ボケてもいいから
長生きしてほしいです。



(おわり)




※補足
初めての介護に疲弊していた親子ですが
終わりの数年間は、結構笑える日がたくさんありました。

母は2018年4月13日(金)に
自宅のトイレで倒れ、蘇生措置を施しましたがかえってはきませんでした。
10年と10日間の介護は突然終わりを告げました。


当時の日記を本にしたのがこちらになります。

【わたしだけじゃないんだ③】
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今回は
親孝行見習い8年生のあの頃
ということをお伝えいたしました。

本日も、最後までお聴きくださり
ありがとうございました。 

ちょっとした勇気が世界を変えます。
今日も素敵な一日をお過ごし下さい。

山田ゆりでした。



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