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すれ違い

 キッチンから聞こえる『Bitter Sweet Samba』のメロディが、夢の世界から現実の朝へと戻した。楓はもう起きているようだ。ベッドの上で眠気眼を擦りながら、今朝の出来事を思い出す。楓に甘えてしまったことに恥ずかしさを抱いてしまうけれど、充実感が全身を巡っていた。ベッドから起き上がり服を探す。折り畳みの机の上に綺麗に畳んであるラジオ番組のオリジナルTシャツとスエットが置かれている。思わず頬が緩む。クローゼットから下着を取り出して、机の上の衣服に袖を通す。洗面所で最低限の身だしなみを整えてから、キッチンに向かう。壁掛けの時計の針は十六時を過ぎていた。
「おはよう」
 楓を見るなり声を掛けた。外出用の恰好をしている彼女は、キッチンで忙しない様子だ。
「おはよう。うなされてたけど、大丈夫?」
 不安そうな表情で尋ねるので、寝ている間に心配を掛けていたことに後ろめたさを感じる。
「大丈夫だよ。心配かけてゴメンね」
「大丈夫ならいいんだけど。朝からちょっと様子が変だったから、気になっちゃったよ。悩んでることがあったら言ってよね」
 楓が片手で割った卵がフライパンに落ちる。食欲をそそる音が耳に届き、眠気が冷め始める。適度に塩コショウをまぶすと、香ばしい香りが嗅覚を刺激した。フライパンを片手に持ちながら、目線はオーブンに向いている。器用だなと毎回感心してしまう。それに手際良く料理をこなす楓の一挙手一投足は、見ていて飽きない。普段、どこか抜けている印象を受けるけれど、キッチンでは人が違うかのような動きを見せる。同棲して初めて気付いた長所は、今のところ独り占めだ。
「うん、ありがとう。コーヒー、淹れるね」
 胸に秘めた感想を口にせずに、極めて平静を保って言った。二人しかいない秘密の空間なのに、一体何を演じているのだろうか。
「ありがとう。甘いやつが良いな」
「分かった」
 楓の横に立ち、コーヒーメーカーを起動させる。棚からコーヒー豆を二種類取り出して、ミルで削っていく。ガリガリ、と音を立てて粉末状になるコーヒーの香りが、ゆっくりと朝を実感させた。実際は夕方だから、互いの体内時計は確実に狂っている。
「今日もね、オープニングから若ちゃん節全開だよ」
 楓はスマホを操作して、オープニングトークから再生した。いやぁー参ったよ。そんな導入から会話を組み立てていくオードリー若林に適度に相槌を打つ相方の春日の小気味よいやりとりが耳に届く。
 顔を見なくても楓の声が弾んでいるので、笑顔であることは想像できた。客観的によくできたワンシーンだと思うけれども、オードリーのオールナイトニッポンが心地よい朝に深夜の風を送り込む。なんだか変な感じだ。
「一昨日、聞かなかったの?」
「うん。寝ちゃった。昨日もバタバタしてて聞けなかったから」
「ゴメン」
「ん? 謝ることなんてないでしょ。帰ってくるまで忙しかったし、帰って来てからは翼くんと一緒だったけど、聴くタイミングなかったし」
 楓は少し恥ずかしそうに言う。頬が僅かに赤くなっていて、まだ彼女は少女の心を持ち合わせているようだ。
「そうだね」
 今朝、もしも楓の描いた絵通りにならば、一緒にコレを聞いていたのだろか。それはそれでラジオで繋がったボク達らしいし、楽しかっただろうと想像してしまう。
「でもタイムフリーで聴けるから助かるよね。昔だったら、YouTubeとかで探さないといけなくて大変だったし」
「そうだね」
 お互い定期的に深夜勤務のあるシフト制という共通点があり、日常に溶け込んでいた。
「今日も仕事だよね?」
 コーヒー豆を入れたフィルターにお湯を注ぎながら訊く。
「うん。それに昨日も言ったけど、急きょ研修が入っちゃったんだよね。帰ってくるの9時過ぎちゃうかも。それになんだか嫌な予感がするんだよね」
 楓はため息をこぼしてから呟いた。そういえば「嫌な予感」という言葉によって今までも何度もデートの予定がつぶれていた。
「今日も代打?」
「かもしれないんだよね。一昨日の話なんだけど、高橋さん調子悪そうだったんだよね……」
「楓の予感当たるからな」
「そうなんだよね。翼君は休みだよね?」
「うん。明日の夕方から仕事」
「折角の休みだからって遊び過ぎないようにね。また国分さん誘って、日が変わわるまで飲み歩かないでね」
「国分は所帯持ちだから大丈夫だと思うよ」
「絶対だよ。私も代打に指名されないように逃げるから」と返事した楓は何度も頷いていた。のんびりとした幸福の断片に触れたような時間。気付けばブラックコーヒーとカフェオレが出来上がっていた。

