見出し画像

まちの余白をどう染めていくか

緊急事態宣言が発令されて1ヶ月。そして延長。状況は理解できるとは言え、そうそう我慢は続かない。イライラが溜まるところですね。

私立大学は入試が始まり、本格的に春休みになりました。例年であれば、他大学との交流のため合宿に出かけたり、3年生の「社会課題をビジネスで解決するプロジェクト」の最終盤を迎える時期ですが、状況が状況だけになかなか難しく。その一方で、「九州移住ドラフト」やそれに関連する案件で、福岡の外に出て、この目で確かめてようやく動けるようなものもあって、一刻も早く始動したい。家にいてもWebで情報をかき集めるばかりで、気忙しい。

そのような中で、この2月に入ってから、ドラフト1位で指名頂いた下関に2回、それ以前からご縁を頂いていた日田に1回行ってきた。今回は2月8日と9日に訪問した2つのまちの訪問まとめ。

なお、下関への初めての訪問記は以下のリンクからどうぞ!

教育を通じて街に誇りを!:日田編

今回は、一般社団法人NINAUの代表理事で、日田駅2階にあるカフェとゲストハウスENTOのオーナーでいらっしゃる岡野涼子さんにお声かけを頂いた。一昨年に本学で開催したイベントにご参加頂いたことでご縁を頂いたが、1月のある日に「先生!日田に学生さん連れてフィールドワークしに来てください!」と連絡があった。

岡野さんは、大学生時から地元・日田のために何かできることはないかと考え、テレビ局でのレポーター、大学でのキャリアコンサルタントという道を通じて、日田に戻られたそうだ。日田では高校1年生の教育機会として、ホールに市内各高校の生徒を集めて街のあり方を議論する場を作ったり、小中学校に地元企業の経営者に授業してもらう場を作って、教育を通じた街づくり、日田という街に誇りを持ってもらおうという取り組みをされている。

お声がけを頂いたのは緊急事態宣言が福岡に発令された直後だったので、それが明ける見込みの2/8にお会いしましょうということにした。

画像1

日田駅の正面。「I」に人が入るとHITAになる。

当日は声がけをした学生7名(大分に帰省していた学生2名を含む)と社会人2名が同行。日田駅前の商店街を中心にその様子を伺った。

画像2

日田駅2階に作られたENTOのカフェスペース。真下にディーゼルカーが走る。

ENTOは日田駅2階に作られたカフェとゲストハウスで、40年近く放置されていた駅舎2階のスペースを官民連携でリノベーションしている。

同行した学生たちは入るや否や歓声をあげ、普段福岡でカフェ巡りを趣味にしている女子学生は「かわいい」を連発。ところどころに日田の名産である日田杉が使われており、くつろげるスペースになっている。

画像3

日田駅前交差点の様子

日田駅前には大きな広場が作られており、ここでは岡野さんの団体が主となって高校生たちに縁日を運営してもらうなどの活動をする場になっている。また、日田は『進撃の巨人』の作者の出身地であることもあって、ここに巨人のオブジェができることになっているそうだ。まさに聖地。

商店街はシャッターが閉じている店舗が散見される。交差点の角地にはドラッグストアがあるが、ここは元々スーパーでお年寄りたちがどこからともなく集まって話をするスペースがあったそうだ。そのお年寄りたちはどこに行ったのだろう。

その駅近くに岡野さんの事務所はある。

画像4

右が事務所、左が元美容室の空き店舗

NINAUの事務所でFLAGと名付けられたこの場所は、Webによれば日田に住む人たちの活動スペースとして利用可能。残念ながらCOVID-19の影響で難しい面もあるが、人が集まる場所を創りたいという想いを最初に形にした場所だ。

そして、今回の訪問の目的は向かって左の空き店舗の利活用についての相談だった。聞けば、ここをあらゆる人のチャレンジする場所にしたいとのこと。現時点で決まっているのは、ここに商店街の各店舗が売る惣菜などを一括で買える場所にする、高校生がアイデアを出してチャレンジショップをするということ。そして、2階は自由にリノベして良いと言われたことから活動を始めた某大学の学生が壁塗りをしただけの状態になっており、屋上も使える。なお、先程の駅前交差点の写真はそこから撮影したもの。

