懐胎
とぷり。と、沈む音が聴こえた。
水に鼓膜を撫でられる。耳がくぐもっている。瞼が重たい。その奥に光が見える。促されるように目を開くと、 水面に煌めくそれは視界を貫いて、頬に落ちてくる。僕は眩しさに目をきゅっと細めた。
水の中を深々と沈んでいた。息を吐けばそれは気泡となって、光源へゆらゆら昇っていく。
代わりに僕は落ちていく。光源はだんだん遠くなる。きらきらとした美しさに焦がれて手を伸ばしているうちに、足の裏に泥の感触がした。
水底だ。
泥に沈んだ足を持ち上げてみると、透き通った水の中に、泥がふわりと手を伸ばした。
その指す方を目で追えば、薄暗い海のずっと向こうから、鰯が群れを成して此方に向かってくる。僕の周りをすごい勢いで駆け巡り、あっという間に視界に壁を作る。激しい水流に押されて、水底に腰をついた。泥がひやりと指を絡め取る。鰯の銀の鱗が眼前でぎらぎら光る。
轟きが聴こえた。静かな海に響き渡る、神聖な響きを孕んだ覇者の声。水底に差し込んでいた光がふっと消えて、見上げると、大きな影。
鯨だ。鯨が僕らの頭上にいる。
それは海の支配者の如く、ゆっくりとその胸びれを動かす。ぐんと勢いをつけると、鰯の壁は散り散りに散っていく。鯨はあんぐりと口を開き、鰯を追う。一等早い一匹が、その大きな口に呑み込まれた。僕は呆然とそれを見つめている。
深い皺の刻まれた鯨の眼が、じろりと僕を一瞥した。僕は恐ろしくて怯んだけれど、 鯨は静かに瞬きをしたかと思えば、尾びれを翻して、すうっと僕の横に寄り添うように弧を描いた。
鼻先をぴたりとくっつけるように、僕の顔の前でその大きな身体の動きを止める。
僅かに口許が開いたと思ったら、長い口髭が僕の頬を擽る。こそばゆさが心地よくて、僕はけたけたと声を上げた。
それを認めた鯨の眼は優しく細められ、すっと鼻先を離した。波が生まれる。またその大きな体躯で僕の周りをまあるく、雄大に泳ぐ。
水底に光が戻ってくる。穏やかな波が僕の全身を包む。身体は波に浮かんでゆく。
ゆらゆらと揺らぐ海の真ん中。水面から差し込む陽光を一身に受けながら、僕は生温い水中できゅっと身体を丸めた。
揺蕩う海の中は心地よくて、またうつらうつらと、瞼が重くなっていく。
微睡みに任せて瞼を閉じる直前。僕は小さな小さな指に生える、未完成な爪を見た。
遠くで鯨の鳴き声が聴こえている。
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