『予感当たっちゃって今日宿直になっちゃいました。変な予感は口にするもんじゃないね。だから夕飯一緒に食べれないや、ゴメンね』というメッセージの後にクマのキャラクターが謝っているスタンプが届いている。その後、他愛もないやり取りを繰り返して、時間を共有し続けた。ボクが電車に乗っている時間と楓の休憩時間が重なった稀有な展開だ。
 看護師というのは激務であり、予想していないことが度々起きる。付き合い始めてから思い知ったけれど、今では慣れてしまっていた。一緒に時間を過ごせないことよりも、楓の身体や精神が限界を超えないかと心配になる。何度かその件について話したことはあった。でも楓はいつも笑って言うのだ。眩しい過ぎる笑顔で。
「大変だけど楽しいこともあるから大丈夫だよ。それに子供の頃からの夢だったからね、頑張れるんだ。それに、恥ずかしいんだけどね、心配してくれる翼君がいてくれる。頑張って仕事して疲れても、凄く嫌なことがあってもね、翼君は真剣な顔で話を聞いてくれるし、私には勿体ないくらいの優しい言葉貰えるから、大丈夫。一緒にいると不思議とね、すぐに元気になれるんだよ。だから私のことは心配しないでも平気だよ。弱った時はすぐに甘えるから、その時は優しく頭撫でてね」
 人生という道で大きな過ちを犯したボクには勿体ないくらいよく出来た彼女だと思う。何より好きになった女性にこんな言葉を言われるなんて夢にも思っていなかった。だからこそ、自分は幸せ者だと自覚的になることができた。しかし、幸せだと感じれば感じるほどに胸が苦しくなる。フラッシュバックする映像は、全身から暖色を奪う。
『今日は帰れないから、久し振りに夜遊びしてきてもいいよ。でも他の女性と遊びに行ったりしたら、すっごく怒るからね』
 返信を打っている最中に再びラインが届いた。こんなに良い彼女がいるのに浮気まがいなことをする奴なんているのだろうか。世の中にはいるのかもしれない。けれど少なくともボクは、そちら側の人間ではなかった。
 楓以外からのラインも会社からの電話やメールも届いていない。年齢を重ねていくことに疎遠になっていく友人たちがいることに、一抹の悲しさと寂しさをブレンドした複雑な気持ちを抱いてしまう。年末や夏休みに会える喜びが増すことを知ってしまったからこそ、顔を出せない現実は苦しい。
『ありがとう』
『優しい私に感謝してよね。明日は夕方まで休みだよね? 私が帰ってからは、ユウ君の淹れてくれたカフェオレとおやつ食べながら旅行の話しようね』

 時計の針が進むにつれて次第に乗車客が増え始めた。二十分が経過した頃には身動きが取れない程度に込み始めていく。社会の縮図のような狭い箱の中は、加齢臭とアルコール、そして化粧品や香水が漂っている。誰かが開けた僅かに開く窓から届く外気によって辛うじて吐き気に負けないで済んでいる。もしもジップロックのような完全密閉空間であれば、耐えきれずに胃の内容物を戻していることだろう。そんなどうでもいい想像を浮かべてしまい、気持ち悪くなった。楓と過ごす時間に酔える自分もいるけれど、作業着を身に纏い昼夜逆転日々を過ごすが、生活の一部として馴染んできている。不思議だなと思う反面で、安定なんて抽象的なもの求めてやりたくもないことに勤しんでいる日常が般化して、楓のために大義名分を掲げて身を投じている自分自身に情けなさを抱く。多分、昔描いた未来図との誤差のせいだ。それともあの音楽番組のせいだろうか。あの時の映像とメロディを求めている自分がいた。気付けばYouTubeの検索窓に『オーバードライブ 醒めない夢』というワードを打ち込んでいた。
 車内にアナウンスが響き、歓楽街が近くにある駅に電車が停まった。ダムの放流のように勢いよく飛び出す乗客はおらず、代わりに下車する人達は足に鉛でも埋め込まれているかと思うくらいに重たい足取りだ。
 帰宅ラッシュで賑わうホームを歩く。でも発車時に駆け込んだ元気は、もう無かった。まるでアルコールを摂取し過ぎて、自我を失いつつあるどうしょうものないような大人の姿を体現しているようだった。まだ飲んでいないのに、と自嘲してしまう。
 改札を抜けて、一目散に向かったのは喫煙所だった。喫煙所内でタバコを吸っている人間で溢れていた。その場所に辿り着けずに区画外でタバコを吸う人間も同じくらい溢れている。そういうマナー違反のせいで、愛煙家が窮地に陥っていることを自覚してほしい。
 名ばかりと言っても過言ではないパーティション四枚で囲われた喫煙所のヒップバーに腰かけ、ポケットからタバコを取り出す。クシャクシャになっている箱は、どこか哀愁のようなものが漂っている。慣れた手つきで、一本取り出して火を付ける。ホタル族と揶揄される儚げな光が口元で灯った。タバコの煙は体内に入り込んで、血管を収縮させていく。身体が重たくなり、毒々しい煙に身体が犯されていく感覚に浸る。吐き出した煙は、静かに星の見えない空へと立ち上り、そして夜空に溶け込んだ。
「さて、行こうかな」
 掠れた呟きは、タクシーの走行音にかき消された。吸っていたタバコを煙の上がる灰皿に入れて、喫煙所を後にした。待ち合わせの時刻には余裕がある。暇を潰せる場所なんて知らなかったからこそ、夢遊病者のようにあてもなく歩き始めた。
今を表現するのであれば逃避行動だろうか。それ以外に今の行動を形容する言葉など持ち合わせていなかった。どうやら本気で捨てることができない一念が、再熱しそうなんだと実感した。
 おもむろにスマホを取り出し、ツイッターを開く。久し振りに裏アカウントで感情を清算するかのように拙い詩を紡いでいた。
 いつの間にか住み着いた習慣。夢や可能性と自分を繋ぐか細い糸は、もう十年くらい切れていない。覚悟の無さを思い知る残骸だと思い込んでいた。でもフリック入力で紡ぐ文章にワクワクしている。そして会いたいと思った人の顔が浮かんだ。でも一人で行く勇気は持てなかった。空白の時間は距離を遠くするものだ。
「国分に連絡するかな」
 ラインを開き、国分に向けたメッセージを送った。

文責 朝比奈ケイスケ


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