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『スーツ=軍服⁉』(改訂版)第104回

『スーツ=軍服⁉』(改訂版)連載104回 辻元よしふみ、辻元玲子
 
※本連載は、2008年刊行の書籍の改訂版です。無料公開中につき、出典や参考文献、索引などのサービスは一切、致しませんのでご了承ください。

王様のハゲ隠しから二百年も流行したカツラ

帽子を取り上げるついでに、その下にある男性の髪型についてもふれておくと、ギリシャ人やローマ人は短髪を好んだ。特にローマ人は短髪主義で、ギリシャ人は髭を好んだが、ローマ人は通常、髭も伸ばさなかった。
しかしそれ以後、ゲルマン人の文化を受け入れてからの中世ヨーロッパの男性は、おおむね長髪に髭面の時代である。
ところがルネサンス期になると、また髪は短くなった。一説ではフランス王フランソワ一世が捕虜になった際に、長い髪を切ったのが流行の原点だったという。フランソワと仲の良かったイギリスのヘンリー八世も短髪にした。そして十六世紀、ヘンリーの娘である女王エリザベス一世の時代には、首に襟飾り(ラフ)を着ける関係で、いっそう短髪が好まれた。
ラフが廃れてシャポーが流行った十七世紀になると、またも長髪が復活する。この時期、フランス王ルイ十三世は頭の毛が薄いことを悩み、カツラを用い始めた。これが一般にも流行し、さらにルイ十四世は背の低さ(160センチほどだったという)をカバーするために、頭頂部を盛り上げたカツラを使用した。こうして、十七世紀から十八世紀にかけて、約二百年間にわたり、紳士は人前ではカツラを被るのが正式となった。またベルサイユの宮廷では、武骨な髭面は野暮ということで廃れ、欧州中にその習慣が広まった。同時代にロシアのピョートル大帝は、自分の宮廷の貴族の中世的な長い髭を禁止した。
十八世紀、ルイ十四世が亡くなった後は、くるくるカールさせ、白い髪粉(かみこ)で染めて銀髪のようにし、後ろ裾を長く伸ばして三つ編みにする髪型が流行した。地毛で出来る人は地毛で、それができない年配者などは付け毛やカツラを着用した。同時代の女性たちも巨大な髪を結いあげ、付け毛を加え、装飾過剰なスタイルで宮殿を闊歩した。フランスでは、男女を問わず白い髪がもてはやされ、あまりに多くの髪粉を用いたために、食糧不足につながった。というのも、髪粉は小麦粉を細かくして作ったものだったからだ。これがフランス革命の原因の一つになった、ともいわれている。
こうした髪型やカツラの使用は、十八世紀末のフランス革命の時代に廃れ、男性は急速に短髪を好むようになった。フランス革命と言えばギロチンによる断頭処刑が盛んに行われた時代で、フランスでは、後ろ髪を伸ばしていると、ギロチンにかけにくい、というのが、髪型の変化の理由だったともいう。十九世紀になってこういう短髪は、古代ローマ人風ということでブルータス・カットとかタイタス・カットなどと呼ばれた。あのカエサルを暗殺したブルトゥスや、ローマ皇帝ティトゥスの名にあやかったのである。


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