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【短編小説】電話

この作品は、拙作「サンドイッチとウィンナー」で、小説内小説として使ったものです。元々は、一つの短編として書いたものなので、それとはラストが違っています。作者としては思い入れがある作品なので、元の形で公開したいと思います。お読みになる方は、そういう事情ですので、ご寛容くださいませ。     
          潮田クロ


 学帽を被った兄はずっと外ばかり見ていた。小学校三年生だった僕は、あの学帽を早く被ってみたいと思いながら兄を眺めていた。兄は何も喋らなかった。僕も黙っていた。兄の頬を汗が伝わって落ちる。バスに冷房はなかった。街全体が暑くて、走る車に吹き込む風も、体を涼ませてくれはしなかった。憂鬱な仕事だった。僕たち兄弟は、父に会おうとしていたのだ。会社に至急電話してくれという、ただそれだけの伝言のために、僕たちはバスに乗っていた。

 あの頃は、電話のない家もそう珍しくはなかった。学校の連絡網にも、自宅の電話番号に混じって、「呼」の印のついた呼び出しの電話番号も多くあった。クラスの四分の一が、呼び出しだったろうか。僕の家には電話があったが、父の今いる場所には電話がなかったのだ。

 電話を受けた母は、割烹着をとって、出かける支度をした。何も言わず怖い顔で、よそ行きの服に着替えた。それなのに、玄関まで行って座り込んでしまった。泣いていたのかもしれない。暫くそうして座り込んでいた。それから、僕たちを呼んで、父への伝言を言いつけた。

「いっしょに行かないの」

 僕が言うと、兄が無言で僕の手を引いた。学帽を被って外に出た兄は、もう僕を見はしなかった。  
 バス停に止まるたび、誰か知った顔がないか伺った。父の所へ行くのは初めてではないが、そのことを人に知られるのはきっと恥ずかしいことなのだと、僕は考えていた。兄は振り向きもしないで、ただ窓の外を見ていた。

 目的の停留所につくと、兄と僕はお金を払って降りた。ワンマンバスだったろうか、まだ車掌がいただろうか。そこから、白く渇いた道を二人で並んで歩いた。短い影法師が、一足進むたび、道案内でもするように前に動いた。

「向こうの家に着いたら、何にも言うな。お兄ちゃんが全部言うから何にも言うな」不意に兄がそう言った。「それから、何を出されても、絶対手をつけるな」

 有無を言わせぬ響きがあった。僕は兄を見て頷いた。兄は、まっすぐ前を向いていた。

 表札のない、古い小さな平屋の前に立って、兄は学帽をとった。「ごめんください」と声をかける。固い声だった。用件以外は何も喋らないという意志のようなものが、その声にはあった。

「はあい」という声がして、すぐに若い女の人が出てきた。女の人はシミーズ一枚だった。女の人の名前はもう忘れてしまったが、その姿だけは今も鮮明に覚えている。

「あら、坊ちゃん方。いらっしゃい」

「父はいますか」兄は言った。

「ああ、今、夕飯のおかず買いに出ちゃったのよ。ほんと行き違い。そうね、長くても三十分もしたら帰ってくるから、お上がんなさいよ」

「いえ、ここで待ちます」

「伝言なら、伝えるけど」

「直接言うように、母に言われてますから」

「じゃあ、お上がんなさいよ」

「ここでいいです」

 女の人はちょっと機嫌を損ねたようだった。それなら勝手にどうぞ、とでも言われるかと思ったが、軽くため息をついてこう続けた。

「あたしがさあ、坊ちゃん方の家に行ったとしよう。あいにくお父さんは留守なんだ。じゃあ、ここで待たしてもらいますって、玄関に三十分もいられて、お母さんは平気かな」

 どう、と言うように、兄と僕の顔を代わる代わる見比べた。僕に判断など付きようもなかった。暫く考えて、兄は「おじゃまします」と言った。

 女の人の後に続いて狭い上り框に入る。兄はいつもは脱ぎ散らかす靴をきちんと揃えた。僕も兄に倣って、揃えた靴を隅に寄せた。そこには他に父の革靴があった。近場の買い物ということでサンダルでも履いて出たのだろうか。「夕飯のおかず」という言葉が思い出された。買い物籠を持って、魚屋や八百屋をまわるのだろうか。魚を二匹、野菜を二人で食べられる分考えて、そうしてお金を出して買うのだろうか。一円二円のお釣りもきちんと貰って、買い物をするのだろうか。そんなことを考えると、鼻の奥が熱くなった。自分たち家族が捨てられたような気がした。

