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往復書簡#4『赤い砂を蹴る』|女ふたり、読んでいます。


近頃の私は乱読気味で、というのも読めない期間が数ヶ月あったからか、とにかく読みたくて、読みたくて、仕方がないというような、むさぼる読書をしています。いいのか、わるいのか、分からないけれど、そんななかで読まれた『赤い砂を蹴る』はもしかすると、落ち着けよ、と一旦停止させてくれる存在なのかも。とおもいつつ、また次の本を読みはじめようとしているので、なんともいえない曖昧さ。

ま、こんなときもあるよね。


さて、ブラジル、日本、過去、未来、幾度も訪れる誰かの死、すべてを行き来しながら、重なり合い、真っ白な部屋で濃いベージュの爪をした私は、その世界へ引きずり込まれ、混乱し、たまに目を滑らせては、ちょっと待って、と戻りながら、それでもあっという間に読みおわってしまいました。


そのあとすぐにりなさんの往復書簡を読み、うわ、すごい、と思わず。私はそこまでグッとはいることができなくて、困った、どうしよう、とおもっていたところだったから。それは面白くないとかじゃなくて、感情が追いつかない、というもので、物語自体はとても素晴らしく、ひとつひとつの情景や事柄に色付けがされていることから、より鮮明にその場面を連想することができることに感動し、そしてたくさんの死と、それらにまつわる過去があまりにも濃いものであったこと。それはそれは面白かったです。


ひとつの前情報もなしに読んだからか、先入観もなく、ひたすらに物語に振り回されました。そう、振り回されたの。もう、ほんとうに。でも終着地はきちんとしていて、なんなら結構込み上げる感じの押し上げられかたをしたよ。


でもそのまえに、


その、ちょっと待って、と戻りながら読んだということを話したけれど、それはふたりの間にある同志であること(ひとくくりにはできないけれど)と、所々噛み合わない不自然さ、不愉快さを感じてしまったときで、

例えば、56ページ。

芽衣子さんと千夏の会話で、「大輝の父親だってひどかったのよ。私、寝ているときに体触られそうになったことあるもん」という千夏に、芽衣子さんが、「よかった?」といって、その後、慌てて、違うのよ、そういうことじゃなくて、と弁明するところ。

なんか、こう、少しずつずれていて、どうしても交わらなくて、だけどそれってあたりまえのことで、おなじ経験をしたわけでも、おなじ過去にいたわけでもなく、違う人間なんだから、なにもかもが噛み合う人なんていないわけで。わかりたいとする、わかろうとする、その感じが、いや、聞いて、ちがうの、と。言葉にできないものと、言葉にしなくては伝わらないもの、誰かを思っては、だせなくなった言葉を飲み込む息苦しさを思い出したような気がして、どうしても立ち止まってしまうのでした。


物語の軸からはすっかりと脱線してしまいましたが、全く異なる人間同士が、それぞれに死というものを、手放せずに抱えたまま向き合い、そのなかで、着地するところ、りなさんの言っていた142ページの千夏と、最後の芽衣子のセリフは、やはり特別なものであり、過去を含めてすべてを肯定してもらった瞬間、とても高揚して、すこし泣いてしまいそうな、熱さをかんじました。


人間はそんなに万能じゃない
自分が救えたと思うなんておこがましい
自分のせいかもしれないと言ってみたところで、そんなことないよ、と言われるのはわかっている。だから、自分を責めてみせたところで、それは嘘だし、自己陶酔だと思う。


死と向き合うことは、少なからずあって、私も少し前に経験したけれど、正解なんてなくて、どこかに落としどころがある日までは、抱えたまま生きていこうと思います。今、この物語を読めて、よかった。


そして、ペパリリと読むといいかもといっていた、りなさんの言葉、読み終えた今、とてもわかります。あのとき読んでたら、たぶん今とはまたちがった感想があっただろうな。巡り合わせということで。



p.s
明日から12月だそうです。蟹工船をひらく準備はできているものの、心の準備が整っておりません。今は小川哲さんの『地図と拳』、大崎清夏さんの『目をあけてごらん、離陸するから』、『uso vol.4』を読んでおり、そして今夜からオースティン『説得』を追加で読みはじめようとしているという乱読人間に、はたして蟹工船は読めるのでしょうか。勢いでいっていいものか…どれか一つでも読み終えれたらいいのだけど。ちなみに12月はトワイライトシリーズも読もうとしていて、しっちゃかめっちゃかです。さすが師走。何冊読めるのか、見ものです。


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