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『スーツ=軍服!?』(改訂版)第81回

『スーツ=軍服!?』(改訂版)連載81回 辻元よしふみ、辻元玲子

※本連載は、2008年刊行の書籍の改訂版です。無料公開中につき、出典や参考文献、索引などのサービスは一切、致しませんのでご了承ください。

靴下の歴史と「素足履き」

日本人にとって靴下は、あくまで靴の下に付ける靴擦れ防止の付属品、というイメージだが、一日中、靴を履いている西欧人にとっては、めったに人前で裸足になることもなく、靴下の位置づけもかなり違うようだ。靴下そのものは有史以前から遺物が存在し、特に寒冷地では古くから必需品。温暖な地にあったローマ帝国でも、軍団兵士は軍用サンダルの下に必ず靴下を履いていた。
その後、中世の欧州では徐々に靴下の丈が長くなる一方、ズボンが廃れてしまう。かくて十四世紀頃まで、中世人は尻まで覆うタイツを愛用した。これをホーズ(フランスではショース)と呼んだ。下半身はこの長いホーズがメインで、色とりどりのものが好まれた。当時、女性はロングスカートで、脚線美は専ら男性がさらすものだったのである。
十五世紀から半ズボンが復活するのだが、ホーズは重要な男性アイテムであり続けた。十九世紀に入り、男性ファッションの主流が長ズボンになってから、ホーズも丈は短くなり、主役から脇役に退く。しかしこのような長い伝統があるので、欧州では靴下は今でも重要なオシャレアイテムで、特に紳士がきちんとした服装をするとき、少なくとも膝下まである長い靴下を必ず着用し、決して毛ずねを人前でさらしてはならない、とされる。この長い靴下は今でもホーズと呼ばれる。イタリアの洒落者は常に紺色のホーズを履くといい、一方、英国ではわざと派手な色のホーズで変化を付けるのがうまい。派手色の靴下は、二十世紀の初めのころ、ゴルフ用のストッキングから流行して、英国紳士の間で広まったようで、これが今でも英国流の差し色テクニックとして残っているようである。
イタリアを中心に、夏場には靴下を省略する靴の「素足履き」も近年、流行してきた。日本でも芸能人が有名にしたが、これもそもそも「本来は絶対に靴下着用」という原則があるからこそ、あえての外し技として認知されたもの。いつでもどこでも通用することではない。

ミニスカートは英国車「ミニ」から命名
 
ここで番外編となるが、男性が短パンというなら、女性の方はミニスカートである。しかし、丈の短いスカートが普及したのは、本当にごく最近のことなのだ。今や一年中、ミニスカートの女性は見られ、暑い時期に限ったファッションとはもういえないだろう。しかし、これだけ当たり前になったのは本当に近年のことである。
古代のギリシャ、ローマでは、むしろ女性より男性が短いスカート状の服を着ていた。特に軍人や労働者のそれは短く、元祖ミニスカートと呼んで過言ではない。一方、女性は総じてロングスカートを着用し、十九世紀まで何千年も続いた。女性が脚を見せるのは長く道徳的に許されなかった。
これが一挙に変わるのが第一次世界大戦。人手不足で女性が労働に、さらに軍にまで入隊するようになると、ロングスカートは廃れてひざ丈がごく普通に。出征した兵士達は、帰国して妻や恋人が短いスカートを穿いているのを見て、わずか数年の間の変化に仰天した。
しかし、ここからひざ上のミニになるにはさらに時間が必要だった。一九五八年、ロンドンのデザイナー、マリー・クアントが大胆なひざ上十センチのスカートを発売。彼女の愛車だった英国の名車「ミニ」にあやかり、「ミニスカート」と命名した。「ミニの女王」ことモデルのツイッギーが人気者となって六〇年代に爆発的ヒットとなった。六七年にツイッギーが来日すると日本にもミニブームが到来。人気者の美空ひばりや野際陽子が着始めると一挙に一大ブームに。六九年、訪米時に佐藤栄作首相に同行した寛子夫人もミニを穿いて大きな話題になった。九〇年代には女子高生がミニ丈の制服を着始め、一過性のブームから、日常的なアイテムとなった感がある。これほどミニが普通になったのはここ数十年のことなである。

