中高男子校出身だけど、控えめに言って人生の六割くらい損した気がする。

 共学出身者が憎い。これが本記事で語る偽らざる本音だ。作者の気持ちを答えなさい問題があったら、「男子校出身の書き手は共学の人間に対し過度な敵愾心を抱いている」(30文字)とでも書いておけば満点だろう。

 僕は中高男子校出身だ。今では腐りに腐ってしまったが、嘗てはその地で最強と呼ばれる進学校に属していた(巧妙な叙述トリック)。在学中も度々気に掛けていたが、卒業してからはより一層気に病んでいることがある。今でもふとした拍子に猛烈な後悔を掻き立てられることがある。つまりは、

 貴重な思春期を異性と過ごせなかったことについて、だ。

 ……もちろん男子校で良かったこともある。

 単純に偏差値が高い。故に民度が高い。あまり身の回りに気を使わなくていい。下ネタ言い放題。クラスカーストや陰陽差別が希薄。面白い奴や奇特な人間、将来有望な天才と人生の早期から交流が持てる。不純異性交遊(この言葉って何なんですかね)に拐かされない、などなど……。

 こう見ると意外と悪くないように思える。予備校の講師は、「受験のことを考えるなら誘惑の少ない別学の方が絶対に良い」と言っていた。事実、日本最難関大学の合格者の何分の何は別学出身者! みたいなデータはそこら中に転がっている。

 たとえば大学に入って触れた共学出身者の大多数は空気を異様に読みすぎるというか、常にその場その状況に即した行動や発言をしないと人権がないと固く信仰しているのではないかと疑うほどに周囲の目線を気にし、周囲に合わせていた。つくづく生きにくそうな人生だなと思う。

 なんというか、バイタリティに欠けるというか、小さくまとまりすぎている感じがした。僕個人のケースだが、大学では「行動力」だけは矢鱈と評価された。僕からすれば自分の好きなようにふるまっているだけなので、「?」と言った感じだった。

 まあ、ただの負け惜しみはこれくらいにするとして、皆がごく普通に享受しているはずの体験が「わからない」のには一抹の寂しさを覚えずにはいられない。

 受験に失敗し志望校欄には一度も書いたことがないような大学に入って、偏差値の低い共学で青春を謳歌し、高校生活の最後だけファッション受験勉強をし適当な大学に入学し、心から大学生活を楽しんでいる人間を見て僕の心に芽生えたのは、やり場のないどす黒い感情だけだった。

 子供のころは、我慢をして勉強し続ければいつか明るい未来が開けると思っていた。はっきり言って、そんなものはなかった。考えてみれば当然のことだが、抑圧された分だけ人は歪む。

 因みに僕がこの世で一番忌避する言葉は、「高校生カップル」だ。大袈裟な話だろうが、中高で恋人がいた人の話を聞くと(正直聞くのは苦痛で仕方がない)、この人たちは二次元の世界から来たのかな……と思ってしまう。あまりにも実感が伴わなさ過ぎて、自分が送った生活とかけ離れ過ぎていて、現実のことのように感じられないのだ。

 皆と共通の経験を持っていないということは、皆と当然に話題が噛み合わないということであり、ひいては周囲になじめない、ということに繋がる。大学に入学し最初の約一年を、僕は殆ど棒に振った。そしてその理由を、「受験に失敗したから」、「共学の雰囲気になじめないから」の二点に責任転嫁した。

 まあ、共学とか男子校とか関係なく、これって環境のせいではなく自分が悪いのでは……と気付き始めてからはそういう理不尽な憎悪は薄れたが、心のざわめきは未だ止まない。

 ある知り合いがこう言っていた。

【中高男子校ってのはね、一生解けない呪いなんですよ。】

 またあるときは、僕に処女厨という概念を初めて知らしめた友人が、こう言っていた。

共学のお下がりなら、彼女なんて欲しくない。】

 どうだろうか。ほぼ原文ママだが、行き場のないやるせなさ、激情が漂ってはこないだろうか。こういう変な方向に拗らせた人間が沢山いるのが、中高別学教育の恐ろしいところなのである。

 大学に入学して共学に入り、絶望的なことに気付いたのを覚えている。

 そもそもの話、スタートラインが違うということに。六年近く異性から隔離されていた僕は、異性に慣れることから始めなければならないということに。

 更に絶望的なことに気付いた。即ち、

 恋人がいることは、特別なことでも何でもなく、普通に「当たり前」のことなんだと。

 ソースはどっかの週刊誌か何だかだったと思うが、小説家の石田衣良が、新海誠の『君の名は。』を「典型的な恋愛できなかった人の描く恋愛なんですよ」とか「高校時代に楽しい恋が出来なかったんでしょうね、だから学生の恋愛が架空のテーマとなって残ってしまっている」とか評していて、流石に穿ちすぎだろうと感じた一方で、酷く身につまされる思いがした。この指摘には、納得できる部分が大いにある。

 この、「無知ゆえの特別視」(今定義しました)は、恋愛弱者において、まま見られる現象なのではないかと思う。

 以前にも、『耳をすませば』や『君の名は。』が観られない、直視できないなどの意見がtwitterで散見されたような覚えがある。これは多くの場合非モテや非リアと呼ばれる人間に当てはまりそうだが、同性としか付き合いがなかったり、同じような人種で固まってみたりと、彼ら彼女らは得てして人間関係が希薄だ。その結果として「当たり前」が分からず、幻想が際限なく強化されてしまうので、リアルの「異性」や「青春」、「学生生活」とはかけ離れた、創作物上、想像上の「」にどっぷりと漬かってしまう。