 上り框からすぐに八畳の部屋があって、小さなちゃぶ台がおいてあった。座るとすぐに、女はサイダーを出した。兄は正座したまま「お気遣いなく」と短く言った。
「お気遣いなんて、難しい言葉知ってんのねえ」

 女の人は僕たちの正面に横座りして、ゆっくりと団扇を使っている。

「いつもはもう少し風が入るんだけどねえ。今日はだめねえ。やっぱり扇風機、買うかなあ」

 誰に言うともなく女の人が喋っている。僕はチラっと兄を見た。女の人の声が聞こえていないように、兄は無表情だった。

「あの、何。お母さんに、向こう行ったら、おばちゃんと話してはいけません、なんて言われてるわけ」

 今度は明らかに僕たちに向かって、声がかけられている。もう一度兄を見た。兄は聞こえないような顔をしていた。顔を戻すと、女の人と視線があった。びっくりして兄を見ても、兄は知らん顔をしている。また女の人と視線があって、もうなにか意思表示しないといけないように思われた。喋ってはいけないと兄に言われていたので、僕は女の人に向かって首を振った。

 あはは、と女の人は笑った。兄が僕を見たので、僕は下を向いて小さくなった。

「かわいいわね、弟さん。それにお利口そう」

 兄は無言だった。

「お兄ちゃんとしてはどうなの。弟さんを誉められて悪い気はしないでしょう」

 やはり兄は何も言わない。

「でも、お兄ちゃんも、まっすぐそうでいい感じ」

 思わず軽く吹いてしまった。すぐにまじめな顔をしたが、兄には感づかれてしまっただろう。

「お構いなく」

 兄はそう言った。

「お構いなく、か。やっぱり構っちゃいけないかしらね」

「話をする気になれません。それから母の話をするのはやめてください」

「ごもっともです。どうもすいません」

 女の人はすいませんのところで、横座りのまま手をついて軽く頭を下げた。

 五分、十分と時間が流れる。子供の頃は、今より座り慣れていたのだろうか、正座が苦痛になったという記憶はない。蝉の声だけを聞きながら、僕たちは時間をやり過ごそうとしていた。

 女の人はぼんやりと団扇を使い、時々、横座りした足のくるぶしあたりを撫でていた。体育館で聞く校長先生の話の時と同んなじだ。そんなことを僕は考えた。時間をやり過ごすことだけを考えて、僕は黙って座っていた。

 だいぶ時間がたったように思えても時計はなかなか進まなかった。何度目かで時計を見たとき、細い声で、ふと女の人が漏らした。

「そんなに嫌わなくてもいいじゃない」

 僕にははっきり聞こえた。

「こんなにはっきり嫌われると、あたしだって人間だから、こたえんだけど」

 女の人は下を向いて、そう言った。

 僕は女の人が気の毒になった。女の人を見まいとして下を向いたとき、兄が女の人に話しかけた。

「僕は、あなたを嫌ってなんかいません」

 えっ、とビックリして、女の人が兄を見る。言葉の内容というよりも、兄から話しかけたことに驚いたようだった。

「悪いのは、僕の父です」

「そりゃまあ、そうだけど、でも誘惑してるのはあたしだよ」

 女の人はちょっと元気になった。

「誘惑される父が悪いんです」

 僕はユーワクという言葉に耳が赤くなった。男女のことは多く知らない年齢だったが、ユーワクがそれに関する言葉だとは知っていた。そしてその言葉を話す兄を、随分と大人のように感じた。