半袖はそれ自体がカジュアル 

日本の夏ではごく当たり前となっている半袖のシャツ。ところが長い歴史の中では決してこれは「当たり前」の服装ではなかった。ヨーロッパ的な服飾文化では、半袖はそれ自体がカジュアル、という認識なのである。
温暖な気候の地にあった古代ローマでは、男女を問わず半袖やノースリーブの衣服を着ていた。しかし北方のゲルマン人が欧州に入ってくると、彼らの長袖文化が主流となり、半袖は見受けられなくなる。中世では大きくて装飾の多い派手な袖を付けた衣服ほど、高貴かつ裕福な人間の象徴と見なされた。儀礼の際にわざわざ飾り袖を縫いつけたり、ボタンで飾り立てたり──。十四~十六世紀には日本の振り袖のような巨大なハンギング・スリーブ(垂れ袖)が大流行したほどだ。そんな中、突如、半袖文化が復活したのは十八世紀末、フランス革命期で、古代ギリシャ、ローマに回帰する流行から半袖の服も女性を中心に広まる。以後、女性のドレスには半袖が復帰していくが、男性の方はなかなか受け入れられなかった。ようやく受容したのは二十世紀、アジア方面の植民地用として、だった。
とはいえ、西欧の文化的には今もって半袖はカジュアル、もしくは熱帯地用の特殊なもの、という感覚が残り、欧州の比較的涼しい国では今日でも、正式な場やビジネスでは半袖は用いない、というのが普通だ。西欧の文化を学んだ日本でも、暑い夏でも長袖で我慢する文化が主流だった。これが崩れたのは戦時中の南方で着用された軍服である。
しかし、本格的に流行するのは一九六〇年代、VANの石津謙介が半袖シャツを「ホンコンシャツ」と命名して売り出し大ヒットしてからだ。さらに米軍の夏季用シャツを模範としたパイロットシャツも八〇年代に流行した。このように何回かの段階を経て、徐々に半袖シャツが浸透。近年のクールビズの動きで、日本では夏場の半袖スタイルは珍しいものではなくなった。しかしそれもここ半世紀ほどの変化といえる。
西欧文化で特に男子が長袖を愛した理由には、文化的に長袖=高貴、というのがゲルマン人以後の常識となったことに加え、実際に長袖の人間の方が半袖の人間より支配力や発言力が増す、ということがあった。これは心理学的にも確認されていることで、長袖で上着も着ている人は、半袖の軽装の人より、相手に与える心理的支配力が強い、といわれる。そこを逆手にとり、二十世紀半ばから登場したマクドナルドなどのファストフードの店員のユニフォームは、早くから半袖を導入していた。お客に対し威圧感がなく、自分をへりくだらせた衣服をわざと採用したのである。
 
落語家が流行させたステテコ

ここ数年、夏のファッションとして復権しているステテコ。ズボン下としては汗を吸収して股ずれ防止になり、また室内着として派手な色柄のものも登場、売れ行きも好調という。
このステテコというものも日本独自の肌着だ。戦国時代に日本に渡航してきたポルトガル人が着用していたタイツ状のズボンを参考に、日本にも股引が流行、足軽が軍装に用いるようになり、さらに江戸時代には広く労働着として普及した。そして明治時代、約三世紀を経て洋服文化が日本に再び入って来る。十九世紀の紳士の洋服では、ユニオンスーツという上下ツナギの肌着を着用したが、これは後に上下に分離して、Tシャツとトランクスの原形となる。しかし日本人は窮屈なこの肌着を好まず、十六世紀に伝来した股引を基本とした緩いズボン下を用いるようになった。
日本の陸海軍でも「袴下(こした)」の名で支給し、フンドシとズボンの間に穿くべきものとした。こうして終戦まで、この習慣が続き、戦後、フンドシが廃れた後も使用され、一九六〇年代まで日本の男性は、ステテコ着用が普通だった。その後、タイトな着こなしが主流となる中で、ズボン下もあまり穿かれなくなったが、クールビズの流れの中で思いがけなく復権してきたわけだ。
ところでステテコの名は、大きな鼻で有名だった落語家・初代三遊亭圓遊(一八五〇~一九〇七)=写真の人=が、鼻をもいで捨てるような仕草の「ステテコ踊り」を流行させた際、その着物の裾からのぞく肌着もステテコの名で流行した、というのが定説となっている。
 一方、西洋でも同様の形式の下着があり、十九世紀末に活躍したヘビー級ボクサーがああいう形のトランクスを穿いていたことから、その名にちなんで「ロングジョン」と呼ぶ。

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