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種を蒔いて花開くまでの時間|下関弾丸訪問記

下関。

九州移住ドラフト2020-2021で1位に指名を頂き、その後コロナ禍の中でたびたび通っていた街。以前のnoteでも記したように、ここは母方の祖母にゆかりのある街。今回、移住ドラフトでご指名頂いたミユキ姉さんにお声がけを頂き、2年ぶりに娘氏を連れて弾丸訪問をしてきた。

と言っても、福岡から在来線特急「ソニック」と小倉から鈍行に乗り継いでも1時間程度。娘氏は駅で買った苺大福をかぶりつきながら、ちょっとしてたらあっという間に着く。

今回はその下関訪問(2024年2月3日)の記録と感じたことをまとめておきたい。

なお、移住ドラフト指名当時の私の心の動きはこちらのnoteにまとめている。

街再生の鍵は大プロジェクトと小商い?

福岡から電車を乗り継いで1時間。下関駅に到着。2年ぶりの訪問だが、下関駅を彩るふぐ提灯の景色は変わらない。娘氏はそれを見てかつて何回か来たことがあるこの街を思い出したようだ。

娘氏撮影。下関駅にて。

今回娘氏を連れて行ったのはやむを得ない理由があった。妻氏ライブ参戦のため。と同時に、この1週間学級閉鎖でどこにも連れて行けず、体力が有り余っている彼女を連れ出すことで気分転換にもなるだろうと。が、彼女は誰に似たのか出不精。そこで「下関で海鮮丼食べよう」と連れ出すことにした。

ランチは「おかもと」の海鮮丼。これで1,100円。

ランチは下関駅近くの知る人ぞ知る名店「おかもと」。観光地に唐戸周辺に行けば1.5倍、いや倍は知るかもしれない海鮮丼を頂く。娘氏は大好きなマグロ丼を食べて大満足。

食事後、車で迎えに来て頂いたミユキ姉さんと、今回諸々施設をご案内頂く橋本さんと一緒に歓楽街の豊前田周辺を探索することに。

今回訪問の主な舞台はここ。

聞けば橋本さんは不動産業を家業とし、しばらくは仕事と家庭(5人のお子さんのお母さん!)とで忙しくされていたそう。そんな中、ある時を境に下関をより魅力ある元気な街にしたいと、自社物件を使って人々が集まるコミュニティスペースにし、あっという間に複数の物件をリノベーション。ARCHというブランドを付して展開を始めたという。

レンタルスペースでポップアップ洋菓子店オープン!

この日はたまたまARCH豊前田でポップアップ洋菓子店がオープンした日。そこでお菓子を食べながらしばしミーティングをすることにした。

私はひとしきり話を伺い、橋本さんの想いもさることながら、私もこの2年の間に各地を巡り、見聞きしてきたコトや人を思い出して話をした。

地域のことをジブンゴトとして考えられる人はその地域に生まれ育った人。小さくとも商売を興す人がたくさん出てくることで街が潤う。企業に勤めて一定の収入を得ることと並行して、自分ができる範囲で小商いをすることで人と人が繋がっていく。特に女性はそういう働き方をする、手仕事を得意とされる方が多い。あとは場ができれば花開くと。

そんなことを話していると、あっという間に洋菓子は売り切れ。洋菓子店オーナーも私たちの話に耳を傾けながら大きく頷かれる。

車で数分。長門町のスペース。

さらに移動して別の物件を視察。丘に張り付くように延びていく道路沿いに整然と並ぶ民家。かつてはここに人々の生活があったのだろう。

その元店舗をまとめて買い上げてリノベーションしたのが長門町のスペース。まだ具体的な利用方法は見えていないようだが、諸々条件が揃えばここを使ってポップアップストアができる。ちょっとした勉強会も開ける。とにかく要石のように、人が集まる場所を作っていく。ここは不動産業を営むプロだからできる芸当でもあるのかもしれない。

海峡タワーを望む。

今、下関では唐戸に某有名リゾート企業の進出が決まり、「観光」による街づくりが進んでいる。一方、スタートアップ支援も行われてはきたが、必ずしも成果を得ているとは言い難い状況で、民間レベルで小商いと人々の連携を通じて「暮らす街」としてどうリ・デザインしていくかという動きも見えつつある。

曲がりなりにもコツコツと積み上げてきたことが繋がっていく感覚。まだまだ課題はあるが、移住ドラフトすぐにできなかった何かができるかもしれないという手応えを得た。

アントレプレナーシップ教育が持つ可能性|改めて考えさせられた

そうこうしていたら、「ぜひ先生に会わせたい人がいる!」と言われて次の場所に向かった。車で5分、10分ほどだろうか。向かった先には長年オープンスクールを営まれている前田さんと、教育を中心に市議会議員として活動されている東条さん、そして節分パーティーを準備していた4人の高校生がいた。

