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寝ぐせ

 目が覚めると、隣で眠っていた君の姿は無かった。ベッドの横に置いた時計は午前7時半を少し過ぎていて、休日にしては早起きをしてしまった。もう少し寝ていたい。本音を飲み込んだのは、やっぱり可愛い寝顔が見れなかったからだろう。
 眠気眼をこすりながら、部屋着のまま寝室の扉を開く。嗅覚が芳しいコーヒーの香りを察知して、眠気が少し醒めていく。リビングのテレビからは、深夜に放送されていた番組の映像と笑い声が流れている。トーストを載せた皿をテーブルへと運んでいる君が視界に入る。髪をまとめた部屋着姿は、ここ一ヶ月で見ることが増えた。
 同棲を始めた頃は朝から晩まで働きづめだった彼女の姿は、職業柄か外行きの格好ばかりで隙が無かった。でも先月から日常が変わり始めたことで、彼女は職場に行く機会も減っていた。だからこそ、無防備な君を見れることが増えたのは嬉しいと思うけれど、なんだか特別感が薄れつつあって、ちょっと複雑だ。
「おはよう」
「おはよう」
 彼女の視線はすぐに僕の頭上に移って、笑い始めた。その理由は自覚していて、右手で髪の毛を触る。どうやら無防備なのは僕も同じみたいだ。
「ねぇ、寝癖ひどくない?」
 笑いながら言う君は可愛くて、眠気が完全に醒めた。そして朝から元気を貰った。惚れたら負けという諺があるけれど、あれは嘘だ。惚れたら勝ち、何気ないことで元気になるのだから。惚れて良かった。
「もう何ヶ月も髪切ってないから、しょうがないよ」
「外出自粛だもんね、仕方が無いか。ねぇ、コーヒー飲む? 久し振りに一緒に朝ご飯食べよ。その前に顔洗ってきたら?」
 そう言い残した君は、すぐにキッチンへと向かった。まるで新婚生活みたいなやり取り、同棲を強引に早めておいて正解だった。僕は彼女に言われた通り、洗面台で顔を洗い、歯を磨いてからリビングに戻った。
「パン焼くから、それまでコーヒー飲んで待っててね」
 差し出されたコーヒーカップを受け取る。僕は黙って頷き、カップに口を付ける。出来上がったばかりのブラックコーヒーは熱くて、丁度良い苦みが口の中に広がっていく。仕事前にコンビニで買う缶コーヒーとは雲底の差だ。
 数分すると、チン、とトースターの音が部屋に響いた。ぼんやりとバラエティ番組を見ていたけれど、確かにその音は聞き取れた。
「それじゃ、食べよっか」
 彼女が作った朝食は、トーストと焼いたベーコンとスクランブルエッグ。あと昨日のサラダの残りだ。十分すぎる内容に自然と腹の虫が鳴く。
「いただきます」
 彼女は、顔の前で両手を合わせる。僕も倣った。
「今日お休みだよね?」
 トーストを手に取った彼女が訊く。
「休みだよ。昨日、早く寝たから普段通りに起きちゃった」
「せっかく、私が起こしてあげようと思ったのに。残念」
「起こされたかったな」
「今度は起こしてあげるね」
「楽しみにしてる」
 新婚のテンプレートみたいな会話を交わしながら、朝の時間を過ごした。ちょっと前では考えられなかったやり取りは新鮮で、妙に胸が高鳴った。
「午前中、何しようか? 買い物行く?」
「買い物は行きたいな。冷蔵庫の中、心許ないし」
「それじゃ、車出すよ」
「お願い。ドライブデートだね、久し振りの」
 二十分もしないうちに、二人とも朝食を食べ終えた。トレイをキッチンに運び、洗い物を請け負う。料理をしなかった方が洗い物をする。二人で決めたルールの一つだ。僕自身、一人暮らしが長かったから家事に対しての抵抗はなかったし、洗い物も特段苦ではないから、収まりのよりルールだった。
 手際よく洗い物を終えると、君の姿はリビングには無かった。寝室に行ったのだろう。僕はソファに腰掛け、テレビをザッピングする。朝の時間帯ということもあって、どのチャンネルもニュース番組ばかりだ。内容は今の社会事情を伝えるものばかりで、気が滅入ってしまう。自粛することを求められたことで無防備な君を見ることは増えたけれど、当初予定していたデートの予定は全て無くなってしまったことを嫌でも思い出してしまうからだ。
