T(私)の中学生時代①

中学生時代から私は沼底に落ちることになる。幸い、底なし沼ではなかったが。

さて、中学生活が始まって、私は何を思ったのだろう?
期待?緊張?恐怖?歓喜?どれも正解な気がする。
幼稚園から小学校に上がった時と比べて自意識が確立していることで、環境の何もかもが新しくなったことを強く実感して、新鮮さを感じていたのではないかと思う。

部活や恋愛など、漫画でしか体験することが出来なかった体験が出来るということに対しての高揚。
クラスを見渡せば、同じ小学校だけでなく他校からの同級生も多くいる。
そして、気づく。
……Kがいる。

小学六年生になってからはクラスも違ったこともあって、ほぼ疎遠になっていた、Kが。
非常に嫌な予感がした。そして、予感はバッチリ的中。
Kから再び悪評を振りまかれて、無事、クラスの女子の半数以上から私は少なからず嫌悪や警戒心を抱かれるに至ったのである。
この時点で、少なくともクラスでの恋愛は期待できなくなった。

まあそれは良い、いや、良くはないがもう仕方ない。
正直恋愛への興味は隠せなかったが恋愛に対しては臆病になっていたし、同じ男同士で遊ぶのが結局一番楽しいよね、状態になっていたのもあったのだから。

という訳で、まずは部活選びである。やりたい部活は決まっていた。
そう、私は足が速かった。ちなみに、生徒数が今までの倍以上となった中学生一年目の時点でも、私の足は学年中二、三番目の速さを誇っていた。
長所を伸ばすのは、人生をより良くする為の基本。
よって私の選ぶ部活は当然、

テニス部であった。

...…何が、「よって」なのだと思われるかもしれない。
少なくとも、今の私はそう思う。テニス部を選んだ選択は、かなりのミスだったのではないかと。
一応、当時の私的にはそれなりに考えた上での選択ではあった。
何故かというと私は足こそ速かったが、体力が無かった。
周りの足の速い者は例外なく長距離走も得意だったのだが、私はこと長距離走に関しては苦手だった。頑張らなければ、ビリから数えた方が早くなってしまう順位になるくらいには。
中学での陸上部は種目ごとに選手は分かれていたと思うが、それでも体力作りのために毎日の走り込みは必須だったろう。
それでも楽しければいいのだろうが、ぶっちゃけ私は走ることは得意ではあっても特別好きではなかった。
やることは、走るだけ。
地味で、つまらない。未熟な私は、そんな浅はかな考えから陸上部を選ばなかった。

テニスを選んだ理由は、楽しそうで華やかそうだったから。
某テニヌ漫画が、私にテニスへの興味を植え付けたのだ。あとはもしかしたら、モテるんではという不純な動機もあったのかもしれない。
まあ、結果としてはテニスを選んだのは失敗だった。
入社後、いや、入部後ギャップというのがでかかった。

まずは同じ小学校からの入部者にして、テニス経験者のSという不快な存在がいたことだ。
このSというのはスポーツマンにありがちな勝気な奴ながらその根は陰湿な奴で、自分が経験者なのを棚に上げて、周りの未経験者を馬鹿にするわ、実力ではなく自分が気に入った奴だけを次期レギュラーとするよう進言するわ、先輩であろうと裏で悪口を言うわで、要は最悪な奴だった。
奴のテニスプレイヤーとしての実力が入部時点で上級生の誰よりも上だったというのも、調子に乗らせた要因だろう。
私の中学校の男子テニス部は、S以外誰も経験者がいないことからレベルが高いとは言えなかったのだ。
最も、奴は最初からお山の大将として君臨することを望んでいたのかもしれないが。
以前語ったYが進学した中学校の方のテニス部はレベルが高く、普通の中学校にも関わらず県大会常連クラスの成績を残しており、本当にテニスプレイヤーとしての結果に拘るならそちらの中学校を選ぶという選択肢があったはずなのだから。
勝手な想像でしかないが、要は、レベルの高い集団の中で埋もれることを恐れたのではないかと未だに感じている。
正直、その考え方自体はわからないでもない。
自分の身の丈に合わない環境で必死に生きるより、自分の身の丈かそれより下の環境で余裕をもって生きるというのは何も間違いではないのだから。
実際、Sはテニス一辺倒の人間ではなく勉学にも力を入れていた。
詳しくは知らないが、約180人の同級生の中で上位30名以内には手堅く入れるくらいの実力はあったと思う。確かな努力もしていた上で、要領も良かったのだろうと思う。今にして思えば、尊敬すべき点も確かにあった。
まあそんなことは当時の私には関係ない。Sは狡くてうざい、大嫌いな奴。
私のテニスに対するモチベーションを下げる奴その1だったのである。