ここは「kananowa」というNPO法人の事務所。山口県内でもさまざまな場所で評価され、表彰をたびたび受けておられる。ここにもあるように、「必ずしも恵まれていない環境にある親子を支援することを目的に放課後や夏休みなどにほぼ毎日、前田代表の自宅や学校などで勉強会を開催。教員を含む地域の大人や、自身もそこで学んだ高校生、大学生らが子どもたちに勉強を教えたり、食事を提供したりしている」のだという。

そこで私は今進めている「スプラウト」の話をする。地域でビジネスを興す意義、働くことにどんな意味を持たせるか。個人が持つアントレプレナーシップから始まって、1人ではできないことを協力して多くの人と続けていくこと。ビジネスにはたくさんの可能性があるのだと。

未来ある子どもたちの前でプレゼン

しかし、このとき私はまだ気づいていなかった。本当の意味でここでお引き合わせ頂いた理由を。気づけばタイムリミットが迫っていく。本当に申し訳ないことをした。

そんな中で前田さんから「Kananowa」の話と、高校生から自分たちが興したい事業について話を聞いた。特に後者は高校生はフードロスを無くし、地域のお年寄りなどに仕入れて加工した調理した品物を宅配するというビジネス。こうしたビジネスは大学生からもよくある社会課題の解決方法として提示されるものだ。しかも、人件費ゼロでやりますと。

じゃあ、得た利益はどうするかと聞けば、先に前田さんからも伺ったように、ここにいる子どもの夢や目標を支援するために使うのだと。

本当に素晴らしい発想だ。「Kananowa」に集まる子どもたちはまるで大きな家族であるかのように支え合い、仲間のためにできることは何かを考えていく。その姿が目に浮かんだ。

しかし、一方で、単価が安過ぎるビジネス、食品ロス(とは言え、しっかりとした企業さんからの寄付や低価での販売をもとに仕入れる)解決でコストもかかりませんという事業は持続し得ない。いくら目的は崇高なものであっても、それを目的に作る株式会社が持続可能かどうかは問わねばならない。しかも、会社設立経費は安くはないし、「将来経営者になりたい」と語っていたとしても、実際に社長になればかかるプレッシャーの大きさは創業体験プログラムを見ていればよくわかる。

が、果たしてこれで良かったのだろうか。下関から戻る車中で改めてふりかえりをした。もっと適切な言い方やアイデアがあったのではないかと。

それでも、ここにあったのは子どもたちに寄り添いながら、その可能性を引き出していこうという愛情がある教育だ。単に「将来は社長になりたい」という夢を叶えるためだけでなく、その先にはここに集う子どもたちの未来への可能性と繋がっている。そうした他者を思いやり,自分だけでなく,周りとの連携の中で仲間を支えていく。まさに,アントレプレナーシップとコレクティブ・ジーニアスが発揮されている。

そう考えた時に、アントレプレナーシップ教育でできることはまだまだあるのではないか。事業を興すということの意味をもっと多義的に考えても良いのではないか。今回の訪問は突然降って湧いたものだけど、まだまだ可能性はあるのではないか。そんなことを強く感じた時間だった。

ふりかえり

話を終えて車に飛び乗り,走ること10分も立たずに下関駅に戻った。そこからはそそくさと駆け足でホームへ向かう。久しぶりあるいは初めての出会いだったのに,ゆっくり挨拶を交わすこともなくバタバタと福岡に向かって帰ることになった。

帰りの車中でもこの日あった出来事をふりかえりつつ,自分がここまで積み上げてきたものの価値,アントレプレナーシップ教育にできること,時間がないことを言い訳に十分な解を見出してあげられなかったことなどが頭をグルグルと回っていた。

聞けば下関で出会った4人のパワフルな女性たちは,そのあとも「kawanowa」で高校生たちと熱い議論を交わしていた模様。そして,夕方から夜にかけては節分で集まった子どもたちの明るい笑顔がSNSで見ることができた。

これはアプローチの違いだと言ってしまえばそれまでだが,このタイミングで下関に行ったことは自分の中での棚卸しになったのかもしれない。2023年度各都市で拡張した「スプラウト」は2024年度にさらに南九州の各都市で実施する見込みであり,この数日頭の中ではそれをどうマネジメント,コントロールしながら,利害関係者のバランスを取ることばかりを考えていた。

とある町の総合計画に組み入れられた「アントレプレナーシップ教育」。

が,目の前には機会がある。自分に見えている機会がある。それをムザムザと逃してしまって良いのだろうかと前のめりになってしまっている自分がいることもわかる。

下関にご縁を頂いて2年。ここに来てみゆき姉さんから声がかかったのは何かの暗示であるに違いない。それは,実は下関だけでなく,2024年度に「スプラウト」が拡張していく各地においても同じことだ。その場では答えを出せなくても,現地に足を運び膝詰めでプレゼンをし,その後もSNSで活動を紹介し続け,自分の立場が少しずつ変わっていく中で,実は必要とされていることがわかっていく。

資源が十分ではない,私自身の人望がないがゆえに,この社会的に意味があると考えられる取り組みがどこまで広がっていくのだろうか。齢50歳を前にして,いよいよ持って自分の持ってる能力が試されている気がしてならない。

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