画像5

学生とのミーティングの様子

で、私たちにはこのロケーションで何かやれませんかというご提案を頂いた。岡野さん曰く、「今はパッとしない商店街だけど、FLAGと合わせてこの2店舗分のスペースで何かやってるぞって見えることで、人が集まるようになるかもしれない」と。確かに、(失礼だけど)お昼どきの駅前には人がほとんど歩いていなかった。眩しいほどの太陽と広い空、強く吹き付ける冷たい風が印象的だった。

が、スペースを見、岡野さんからの話を聞いて興奮気味たちの学生。岡野さんとの対話では多くの気づきを得られたようだ。

特に衝撃的に受け止めていたのは、日田には大学はもちろん、専門学校がないので進学するとなると自動的に日田市外に出ざるを得ないということ。18歳人口の実に9割が市外へ出てしまう。しかも、そうした人たちはほとんどがそのまま就職することになる。日田に戻ろうにも(仕事がないから)戻れない。これまで多くの地方で聞いた話だ。

しかも、今回ここに参加した学生は皆大学周辺で1人暮らしをしており、自分の街と照らし合わせてリアリティがある話に聞こえたようだ。

自分たちが高校生のロールモデルになる。

女子商での授業を通じて培ってきたゼミの理念のようなものとの共通点が見出せた。

ここからイメージを膨らませて頂いたお題をしっかりと検討する。まずはここから。一足飛びに「カフェ」を創るというところまではいけないだろうが、一歩踏み出すことが重要。無理をせず、まずは小さく一歩を踏み出すことで見えてくることもあろうだろう。できれば3月末。進めていきましょう。

ただいまと言われる場所ができた:下関編

翌日は朝から下関に向かった。前回同様、ソニックで小倉、JRで下関に向かう。

前回と違うのはここから街歩きをしたこと。今回は中心部にある2つの商店街(グリーンモール商店街と唐戸商店街)をフィールドワークすることにした。

リトル・釜山:グリーンモール商店街
下関駅を出ると目の前にゲートが見える。グリーンモール商店街への入り口だ。

画像6

下関と釜山は深い歴史的なつながりがある

駅周辺には釜山への国際航路がある国際フェリーターミナルが位置している。まだ関門トンネルが開通していなかった頃は、ここから門司へ船で渡っていたこともあり、駅と港がほぼ隣接している。太平洋戦争終結後には、戦時中に日本に渡ってきた人々が朝鮮半島に戻ろうとして下関に来たものの、朝鮮戦争勃発のために帰れなくなってしまい、そのまま下関に住むことになった方もおられたようだ。

画像7

韓国食材店が並ぶグリーンモール商店街

そういう歴史的経緯もあり、ここにはリトル・プサンと呼ばれる商店街が形成されていった。この界隈を調査したある学生の卒業論文がネットにあったので読んだが、現在この地で商売を続けておられる大半はそうして日本に住むようになった2代目が多く、3代目以降の後継もないという事例が多いようだ。

画像8

街に立ち並ぶビルは昭和30年代ごろに建てられたのであろうものが多く、往時を偲ばせるものになっている。中にはほとんど空きビルになっているようなものもあり、あと10年、20年すると風化していくのだろうか。ひっそりと静かな街だった。

画像9

ただ、こうした古い街にも少しずつ新しい商売を始めようという動きがあるよう。とぼとぼと歩いていると女性が出てくるお店を発見。この古い家屋には必ずしも似つかわしくないお店。向かって左はフルーツサンドを販売するRoom:105、中央は中国茶や紅茶専門店のcafe ホトリ。いずれもSNSに映える写真を載せておられて、前者は唐戸地区にも新たにたい焼き屋を出店するなど、積極的に運営されているようだ。今度訪問時に行ってみたいお店。

