闘う姿が眩しくて

午後7時過ぎ。僕の足取りは重い。
仕事終わりのスーツ姿ばかりが溢れた
迷路みたいに入り組んだ道を進む。
すれ違う疲れた顔、死んだ面した人々は
日本という国を支える人柱に見えた。
「何かを得るには何かを失わないといけない」
誰かが言っていた言葉を思い返したのは
彼らの姿が、訴えているようだったからだ。
ようやく改札を見つけて、外に出る。
吹き付けた風には秋の匂いが含まれており
今更ながら夏の終わりを感じてしまう。
平成最後の夏は、もう終わったのだ。
カレーに入れるチョコレートくらいの
僅かな感慨深さはあったけれど
それ以上に二十代最後の夏だったのに
村上春樹が描くような不思議なこともなければ
ご都合主義の恋愛作家が描く物語もなくて。
ただ、学校の朝礼のように代わり映えのない
映像ばかりを見ていた例年通りの夏だった。
大学時代の仲間からある依頼が来た以外は。
我ながら悲しく思ってしまうのは
夏という季節に現れるという魔法に
どこか期待していたからだろう。
乾いた涼しい風を受けながら
若者が集う街をぼんやりと歩いた。
別に目的地はなかった。
それは僕の人生によく似ていた。
ただひたすら抗うように歩く。
目的地を欲する自覚のない
感情が知らぬ間に足を動かす。
大声で話す若者や
いかがわしい看板の前に立つ
賑やかなおっさんたちが
この街を彩っている。
おおまかには変わっていない印象は
十代の頃、この街を彼女と一緒に
手を繋いで歩いた淡い記憶の扉を叩く。
彼女は元気にしているだろうか。
決して口にしない問いかけを呟いた。
多分、彼女は元気だろうし
結婚して明るい家庭を築いていても
全く不思議じゃないし
むしろそうであって欲しかった。
少し歩いた身体を休ませるように
あの頃、よく足を運んでいた
喫煙所として区画された
狭い空間に足を踏み込み
360円で買えた時代よりも
短くなったタバコに火をつけた。
独特の苦さが口に広がり
煙を含んだ瞬間、頭が痛くなる。
「ったく、何してんだ」
弱弱しい声は、近くにある
大通りを駆け抜ける車の音で
見事なまでに打ち消された。
夜らしいネオンが輝く街から
目線を外し、足元を見つめた。
ボロボロになった革靴は
今まで歩んだ時間を示している。
社会人になって働き始めて
生きるために歩みを止めなかった
自分を慰めるちっぽけな証明。
ため息を吐き出す代わりに
タバコの煙を夜空に吐き出した。
生きるために夢を捨てた。
言葉にすれば、もっともらしくて
カッコよく聞こえるかもしれない。
でも、僕にとっては敗北のセリフ。
敵役が発する断末魔、あるいは
捨て台詞に等しい口にしたくない類の
言葉を今日も飲み込んだのは
負けを認めたくなかった意地が為せる
最後の抵抗のようだった。
勝ち負けの判断なんて今は出来る訳ないし
むしろ何をもって負けなのかすら
正しく分かっていないけれども
僕にとって手放そうとする時点で
負けだったのかもしれない。
生きているけれども活きていない。
最近になって抱くようになった
この感覚に未だに慣れない。
過去の自分が今の僕を見たら
失望を含んだ目で蔑むように
僕を嗤うのだろうな。
結局、過去は拭えないままだった。
短くなったタバコを灰皿に捨て
再び、徘徊する老人のように
賑やかな街を歩き始めた。
大きな公園では古本市が開催されており
この場所で初めて目にするテントの列に
胸が躍ったのは、捨てられない本音が
心の奥底に確かに存在していたからだろうか。
あるテントの前に立ち止まり
陳列している古本を手に取った。
長い時間を経ても評価の高い
演劇の教科書みたいな作品だ。
神保町で見つけたら目を見張る金額で
後ずさりしてしまいそうな一冊だった。
切り盛りしている店主は退屈そうで
本の価値など興味のない雰囲気が
見て取れるほど漂っている。
本に関心がないのにここにいるのは
何故だろうかと気にはなったが
口にすることなく、購入に踏み切った。
「あんた、物好きだな」と
嫌味を言われたが、気にならなかった。
鬱屈とした日々の清涼剤のような役割を
手に持っている初版本は果たしていたのだろう。
掘り出し物を探すようにイベント会場を
隅から隅まで物色する今の時間は
少しの間だけ、大人からの姿から子供に戻した。
結局、収穫は最初に買った一冊だったけれど
それでも満足できた、不思議な感覚だった。
家に帰ろうと踵を返した時に
秋風に乗り、か細い弦を弾く音が聞こえた。
理由は分からなかったけれど
帰ってはいけないと訴えかけられた気がした。
夏休みに白球を追いかける少年のように
音が聞こえた方向に向かい進んだ。
古本市の裏、木々が覆う場所に
人影が見えた。同時に歌声も耳に届く。
こんな辺鄙な場所で歌う人は
何を思い、歌っているのだろうか。
さっき抱いた感情を上回る興味心が
僕の歩みを早くした。生き急ぐかのように。
そこにいた若者は僕にもっていないものを
これ見よがしに見せつけてきた。
決して明るくはない空間だったけれど
ライブハウスの舞台みたいな光が
眩しく光っているように僕の目には映った。
しばらくの間、彼らの姿を見つめた。
有名な人なのかもしれないけれど
そうした情報が乏しかったから
どこの誰かすら分からなかった。
ごく一般的な、と形容できそうな若者が
ただ、ギターの弦でメロディを奏でて
聴いたことのない歌詞を歌っている。
自分で考えた彼だけの曲なのだろう。
彼も夢を追いかけている気がした。
音楽に疎い僕でも分かるようなミスが
幾つかあって苦い表情を浮かべていたけれど
それでも楽しさや喜びといった感情を
隠しもせずに表に出している。
自分で書いた脚本が文化祭という舞台で
爆竹かと言わんばかりの拍手をもらった
いつかの僕の姿を不意に思い出した。
目の前にいる若者のバックボーンは
知らないけれど、この瞬間は活きていた。
生きているけれど活きていない僕とは
全く異なる。生きているし、活きている姿に
年甲斐もなく嫉妬した。
下北沢の劇場で観劇した時よりも
激しく抱く嫉妬の意味が伝えるものは
これまでの数年を否定するものだった。
彼らは闘っているのだ、自分自身と。
それが何よりも羨ましかった。
僕は大人になったと言い訳して
やりたいことから目を背けるようにして
闘うことを勝手に放棄したのだ。
才能とか環境を理由にして逃げ出した代償は
あまりに大きいと実感してしまった。
彼らの演奏を聴きながら、その場所を離れた。
スーツのポケットからスマホを取り出し
保留していた依頼を受けるメッセージを紡いだ。
闘っている姿に感化されていたのかもしれないな。
僕は久し振りに笑みを含んだ表情を浮かべていた。
強い意志を伝える声を背中に受けながら
駅へと向かう僕の足取りは軽くなっていた。

文責 朝比奈ケイスケ

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?