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『スーツ=軍服⁉』(改訂版)第106回

『スーツ=軍服⁉』(改訂版)連載106回 辻元よしふみ、辻元玲子
 
※本連載は、2008年刊行の書籍の改訂版です。無料公開中につき、出典や参考文献、索引などのサービスは一切、致しませんのでご了承ください。

軍帽から生まれたさまざまな様式

三角帽は身分階級にはあまりかかわりなく、また軍人でなく民間人もかぶったが、二角帽は主に将校用だった。ナポレオンが一八〇三年以後、新式の軍帽として筒型のシャコー帽を採用すると、その傾向はますます強まり、二角帽は上級の将官や高級将校、および一般の将兵においては礼装や外出用のもの、ということになった。
ここで一般軍人用に採用されたシャコーは、非常に背の高い帽子で、オスマン帝国軍の帽子の様式を強く受け継いでいるものであり、これにあごヒモをつけて着用するようになった。シャコーの形から後に生まれたのが、背が低い筒形帽のケピで、フランス軍やフランスの警察などは現代も使用している。また日本の帝都高速度交通営団(今の東京メトロ)も一時、ケピ型の筒形帽を採用していた。ホテルのドアマンや一部の警備員などが使用している姿は今日でも見られる。
また、この時代には軍帽として、熊毛で作ったカルパック(熊毛帽)が広まった。カルパックはウズベキスタンで今でも生産されている毛皮の民族帽(現地では現在、チョギルマと呼ばれる)が原形であるらしく、幕末の日本で官軍が採用した熊毛帽はカルパックの日本的アレンジである。この種の熊毛帽は、オスマン帝国を経て東欧に広まり、ナポレオン軍では精鋭部隊が被る装備とされ、特に親衛擲弾兵や軽騎兵のものが有名だった。擲弾兵(てきだんへい)というのは、手榴弾を投擲する兵士である。敵陣に接近して爆弾を投げつけるのは非常に勇気がいる行為で、エリート中のエリート兵士が選抜された。また、その動作のために、ツバがない帽子が必要とされたので、十八世紀のプロイセン軍から、マイタ―(法王冠)帽と称される、ローマ法王が被るような形式のとんがり帽子を被ることが流行した。しかしナポレオン軍で熊毛帽が一般化すると、法王冠帽は瞬く間に時代遅れになってしまった。
一八一五年のワーテルローの戦いで、ナポレオンの親衛擲弾兵を撃破したことを記念して、英国の近衛擲弾兵も同じようなフランス式熊毛帽を被るようになり、一八三一年以後は、擲弾兵以外のすべての英国近衛兵が被るようになった。
ポーランド騎兵の制帽から流行したチャプカ帽は、四角い頂部に向かって極端に反りがついた背の高い帽子だ。これは後にもっとサイズが小さくなり、ちょうど日本の早稲田大学の角帽のような四角い形の制帽ロガティヴカとなって今日に至る。ポーランド軍の兵士は、現代でもこの独特のロガティヴカ帽を誇り高く被り続けている。このタイプの帽子は、そもそも東欧地域の聖職者や学生の帽子をモデルにしたものである。
また、ナポレオン戦争の時代にもう一つ、注目されるのがプロイセン軍の下士官兵が使用したつばのない円形略帽であるミュッツェだ。これはナポレオンの支配に抵抗する反仏義勇軍に参加したドイツ学生団ブルシェンシャフトの学帽が由来だとも言われるが、中世の学僧が用いた帽子が原型で、後々までドイツ軍の略帽として使用され、第二次大戦直前の時期までドイツ陸軍で使われたほか、海軍の水兵がセーラー服に合わせる帽子の様式としても残っていく。この円形の帽子は、英国海軍、日本海軍など世界の主要海軍で水兵帽として使用され今日に至っている。ただし、アメリカ海軍だけはこの種の帽子を「ドナルド・ダックみたいだ」といって嫌い、本来は作業帽だったものを日常的に被っている。

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