「お兄ちゃんはいくつなの」

「十四です」

「へえ、しっかりしてるね。あのお父ちゃんの子とは思えないね。で、弟さんは」

 答えていいのか、兄を見た。兄は軽く頷く。

「三年生です」

 初めて声をだした。ずっと黙っていたので、声が高く出た。

「かわいい声ね」

 僕はまた赤くなった。

「何か服を着てくれませんか」

「はい?」

「そんな格好で、人に会うのは失礼だと思います」

「あ、ああ。ごもっとも」

 女の人は立ち上がって隣の部屋に行った。しばらくして、空色の水玉模様のあるワンピースを着てきた。ワンピースというよりムームーのような服だった。

「これでいいかしら」

 兄が何も言わないので、ちょっと肩をすくめて、女の人は座った。座りしな、僕に向かって軽くウィンクする。今度は赤くならなかった。退屈紛れに、女の人が僕をからかっていると、さすがに僕にも分かってきたからだ。でも、悪い気はしなかった。

 勢いよく玄関の引き戸が開く音がした。同時にいくらか滑稽味を帯びた言い方で「帰ったぞー」と父の声がする。しかし、すぐに、僕たちの靴に気づいたのだろう、間があって閉められる引き戸の音はいやに大人しかった。

「坊ちゃん方がお待ちですよお」

 遠くにいる人に呼びかけるように女の人が言う。振り向けば父がすぐ見られるのに、僕たち兄弟は前だけを見ていた。やがて父が僕の傍を通って、女の人の横に座る。何も言わないで、買い物籠を女の人に渡す。女の人は、どうもお使いだてしてすいません、と言って、買い物籠を持って奥の台所に消えた。  

「なんだ」

 不機嫌そうに父が言う。

「母さんから伝言です。至急、会社に電話入れてくれって」

 兄がそう答える。

「そんなことなら、ことづければいいじゃないか。こんないつまでも待ってないで」

「待っててはいけませんか」

「そうじゃないが、簡単な用件ならことづければいいと言ってるんだ。アレだって馬鹿じゃない。そんなことぐらいできるさ」

「あれえ、ちっさい西瓜が入ってるじゃない。これ、よく冷えてんねえ」

 突然、女の人が素っ頓狂な声を出す。父は、まったく余計な、みたいな顔をする。

「ねえ、お父ちゃん。坊ちゃん方にお出ししてもいいかしらねえ」

「勝手にしろ」

「勝手にしまーす」

 父は手を軽く組んで、諭すように言った。

「西瓜食ったら、もう帰れ」

 おいしそうよお、坊ちゃん方、サイダーも飲んでくんないんだから。西瓜食べてってよねえ。お父ちゃんからのお許しも出たんだし。ひっきりなしに女の人が喋る。女の人が父のことを「お父ちゃん」と言うのに、僕はひどく違和感を持っていた。父だけでなく、僕や兄も根こそぎこの女の人に奪われてしまったようで悲しくなった。家で待つ母の顔が浮かんだ。こんな家、さっさと出て早く家に帰りたかった。

「西瓜は食べません。それから、話はことづけだけではありません」

 兄は脱いだ学生帽を固く握っていた。平静に見えるのは外見だけで、兄は何かを必死にこらえているらしかった。  

「なんだ、他になにかあるのか」ちょっと台所を気にするふうで父が言った。「おい、俺にもサイダー」

「ごめん。もうないのよ。最後の一本だったんだから。あれ、坊ちゃん方、手をつけてないからもらったら。親子なんだし」

 なんだ、ないのか、と独り言のように父は言い、僕の前のコップをとった。一息に飲んで、意地を張らずに飲みゃあいいじゃねえか、と言った。

「なんだ、何の話だ」

 父は必要以上に構えてると思った。今から兄に不愉快な話をされるという予感のようなものがあったのかもしれない。しかし、兄は父を不愉快にさせるような話はしなかった。

「お願いがあるんです」

「何だ」

「この家にも電話を引いてください」

「電話?」

 自分のしていることに難癖でもつけられるかと思っていた父には意外な言葉だったのだろう。一瞬、あっけにとられ、すぐに、いやまだ油断できないぞ、という顔になった。

「電話をどうして」

「僕がこっちに来なくてすみます」

「何だ面倒なのか。電話は金がかかるんだぞ」

 父は、事態をなるべく簡単に、電話だけの話として処理したいらしかった。金がなあ、と金銭の問題だけのようにして、兄の話を受けていた。兄も深入りするつもりはないらしかった。続けてこう言った。