「ねぇ、お風呂場に行って」
 その声に誘われて振り返ろうとすると、彼女は「振り返っちゃダメ」と言った。朝から何をするのだろうか。ちょっと下心が顔を出したが、僕は黙って彼女に従い、浴室へと向かった。
 浴室の扉を開くと、新聞紙が所狭しと敷かれていて、彼女の真意を推測する。確かに彼女の欲求はプロとして当たり前のことだった。
 浴槽の前に置かれた椅子に腰掛け、僕は君を待った。正面に現れた彼女は、職場に行くオシャレな格好で、腰には商売道具が詰まったシザーケースを身につけていた。しかもしっかりとメイクもしていて、彼女の手際の良さに思わず笑みがこぼれた。
「デートする前に長くなった髪、切っちゃおう」
 プロと素顔が混じった表情で言った。
 そして僕の座る椅子を避けて浴槽に立った彼女は、商売道具であり、彼女の誕生日に一緒に買いに行ったハサミで僕の髪を切り始めた。
「髪、切ってもらうの久し振りだね」
「そうだね。付き合ってからは避けるようにしてたからね」
 職業の不文律なのか分からないけれど、付き合い始めてからは担当が変わった。彼女から別の美容師を紹介されて、髪を切るようになっていたからだ。理由を何度か訊いたけれど、全てはぐらかされた。
「普段なら髪を切ってくれないのに、今日はどうしたの?」
「美容室に行けるなら私よりも上手い人に切ってもらった方が良いって思ってたし、貴方の髪を見て勉強してたんだけどね。さすがに髪が長くなって、鬱陶しそうにしたからさ。あと・・・・・・」
 テンポ良く動いていたハサミが止まる。
「あと、何?」
「最近、貴方の寝癖を見ることが増えて、これは私が切らなきゃって思ったの。毎朝、笑えるのは楽しいけど、気分は良くないでしょ?」 
 再び動き出したハサミは、正確にかつ彼女の見ているビジョンに向かって髪を切っていく。
「ありがとう」
 笑った顔見れるなら構わないよ。彼女の優しさに対して本音を言うのは気が引けて、素直な感想を口にした。
「久し振りだよね。こうやって髪切るの。いつ以来だっけ?」
「一年前くらいじゃないかな? お客さんの髪が切れるようになってからだと思うよ」
「そっか。もうそんなに経つんだ? 早いね、一年って」
 彼女は驚いたような声を出す。美容室の通例は知らないけれど、初めてお客の髪を切った日に彼女がすごく喜んでいたことを思い出した。すると幾つかの記憶がフラッシュバックして、表情が緩んだ。
「どうしたの?」
 その声で彼女の怪訝な表情が容易に想像できた。
「ごめん。君にナンパされたこと思い出しちゃった」
 あの時の彼女は今みたいに自信に溢れてはいなかったし、むしろ怯えていたような姿が印象的で覚えている。今の君も好きだけれど、あの頃の自信が無さそうにしていた君も同じくらい好きだった。今では初めて作る料理の時か、機械の配線とかくらいでしか見れないのが残念だけれど。
「ナンパじゃないよ。カットモデルのお願いでしょ? それにお願いをナンパっていうなら、髪を切った翌日にお店に来店してくる貴方も同じようなものだよ? 貴方が店に来たとき、クレームだと思って本当に怖かったんだから。でもまさかさ・・・・・・」
 彼女は含みを持たせて、言葉を髪と一緒に切った。
 あの時の僕はどうしょうもなく青くて、一目惚れを抑え続けることができなかった。若さ故の勢いが上手くいった希有な出来事だった。
「その奇天烈な行動のおかげで、同棲してるし後悔はしてないよ。むしろあの時の自分の行動力は誇れる。君は恥ずかしかったかもしれないけど」
「絶対忘れないよ? 本当に恥ずかしかったんだから。でもね、嬉しかったんだよ。同棲できてることも嬉しいし、言ってくれてありがとうね」
 彼女は笑う。僕もつられて笑った。二人の笑い声が狭い浴室に響く朝は、忘れられない時間になった。

文責 朝比奈ケイスケ

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