ショートショート「次世代のコンタクト”オトミル”」

「お前が全部ぶち壊してるのだよ!邪魔なだけだ」
 今日もまた、叱られてしまった。音程をそろえる。縦をそろえる。大人数で演奏しているのに、まるで大きな一つの暖気に包まれているような、そんな一体感が、吹奏楽がもつ独特の良さだ。あの頃は、ただただ楽器を吹くことが楽しかった。好きだから続けてきたけれど、迷惑をかけているだけかもしれない。どれだけ練習をしたって、一向にみんなと同じように吹けるようにはならない。
 ”音楽は時間の芸術”って言葉、初めて聞いたときは心の中に何かが染み渡っていくみたいだった。その音一つ一つが消え去っていくなかで、一つの世界を創りあげる。どんなに愛おしくっても、一瞬たりとも手元に残しておけないなんて、この上なく美しいと思った。
 それなのに現実は厳しくて、みんなとぴったり合わせるって、私にはちょっと難しいみたいだ。中古で買ってもらったクラリネットも、元の持ち主のところに帰りたがっているんじゃないかなあ。

 ”吹奏楽 音程 そろえる”
 ”クラリネット 音程 合わない”
 ”ブラスバンド リズム 合わせ方”
 同じような言葉ばかりが並ぶ検索履歴。今日もベッドの上で天井を見ながら、昨日の履歴をタップする。
 ”周りの音をよく聞きましょう”
 ”いい音をイメージして” 
 ”まずは、ロングトーンを地道に続けましょう”
 毎日調べたって、やっぱり同じなんだよなあ。そんなこと分かってるよ。ずっとずっと、続けてるよ。それでも上手くいかないから、何とか上手くなりたいから、今日もこうしてここにいるんじゃないか。
 「・・・え?」
 ”音が見える!?次世代のコンタクト「オトミル」”
 バナー広告に突然表示された、意味がわからないキャッチコピー。首をかしげながらタップすると、色鮮やかな画面に切り替わる。
 ”このコンタクトをつければ、今までは聞くことしかできなかったありとあらゆる「音」を、あなたのその目で見ることができます”
 ”世の中に溢れる「音」を、聞くことしかできないなんてもったいない!”
 ”通常価格30000円のところ、今だけ!98%オフの600円!!送料無料!”
 「・・・600円なら、ね」

 放課後、音楽室へ行く前に、トイレに寄る。運動部のみんなはもう出払っていて、校舎は何だかしんとしている。
 「ほんとに見えるのかなあ・・・」
 やっぱり怖いなあ、失明したらどうしよう、何て思いながら、昨日届いた例のコンタクトを目に入れてみる。
 ・・・何にも変わんないじゃん。そう思いながら、もう音を鳴らし始めている音楽室へ急ぐ。

 いつもの音楽室のドアを開ける。と思うと、咄嗟に急いでドアを閉めた。
 ・・・状況が理解できない。各々が音出しをしている、いつもの光景。毎日毎日足を運ぶ、いつもの音楽室に来たはずなのに。赤、青、紫、緑、黄、白、黒・・・。カラフルな何かが、激しく飛び交っている。淡いピンクの雲。カーキを含んだグレーの布切れ。藤色の木片。絡まった海みたいに青い糸。とにかく、いろんな何かに、空間が埋め尽くされていた。
 意を決して中に入る。どうしたって何かにぶつかってしまいそうで、身をかがめながら席についた。少しすると、一気に視界が開けた。一旦音が消え、合奏が始まる。

 今日は久しぶりに叱られなかった。あのコンタクトのおかげだ。見えるって、分かりやすい。皆の音を見ながら、それに合わせて自分の音を作ればいい。感覚だけでは分からなかったことも、見えれば、ちゃんと私にも、分かる。