そして次に思い出されるのは、テニス部顧問の存在である。苗字を忘れたので、この顧問をマサとでもしておこう。
マサはなんというか、勘違い熱血顧問だ。
この評価は十年以上経った今でも変わらない。
十年以上も経てば、精神性は程度はあれど熟し、視野は広がっていく。
私もその例外ではない。今にして思えば、あいつってそんな悪い奴でもなかったなとか、あの時先生が言ってたことって間違ってなかったんだなとか、昔付き合いのあった人物に対しての評価ががらりと変わることは多々ある。
先に挙げたSに対しての現在と過去の評価が違うように(嫌いということは変わっていないが)。
特に教師ともなれば人生の指導者なのであるから、当時は気づけなかったが尊敬すべきだった点が山ほど出てきてもおかしくない。
しかし、マサにはそれがない。
なんというかマサは、痛々しかった。
漫画やらゲームやらの影響なのか、ぼくのかんがえたりそうのてにすぶ、とでも言うべき自己中心的な理想を私達に押し付け、それに反した行動をすればすぐにへそを曲げる。そんな男だった。
何年以上も前に別の学校で自分が顧問をしていたテニス部が好成績を収めたというのを誇りにしていて事あるごとにそれを引き合いに出していたが、練習方法は今にして思っても非効率的なものばかりであったし、いつだったかに誰かのツテで来てくれた現役テニス選手からは練習方法の悪さを指摘されたこともあったので、顧問の指導力というよりはその時の選手達が凄かっただけだと思う。
ささいなことで怒っては少ない練習時間を一時間以上も潰し、挙句に職員室に引きこもり、機嫌が治らなければ明日以降連帯責任で練習すらさせてもらえなくなるので、皆で仕方なく職員室に謝りに行くというのが常と化していた。どちらが子供か、わかったものではない。
見る目も無かった。実力主義を謳いながら、一番上手いからといってSの贔屓を疑いもせずに傀儡とされ、1年の次レギュラー候補はSのお気に入りで固められ、彼らは2年以上との練習に混ざるようになり、私達と練習試合で白黒つけることも出来なくなった。圧倒的差とは言えずとも、Sの選んだ者より上手い者は何名かいたはずなのに。
よってマサも、私のテニスへのモチベーションを下げる要因2なのであった。

ちなみにではあるが、私もその犠牲の一人である……と言いたいが、正直、一年生時の私に関しては妥当な評価だったのかもしれない、というのが正直なところである。
私は持ち前の足の速さから大抵のボールには追いつけたことから、それだけなら後衛選手(テニスのダブルスで、後ろで撃ち合う役割)としては優秀だったと自負している。サーブの球速にも自信があった。
しかし、私には持久力が足りなかった。知っての通り私は体力がある方ではなく、体力管理も上手くなかった。
そして、テニスは短期決戦ではないし、大会どころか練習試合ですら一日に何試合かはこなすのが普通である。
最初の試合のうちこそ勝てるものの、徐々に接戦を強いられることになる。
勿論それは相手も同じなのだが、私は接戦に弱かった。体力面もさることながら、本気で厳しい状況下に置かれた時のメンタル維持という点においても劣っていたのだ。
格上と評された相手に勝った次には、格下と思われた相手に負ける。
ムラがあり、安定した選手とは到底呼べなかったのである。
そんなだから、私はチャンスを活かせなかった。

これは一年の後半だったのか記憶が曖昧なのだが、部内シングルス番手戦というものが行われた。同じ二年同士でシングル(前衛・後衛別で)にて勝利数を競い、その結果により部内での序列を決定するのだ。
1番強いのが1番手、2番目に強いのが2番手、といった風にだ。
そこから強い順で正式なダブルスペアを決めていき、そのペアで今度は三年も含めて部内ダブルス番手戦を戦う。
ちなみに、私が所属していた”ソフト(軟式)”テニス部は練習試合、公式試合ともにダブルスでしか試合は行われない。個人ペア戦、団体ペア戦ともにである。
公式大会において個人ペア戦はともかく、団体ペア戦に出られるのは部内で最も強い8人4ペア、1ペアは控えのようなもの?である以上、毎回確実に試合に出られるのは6人3ペアしかいない。
つまりいずれ訪れるダブルス番手戦に向けて、シングルス番手戦で上位へと食い込み、強いペアを獲得することは重要なのである。
ここで結果を残せば、Sが誰を贔屓しようがもう関係がなくなるのだから。

