過度に過敏パーソンとASD 自分を見つめる
「自分がHSPだといってる人は大体ASDだと思う」
というようなポストをずっと前に目にした。
そもそもHSPとは過度に過敏パーソンという意味であり病気や障害ではなく個人の気質のことで、明確な障害であるASDと同じ土俵に乗せていいのかどうかは疑問に思うところだ。
最近はHSPについての知名度も上がったし、「HSPって生きづらいよね」という仲間意識が生まれているような気もしていて、天邪鬼なわたしはその言葉をあまり使わなくなってしまった。
病気や何かと同列視してはいけない、と思って。
だから上記のポストは非常に気になった。
しかしながらわたしもまた過度に過敏パーソンなのである。
ネットに溢れるHSP診断でおまえ確実にHSPだよ!といわれまくっている。
けれど「細かいところによく気がつき、共感性が高く、つまり総合的に繊細な人」といわれることにかなりの違和感を感じていた。
HSPだって十人十色、まったく同じ特性の人はいないだろう。わたしはある点において共感性は高いが細かいことに気づくタイプではない。少なくとも繊細さんとは呼ばれたくない。
ではなぜ、彼の人はHSPとASDを同じもののように呟いたのか?
まずHSPである自分自身について思いつく限りを振り返ってみた。
羅列してみて思った。
確かにHSPの気質はある。不安障害と鬱から来ている症状もある。
だが、「ASDの特性と一部似てないか???」
……と。
試みに心療内科や医薬品会社など信頼できそうなHPのセルフチェックを行ってみると、確かにASDの可能性ありと出た。
設問が「子供のころ」と「現在」について尋ねてくるので、子供のころのことがなかなか思い出せず正確かどうかは不明だ。けれどいつ何度やっても、ASDの可能性は捨てきれないと出る。
わたしには感覚過敏があり、見知らぬ人の訃報などにはひどく傷つくのに、身近な人々のことにはとても鈍感で無頓着である。他人の会話を聞いて「その言葉は人を不愉快にさせるぞ」などと思うことがあっても、近しい人がなぜ怒っているのか、何を望んでいるのか分からなかったりする。
ひどく過敏なのにひどく鈍感なのだ。そして自他境界が曖昧だ。
ほとんど初対面の人に不要なことまで話してしまったり、逆に親しい人でも声をかけられなかったり、冗談を真に受けて真面目に返してしまったり、やっていいと言われたことを本当にやっていいのか分からなかったりする。
テンションが上がると自分本位になって人を不快にさせていることがある。
飲み会で誰かのグラスが空になっていても気づかない。たとえ気づいても注ごうとか、次を頼むか尋ねるという意識がない。
喪中はがきが来ていたのを忘れて、ラインで「あけましておめでとう!」とキラキラしたスタンプを送ってしまったときはあとで気づいて青ざめた。
それどころか中学生くらいのころ、祖母が亡くなったのを忘れて「年賀状は何枚買う?」なんて話題を家族に切り出してしまったことさえある。夕食の場が凍った。
大人になって、友人の死には身体が崩れそうなほど泣いた。
でも中学時代に祖母の死では泣けなかった。けれど同じ年のころ、人から飼い犬の死の様子を聞いたときにはとても泣いた。
災害や事故、事件のニュースは恐ろしくて悲しくて頭にこびりついたように離れない。怖くてたまらないから情報を遮断するほどだ。
それなのに身内の死では一滴の涙も出なかったうえ、それを忘れたのだ!
過度に過敏パーソンから「気遣い」や「細やかさ」などを取り払い、「無頓着」や「人付き合いの難しさ」などを足していくとわたしのような人間になるだろうか。
そういう人がすべてイコールASDだと言いたいわけではない。
ただわたしにはASDの特性と近い部分があるらしいということだ。
納得する面があった。
対人関係ではわりと苦労してきたと思う。
とにかく人間が苦手なのだ。大勢いるともっと無理だ。自分の振舞い方が分からないし、他人は何を考えているか分からず恐ろしい。学校にも行けなくなり会社も親戚の集まりさえ苦痛だった。
いや、過去形ではないのだけれど。
人に馴染めない、身内の死を悼めない、怖いものが多すぎる。
わたしはどこかおかしいんじゃないか。
昔から何か違和感はあった。
もしもASDのグレーゾーンにいるとすると、その違和感のいくらかは払拭される気がした。
もちろん、正式に診察を受けたわけでもなんでもないから、これはただの自己満足だ。自分の精神構造や言動のおかしさに答えを見つけたような気になっているだけだ。
それは水面に浮かぶ藁のようなものだが、不安障害や抑鬱とバトルしている現在、これ以上のものはちょっとしんどいので診察を受けに行くことはないと思う。少なくとも今すぐには。
あのポストはあまりに極論だからそうだそうだと賛成はできない。
でも自分を振り返ってみて、HSP=ASDではないけれど、ASD(グレーゾーン含め)特性をまとめてHSPだと勘違いしている人がいる可能性はあるんじゃないか、となんとなく感じた。
感覚過敏とか。人との距離感の測り方とか。
ASDの人がHSP気質だということも当然あり得るのだし……。
いや、これは本当にわたしがただ漠然と感じただけの話であってなんの確証もない。ので、悪しからずご了承願いたい。
ASDかもしれない。
そうじゃないかもしれない。
ただ自分が過度に過敏パーソンなうえ無能なだけかもしれない。
何もかもがぐるぐる回るマーブル模様。
でも、もし本当にASDであったなら、という考えで行動するのは悪くないような気がした。
当事者の経験をもとにした書籍なども出ているだろうし、医学的に根拠のある対処の仕方もあるだろう。それがもし自分に合うものだったら生活に取り入れていけばいいのだ。
正直なところHSP向けの本は全然合わなくて取り入れるも何もなかった。それはそうだ、わたしは細やかな気遣いなんてできないから。「些細な変化によく気がつくあなたは…」なんてアドバイスが合うはずもない。
気をつけておきたいのはひとつ。
「ASDかもしれないんだから仕方ない」という思考に陥らないこと。
診断を受けてもいないのに開き直ってはいけない。仕方ないと放り出してはいけない。分からないことは調べ、できないことは対処を探し、わたしは自分のために生きていかなくてはいけない。
過度に過敏パーソンの側面を受け入れつつ、不安障害と抑鬱を抱え、白黒ついていないASDのグレーゾーンを歩く。
不安はあるが、よく考えればこれまでも歩いてきたのだ。
これからも歩いていくしかない。
迷走したって立ち止まったって、いつか次の一歩が踏み出せればそれでいいと思う。
よりよい方向を手探りしながら。
完全に自己との対話をするような記事になった。
ここまで読んでくれたあなたがHSPの人なのか、ASDの人なのか、それともまた違う特性や障害を持った人なのか分からないけれど、皆さんによりよい道がありますように。
読んでくれてありがとう。