排除アートというヴォルデモートの魔法を極めてみたら、排除アートなんて消えていた話
「排除アート」という言葉が存在する。ホームレスが居着かないよう、ベンチの真ん中に手すりを付けることをはじめ、道の端っこのちょっとしたスペースに固定された小綺麗な石なんかが、それに当たるのだという。
無論、この「排除アート」という言葉はネガティブなキーワードであり、権力が弱者(ホームレス)を排除する手段としてアートを利用している、と批判する際に使われることに注目したい。
排除アート=ヴォルデモート卿
この世でなし得る行動は、余程の悪行であっても、その行為をポジティブに言及する言葉が存在するはずだ。ある人にとってビルにハイジャックした飛行機をぶつけて潰すことは、凶悪なテロであるが、別の人にとっては聖戦と呼ぶように。
しかし、何度も探したのだが、何故か排除アートについては肯定的な言葉が見当たらない。これは、実に不可解なことである。「排除アートコンサルティングを請け負います」という建築業者は全くGoogle検索に出てこない上に、横になれないベンチを、肯定的に言及するような販売業者のセールストークすら、見当たらないのだ。
大ヒット商品に、名前が無いという衝撃
観察する限りにおいて、この種のベンチは売れに売れている。わたしの家の近所の公園も、いつの間にかピカピカのこのタイプのベンチに置き換わっていたし、渋谷のような都心部では、このタイプでないベンチを見つけることは困難である。つまり、大変なヒット商品であるのだ。その商品に名前が無いということは、何かしらの力学が働いたとみて間違いないだろう。
京都のいけず石
近い例を挙げよう。いやらさしさにおいても千年の成熟を見せつける、京都では、車が自宅の敷地をまたがないようにする石を敷地の端に置いてあり、それを「いけず石」と呼ぶのだという。えらい綺麗な石、おいてはるなあ。
しかしながら、この石には名前が付いているとおり、「名前を言うこともはばかられるような悪」とはされていない。まるでハリーポッターのラスボス、ヴォルデモート卿のように名前を言ってもらえない「排除ベンチ」とは、大違いである。
排除アートの聖殿にして、未来都市の公園
その答えを求めて、わたしは聖殿に赴いた。MIYASHITA PARKだ。
かつて饐えた匂いを漂わせていたブルーシートも、汚らしい酔っ払いも、その景色はセピア色のフィルム写真に収まった平成時代の記憶に過ぎない。都庁前のカラフルコーンが排除アートLV1であり、排除ベンチが洗練に洗練を重ねてレベルを上げる中、そのような雑魚アートとは桁外れのデザイン力で、饐えた匂いを打ち破り、21世紀渋谷を打ち出す磨き抜かれた佇まいを作り出したのだという。
確かに、話題の絶対横になれないベンチで満ちてはいる。しかしながら、これらは今時のショッピングモールなら、どこにでも観られる仕切りと工夫にすぎない。むしろ、ベンチの数はショッピングモールよりはるかに多いといえる。そのため、座っているだけなら、必ずしも喫茶店に入る必要が無い。確かに、この構造物は公共の公園でもあるのだ。
話題の「座れるが横になれないベンチ」も、洗練されている。清潔で、青空の下、座って集まれる憩いの場所には、制服姿のカップルや、宿題を片付けるグループ、待ち合わせに使っているような大学生などで賑わっている。皆、若くて健康的で、文字通り生き生きと人生を満喫しているようだ。確かに、これはセピア色の「宮下公園」では決して見れなかった、健康で文化的な住みよい公園空間だろう。
この「公園」について、皆さんはオフィシャルサイトと、いままでの数枚の写真をみてお気づきになられた点はなかろうか。
ショッピングモールも、あるいはオフィスビルも、「陰」となる部分が存在する。当然ながら、太陽が真上に無い以上、どこかの場所は陰となり、そこに招かれざる客がやってきた。故に、視界が遮られた場所が、あからさまで無粋な排除アートの出番となった。都庁のカラフルコーンを、橋の下のギザギザ石コーナーを、もう一度思い出していただきたい。
無作法な排除アートを払いのける、建築デザインの洗練の極み
MIYASHITA PARKでは、その必要性すら排除、不可視化されている、どの角度、どの断面、どの空間においても、死角となる陰の空間が存在しない。文字通り、あらゆる地面に、どこかしらの角度で視線を入れることで、心理的な「陰」の無い街を作り出したのだ。
仮に、何らかの事情で、あなたが野宿を決めたとして、決して人々の視線の注目先を選ぶことはないことだろう。かつての宮下公園でも、都庁でも、人知れずブルーシートの裏で過ごした人々が居着いた空間は、街の視線の「陰」となる部分であった。
23時頃には、「閉店」を迎えるこの公園には、バリケードのようなフェンスで少しずつ人を押し返すようになっているため、実際に夜をここで野宿して過ごすことは、不可能だ。だが、そのような実力行使が行われたのは、開店当初、セレモニー的に押しかけた過激派を、追い出したときだけだったのではなかろうか。
そして、何よりも、あからさまな「排除アート」すら置く必要を無くした、現代の行動心理学と建築デザインの結晶には、元気で、若々しく、生き生きと充実した人々が詰め寄せている。みすぼらしい身なりを自覚し、自身の境遇を憂い、ひっそりと視界から隠れたい人間の居場所は、もはやここには存在しない。
陰の無い街の成功例と、その拡張の展望について
「輝かしい街のきらめきには、陰がある」などという戯言は、平成時代に置き捨てられた。令和のモデル都市を織りなす新しい街の、新しい公園には、陰なんて存在しない。光り輝く人間だけの街が、TOKYOに生まれた。現在の美しい賑わいを見ている限り、ショッピングモールとしての成功の如何にかかわらず、この公園設計は、幅広く活用されていくことだろう。
いきいきと輝き、ときめく人だけが、生きている社会へ。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?