結果から言うと、私は二年の後衛において4番手となった。この数字は二年の中ではぎりぎり上位という微妙な順位だった。
悔しくてたまらなかった。何も、1番手になれると思っていた訳ではない。
後衛シングル番手戦にはSがいたから。上でぼろくそに書いたものの、唯一の経験者であったSと私達の実力差は歴然だった。
しかし、私はSが今まで贔屓していた者達に実力が劣るとは微塵も思っていなかった。事実、私はSにこそ歯が立たなかったが、彼が贔屓し私より上と位置付けていた者達には勝利することが出来た。
いける。これなら、2番手にはなれる。その思惑を打ち砕いたのは、私が私より格下だと侮っていた他の2年生だった。
私は忘れていた。この、日の目を浴びる絶好の機会に全力を尽くすのは私だけではなかったことを。

最後の贔屓されていた者を倒した次の試合で、私はHという小太りの男と戦った。彼はその体形と入部当初にイキってしまったことが原因で、やや周りからは小馬鹿にされていた。
恥ずかしながら、私もHのことは小馬鹿にしてしまっていた。
練習試合で負けたことは一度として無かったし、何を取ってもテニスにおいて私より上回るものはないと驕っていたから。
なのに、私は負けた。
連戦における連戦でただでさえ少ない私の体力が消耗していたから?
違う。それは、Hも条件は全く同じだ。
単純に、Hの方が人として強かっただけの話だ。
Hには輝くようなテニスセンスは無かった。サーブや球速や足が速い訳でも、ミスが少ない訳でも、角度打ちやフェイントがうまい訳でも無かった。
ただ、諦めが悪かった。どんなに不格好でもボールを返すことを諦めず、どんなにデュースが続いても気持ちを折らずにミスを増やすことを避けた。
私は絶対取れないと思ったボールには体力消耗を避ける為と言い訳をつけて追わなかったし、デュースが続くたびに気持ちがすり減りミスを連発した。
そこが、Hと私の差だったのだろう。
私の番手戦の中で最も長く続いたその試合によって私の体力はすっからかんになり、今まで侮っていた者に負けた動揺からか、その後は何回か同じように自分より弱いと思われていた者達に負けてしまった。

こうして思い返すと、当時の私はメンタル面の弱さもさることながら、私は目に見えるものしか見ようとしない視野の浅さが見受けられる。
スタミナやメンタルといった見えないものを鍛えることを疎かにしていた。
それに、終わってみれば私より上の2、3番手の後衛はSに贔屓されてるだけの奴と蔑んでいた二人だった。
彼らは私に負けた後も、気持ちを崩すことなく多く勝ちを拾い続けたのだ。
ちなみに、Hは5番手だった。これは、今まで下から数えた方が早いと目されていたのもあって大健闘の結果と言える。事実、それから周りのHを見る目は変わり始めた。

誰も彼にも完敗した、そんな惨めな気分になった。
半端な実力、半端な順位、半端な気持ちに打ちのめされてなお、私は奮起しなかった。
その後もレギュラーと非レギュラーの間を幾度か行き来したのも、私のメンタルの弱さをわかりやすく表している。
仲間に応えられない自分の実力の低さ、それを補おうと猛練習する気力も作れない自分の甘さ。楽しさよりも勝利を取らなければいけない試合の厳しさ。色々なことに嫌気がさして、努力よりも逃避を選んでしまった私は、二年のある時期から部活に行くことを辞めた。

私は私が力を発揮できないと感じた場所、楽しくない場所からこの後何度も逃げ続けるが、最初の致命的な逃避はこの時だったのではないかと思う。
だからこそ、私は後悔しているのだ。
もし、テニス部ではなく陸上部に入っていたら。私は部活から逃げることもなく、この後、私の人生を揺るがせる二つ目の事件も起こらなかったのではないか、と。

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