「来年、高専を受けようと思います」

「何だ。大学には行かねえのか」

「工業高校も考えましたが、手に職をつけるのなら、高専の方がいいかと」

「手に職をつけたいのか」

「はい」

「早く俺から自立したいのか」

「はい」

「まあ、それもいいけどな」

「いや、しっかりしてるわねえ、お兄ちゃん。本当にお父ちゃんの子なの」

 女の人が台所から現れて、切り分けた西瓜を並べる。もともと大きくならない品種なのだろう、小さいのによく熟れてうまそうだった。「さあ、召し上がれ」

 お盆を胸に抱えて、女の人が父の隣に座る。

「で、それがどう繋がる?」

 父は、さっそく西瓜にかぶりつく。果汁がズボンにぽたぽた落ち、あらあら赤ちゃんね、と女の人が布巾でそれを拭く。

「お前らも食え」

「伝言のあるたび、僕がバスでこちらに伺うのは時間がかかります。今の僕の力で高専は無理ではないと思いますが、でも悔いの残らないようこの一年勉強だけはしっかりやりたいんです。ですから、この家に電話を引いてください」

「受験勉強の邪魔ってわけか」

「あら電話、ねえ、引いてくれるの」

「電話する相手もいねえくせして、よく言うな」

「失礼ね。知り合いの五人や十人、あたしだっているわよ」

「ですから、お願いします」

 頭のいい兄のことだ、高専は合格するだろう。でも僕は、兄は県立の西高に行くものとばかり思っていた。その頃、いやたぶん今でも、頭のいい子はたいがい西高へ行く。

「高専か。ま、それもいいかもな」

 父は理系の大学を出て、技術職として会社に雇われていた。もしかしたら兄の言葉に、自分の跡を継いでくれるという思いを勝手に感じたのかもしれない。まんざらでもない表情で、何度は頷き、もったいをつけて、「引いてやろう」と言った。それを聞いて、女の人は大げさに騒ぎ嬉しがった。

 兄は父の言葉を聞くと、ありがとうございます、と言って頭を下げた。僕もなんだか下げなければいけないように感じて、頭を下げた。それから、兄はすぐに立ち上がる。僕も慌てて、立ち上がった。

「それじゃあ失礼します」

「なんだ、西瓜、食ってけよ」

 兄はもう一度礼をして玄関に向かう。西瓜に未練はあったが、僕もそれに倣う。

「なんだ、もったいない」

 いまいましそうな父の声が背中で聞こえる。お前も食え、というようなことを父が言い、はあい、と女の人が答える。二人のやりとりを聞きながら、兄は玄関の引き戸を閉めた。ピシャリという乾いた音がして、ふたりの声は聞こえなくなった。

 兄は学帽を深く被った。

「もう、こんなとこ来なくていいんだ」

 そう呟いて歩き出す。

 僕は泣きたい気持ちになった。父は嫌いだったが、玄関をピシャリと閉めたその音で、父との関係が永遠に切れてしまったようで、それはそれで悲しいことのように思えたからだ。泣きそうになりながら、決して泣いてはいけないのだと思い、必死に我慢して兄について行った。
 その後どうしたか、記憶はない。その後、兄が何を言ったか、何を言わなかったか。どんな表情をしたか。帰り着いたとき、母の様子はどうだったか。そんなことは、まるで覚えてはいない。
 次に父と会ったのは、私の結婚式の時だった。式の前に控え室に現れ、お祝いだ、といくらかお金をくれた。式には出ずに父はそのままいなくなった。ずっと後で、どこそこで死んだ、と兄が伝えてくれた。死後の処理は全て兄がやったようだった。
 どうやら父の血を引き継いだのだろう、私の結婚生活は長くは続かなかった。おそらく母の血を受け継いだ兄は、結婚しなかった。老いた母の最期を看取って、その後も一人で暮らし、そして死んだ。
 兄の初七日の夜、私はこの遠い日の出来事を思い出して、ひとり酒を飲んだ。

             了

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