バッティングセンター

身体は嘘をつかない。
年齢に勝てないという事実が
打席の後ろにあるキャッチマットに
軟球がぶつかる音によって自覚的になる。
あの頃、当たり前に打っていた
速度のボールが当たらない。
気を取り直して、構える。
マシンから放たれる山なりの
ボールを見据え、コースを読む。
ここだ。バットを振り出す。
イメージでは真芯に当たり
勢いよく飛んでいくはずだった。
でも現実はあまりにも残酷だ。
弱々しい打球が転がっていく。
思わず、天を仰いでしまった。
25球、300円で買える
ストレス解消の場が地獄に見えた。
夕暮れ時、学校終わりの学生で
賑わう待合室には若さの活気があり
スピーカーから流れるヒットチャートが
空間を明るくしている。
自動販売機で缶コーヒーを購入し
空いていた椅子に腰掛けた。
ネクタイを緩めながら
ぼんやりと学生達を眺める。
少し前の自分の姿を見ているようで
羨ましさと現実に対しての失望が
ブレンドされた溜息がこぼれる。
くたびれたスーツはこの場所には
ひどく不相応な気がしてしまう。
缶コーヒーのプルトップを開け
ゆっくりと口へ運ぶ。
甘い。
その甘さが、今はなんだか痛い。
甘ったるくなった口の中を
誤魔化したくなって
ポケットからセブンスターとライターを
取り出し、ゆっくり立ち上がる。
フロアの一番奥、隔離されたスペースで
セブンスターに火を点ける。
立ち上る煙、身体が重くなっていく。
壁に腰掛けながら、煙を眺めていると
いつかに友人に言われた言葉を思い出した。
「営業サボっているサラリーマンみたい」
確か、就職活動でスーツを着て
大学に行ったときのことだったと思う。
不意に思い出したのは学生ばかりの空間と
冗談を体現している自分がいたから。
エントリーシートや履歴書といった
書類と向き合っていたのが遠い昔に感じた。
抱いた野心みたいなものは社会人になって
見事なまでに打ち壊された。
結果的に小さくまとまってしまい
今では事なかれ主義に染まって
成りたくなかった大人になっていた。
認めたくなかったけれど
状況証拠は嫌というほど頭をよぎる。
「推理小説ならシロだよな」
どうでもいいことを口走ったのは
それくらい追い込まれていたからだ。
悔しいほど、僕は何もできなかった。
セブンスターは短くなる。
吸う気になれなくて
そのまま灰皿に捨てた。
再び、さっきまで座っていた
椅子まで戻った。
目の前のゲージでバットを振る男を
見守る女が、時より黄色い声を上げる。
初々しいカップルが作り出す雰囲気に
目を背けたのは、多分嫉妬心だ。
20代そこそこのカップルに
嫉妬してしまうのだから
まだ老け込んではいけないと思った。
椅子に掛けたジャケットの
内ポケットから封筒を取り出す。
『退職願』
たった三文字が書かれた
ボロボロの封筒には
思った以上の破壊力が潜んでいる。
これを提出することで
僕と社会を繋ぐ腐った鎖は外れるだろうし
幾分、気持ちが晴れやかになるのは
明確だった。でも、できないでいる。
気付けば五年もの間
内ポケットの中で冬眠している。
ボロボロになった封筒は
これまでの理不尽や葛藤、
それに小さな成功と記憶を
全て知っている。染みている。
足りないのは、覚悟。
分かっている。でもできないのだ。
理由は分かっている。
先の見えない旅に出るのが怖いのだ。
現実逃避をするかのように
ゆっくり目を瞑る。
瞼の裏に映ったのは高校時代の記憶。
練習着を着て、踏み込んだグラウンド。
キャッチボールをする際に
初めて触った硬球の硬さは今でも鮮明で
付随する感情もまた鮮明だった。
それは今まで感じなかった恐怖を抱いた。
まるで石の塊だ。
これを三年間も使うのか。
これから先、やっていける自信はなかった。
痛いだろうな、怖いな、辞めたいな。
頭の中で踊る逃げの理由。
でも、気付けば硬球を掴んでいた。
逃げの理由をも凌ぐ好奇心。
好きなことに打ち込める純粋さに
負けたくないという一念が
自然と身体を動かしていた。
あの感覚を忘れている。
新しいスタートを切ることに
怯えている自分が動きを制御する。
本当にしたいことを押さえ込んで
誰かが決めたルールに乗っかる。
それでもいいと思ったときはある。
今はどうか?
考えているうちに公式戦で初めて
ホームランを打った日が脳裏に映る。
その瞬間、僕は目を開いた。
「老け込む年齢じゃねぇよな」
誰に聞かす訳でもない
自分に向けた喝を呟いた。
そして、目の前にあるゲージの
扉に手を掛けた。
自分を自分が信じないでどうする。
300円を入れると同時に光るランプ。
ゲージ内にあった中で
一番軽いバットを手に取った。
手入れが行き届いていない機械音と
ゆっくり動き出すアームを見つめながら
あの頃を思い出すかのように
バッティングフォームを作った。
ネットから放たれる一筋の線を
打ち返すように今できる
最大限のフルスイング。
何かが変わったような気がした。
迷いを振り切った打球は
今ままで一番の当たりだった。

文責 朝比奈ケイスケ

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