 それからというもの、放課後はまずトイレで例のコンタクトをつけてから練習に行くようになった。使い続けていくうちに音に”見方”のコツも掴んできた。異世界に飛び込んだようで怖じ気づくことがあったって、人間って意外と、それならそれで対応できるようになってしまうものだ。
 本当に、ありとあらゆる「音」が見える。グラウンドへ急ぐあの野球部員の足音は、澄んだ青いビー玉。電気の消えた教室でだべっている数人の女子生徒の笑い声。こっちの子のはサーモンピンクの小さな紙吹雪が舞い、そっちの子のはレモンイエローのクラッカーが弾けている。
 人の話し声ももちろん見えるけれど、文字にはならない。あくまで、色を持った、形ある何かとして見える。今まで見てきた世界とは全く違う世界が、目の前に広がる。
 厄介なのは、本当に全ての「音」が見えること。いつもの帰り道は、”見えるモノ”で溢れている。処理能力が追いつかなくて、頭痛がしてくる。世界がカラフルすぎて、吐き気がする。何とか家に着くと、まるで長時間潜水していた人が酸素を求めるように、私はコンタクトを外す。

 それからというもの、皆に合わせられなくて叱られることはなくなった。見えるんだから、私でも上手くできる。
 今のトランペットのメロディー、皆緑っぽい毛糸玉だったけれど、あの子は黄緑っぽくて、この子はカーキに近くて、その隣の子の緑はほぼ青で、全然違うじゃん。そのまた隣の子に関しては、毛糸がびっくりするほど極太じゃないか。
 ここのフルートの裏打ちは、暖色っぽいボールが弾んでいる。山吹色のバレーボール、ラズベリーみたいに赤いバスケットボール、桜色のピンポン球。色も大きさも、てんでバラバラだ。

 毎日、音楽室で空間を凝視し続けた。そんなことをしているうちに、コンクール予選当日。本番前、会館のトイレで、私はコンタクトを入れる。これで、今日も皆に合わせられる。
 「あっ」
 はずだったのに、コンタクトを流しに落としてしまった。急いで手を伸ばして拾い上げようとした。が、やってしまった。咄嗟に出した右手に蛇口のセンサーが反応し、私の演奏の全てを支えていた魔法のアイテムは、虚しくも排水口に流れていった。
 もう、終わりだ。今日、私は演奏することはできない。今日は何とかやり過ごして、また新しいコンタクトを買おう。焦りもしなかった。絶対にできないと分かっていることに対して、焦ったり、緊張したりなんて、そんな忙しいことはできないものだ。

 舞台袖。独特の空気感に包まれ、前の団体の音が耳に入ってくる。ああ、今日は世界がモノクロだなあ、なんて思いながら、手を握り合ったり、呼吸練習を繰り返したりしている周りの部員たちを、ぼんやりと眺めていた。

 「出演順、23番。・・・・・・」
 スポットライトがこちらを照らし、指揮棒が上がる。ここから12分間、何とか見た目だけ、やり過ごす。やり過ごす。やり過ごす・・・。
 ・・・今のトランペットのメロディー、まるで柔らかい毛布をかけてもらったみたいだ。太さも色も少しずつ違う、いろんな種類の毛糸で編まれているから、空気を含んであったかい。
 ・・・ここのフルートの裏打ち、一つ一つの音が万華鏡の絵柄が変わる瞬間みたい。色も形もバラバラのビーズが、同じタイミングで動いて、一つの綺麗な模様をつくっている。
 目を閉じた。目を閉じて、聴いた。私は久しぶりに、音を、音楽を、聴いた。
 ああ、やっぱり好きだなあ。耳だけじゃなくて、もっと全身から聴くことができたらいいのに。今だけは、目も鼻も、耳になってくれたらいいのに。
 見えないものが見えないことには、きっとそれなりの理由がある。今まで私は何を見て、何をしていたんだろうなんて、つい数分前までの自分のことを笑ってしまう。
 もし見えてしまったら、この美しい世界はきっと消え去ってしまうから。目を開けるのは、もう少し後にすることにした。

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