 等身大の「青春」を捉えることができず、自分の思い描いた「恋愛像」に耽溺し続ける様は、なんというか……純粋培養の気持ち悪さがある。自分の気持ちの悪さ、厚かましさにさえも無頓着というか。剥き出しの性欲が服も着ずに歩いているような感じがする。

 男子校出身者を引き合いに出すのならば、女子校や処女、果ては性行為そのものを神聖視したり……これらは男子校出身者に限らず共学の荒波に揉まれた猛者にも当てはまるかもしれないが、双方向的な人間関係を培えず、壁打ちの如く二次元三次元問わず推しに感情をぶつけるガチ恋厄介オタクと化してしまったり……。

 書いていて全身がむず痒くなってくるが、列記とした事実の一部ではある。要するに、

 自意識が肥大しすぎなのだ。アニメやマンガの主人公じゃあるまいし、誰も貴方なんていちいち注視してません。そんなに興味ありません。お前のことをずっと見ているヒロインなんかいません。いたら怖いわ。

 まあ、何はともあれ、僕の人生には、現時点では決まりきっていることがある。

 中高一貫男子校出身者の僕は、

 これから卒業アルバムを開くことはない。

 制服を着て新宿や渋谷を闊歩することも、

 男女混合で部活動をして汗を流すことも、

 夕陽が照りつける川縁の道を二人きりで辿ることも、

 オタク女子と教室の片隅でアニメやマンガの話で盛り上がることも、

 初恋の相手に同窓会で再会し勢いで夜の町へ繰り出し一夜を明かすことも、ない。残念ながら万に一つもない。

 全てに実例が乏しく、アニメやマンガの中でしか見たことがないような気がしないでもないが、万に一つもない。制服デートや制服Hに関しては、そもそもの話として制服がない学校だったので前提からして幻想だ。

 共学出身者の一部(主に非モテ)からは夢を観過ぎだの寧ろ別学の方が良いだの非難轟々だろうが、まあそれは多少は甘く見て欲しい。

 さて、ここからが本題である。

 何でこんな露悪な文章を書いているかというと、最近のnoteでよくある、昔の恋人とか初恋の相手とかを出汁にして、エモい(語彙力の敗北みたいでこの言葉世界で一番嫌い)エッセイを赤裸々に書き散らして自己本意な感傷に浸り、「昔はよかった〜〜」とか無条件に昔を美化する人間に対し心の底から気持ち悪さを覚えるからだ。

 お菓子のような文章、とでも言えばいいか。彼らの文章からは抑えきれない自己陶酔が見え隠れしているし、「あの頃はよかった~~」とか過去を無条件に美化する気色の悪いノスタルジーはまともに見られたものじゃない。○丁目の夕日か。あの子との想い出はこの先一生色褪せて欲しくない……みたいな、一昔前のセカイ系ファンタジーの主人公を彷彿とさせる気色の悪い語りも同様。あなたたち以外に登場人物はいないんですか? 

 今が楽しくないから過去を振り返ってばかりいるんでしょうね。

 こういった人種は決まって、SNS村社会とか社交性に乏しいサークルに属し、やれ草食だの非モテだのと弱者を装ってネットや身内で寒い笑いをとるくせに、自分よりも立場が弱い人間を見留めるなり、これ幸いとマウントを取り始める。相手が自分より弱いと(勝手に)判断したら矢鱈と高圧的な態度でものを言ってくる。控えめに言って世界で二番目くらいに嫌い。

 しかし、ネットのそこらじゅうに転がっているクソみたいな惚気話にいちいち反応してしまうのは、僕には、そんな最低限度の記憶すら希薄だからだろう。僕の精神も彼ら彼女ら同様にまた未熟なことの何よりの証左だろう。

 なんか、薄っぺらな自分語りにさえも負けたような気がしてしまうのだ。矢鱈と勝ち負けを決めたがる自分の狭量さにつくづく嫌気が差す。もう拗らせはとうに脱却し、薔薇色ライフへの一歩を踏み出す腹積もりでいたのに、後悔の無限ループは未だざわめきを止めない。充実した友人は、そういう腐りかけの生ゴミみたいな自分騙りを見ても、「可愛いなぁって思う」「現実で話す相手がいないからネットで不特定多数に向けて書いているんだろう許してやれ」などと冷静沈着(?)な判断を下している。彼らのような寛容さを一日も早く身に付けたいものである。……切実に。

 個人的な好みだろうが、僕は毒のある文章、毒のある人間が好きだ。

 その毒が強くて深いほど、惹き付けられる。好きになる、というのはちょっと意味合いが違うのだが、興味をそそられる。

 noteによくあるエモ~~い()エッセイからは、脱臭された懐古感情こそ感じられはすれ、衝動染みた熱意というか、誰かに何かを伝えたい、みたいな積極的な感情が伝わってこない。延々と「一番良かったあの時」を繰り返しているだけで成長の兆しはなく、ずっと一箇所で停滞しているようにしか見えない。だから端的に言って、僕は彼ら彼女らの文章が巧いとは全く思わないし、昨今の「精神弱者≒文章力のある人」みたいな風潮(何か、ありません?)には、殆ど不快感しか催さない。心の病んだ可哀そうな女の子ならまだしも、男がそういう文章を書いていると同性として怖気が走る。まあ、こんなことを書いている僕も……やめましょうこういう話は。

 最後に、Twitterで数年前暴れていた、僕とよく似た男子校出身の誰かさんが呟いていた怨嗟の声……魂の叫びを貼っておく。

 こんな時期もあったんだなぁ……(光を喪った目)

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