画像10

ランチは、今回ドラフトで指名して頂いた球団の方からのリコメンドで、グリーンモールから少し外れた駅近くのおかもとで。魚屋が営む食堂的雰囲気のお店。「ランチ」的なものは見当たらなかったので、ここではお店の人のオススメに従い海鮮丼(1,000円)を頂く。

唐戸商店街〜唐戸市場〜uzuhouse
お腹を満たしたところで、ここからは海岸線に沿って唐戸方面に歩くことにした。

駅から20分ほど歩くと、下関市役所に到着。この周辺には古い洋館がいくつか残されており、明治以降外国への玄関口として栄えてきた歴史を偲ばせる。そこに広がる商店街が唐戸商店街。

唐戸商店街/唐戸市場の様子は動画でどうぞ

火曜日の昼に訪問したが、商店街のお店はほとんどシャッターが下りている状態(飲食店も火曜日休業というお店がいくつかあったので、たまたま休みだったのかもしれないが)。中には商店街の再開発事業の一環で作られたモールのようなものもあったが、正直言って厳しい状況。

ただ、動画中盤で出てくる商店街内にあった和菓子屋さんには奥様方で人だかりができていて、私もついつい蓬餅を購入してしまいました。こういうお店がこれから無くなっていくのかもしれないと思うと複雑な気持ちになりますね。

商店街を抜け、唐戸市場を経て、今回の目的地であるuzuhouseへ再び。下関駅からは40分、市役所からは20分ほど歩き回った。

画像11

再び来ましたuzuhouse

着くとドラフトで指名頂いたuzuhouseのオーナーがたまたまおられ、さらにはお店の看板娘には「お帰りなさい!」と言ってもらえて、とても嬉しい気持ちになりました。

先程購入した蓬餅とuzuhouseでコーヒーを頂きながら、仕事をしつつ、小一時間ほど過ごしました。

その間も引っ切りなしに人が入ってきて、地元の奥様方がお子さん連れでお茶を楽しみに来ているよう。外から来た私からすると地元の情報をたくさん収集できる場所にもなっている。HUBのような場所。

そして、ここで予期していなかった出会いが。

以前もチラッと書いたように、私の母方の祖母は角島の入り口にある阿川という小さな集落の出身。そこには駅舎にカフェを併設した施設が生まれた。

以前から一度伺いたいと思っていたんだけれども、なんとそのオーナーがuzuhouseに来ているという僥倖。15分、20分ほどお話したが、とても気さくな方。ちょうど宮崎に旅行に行かれるとのことで、JR九州内での安い切符の買い方をレクチャーしてしまった。萩でゲストハウスを運営されているとのことなので、落ち着いたらぜひお伺いしたい。

帰りはフェリーで門司へ
しばしの滞在の後、今回はフェリーで門司港に渡り福岡へ戻ることにした。わずか5分ほどの旅。

画像12

斜めになってしまってますが、下関側を臨む景色。中央左にあるマンション群の左、凸型の建物がuzuhouseです。

画像13

フェリーを降りるとそこは門司港駅。重要文化財に指定された駅舎は改修を終えて、その威容を改めて示すことに。

画像14

下関から船で渡って九州各地に向かう人たちはここを起点にしていた

ここも今は人があまり歩かない場所になってしまったけど、明治維新から太平洋戦争終結までの重要な歴史遺産が残されている。かつてJRの特急はほとんどここを起点にしていたし、国鉄分割民営化後のJR九州もしばらくここに本社を置いていた。その建物も依然として残されている。

が、今ではその役割も同じ市内で言えば小倉、九州内で言えば福岡に移ってしまっていて、ここに人が住み続ける理由を見出すのが難しくなりつつある。うむ。

この2日間の小旅行を通じて

この2日間の旅では全く異なる歴史的背景を持つ街を訪れた。

人口増加期に作られたレガシーをどのように活用するか。時代に取り残されてしまった(しまいつつある)資源をいかに現代的に再解釈し直すか。単に「地方創生」という言葉だけでは片付けられない現実を改めて認識することになった。

こう朽ちていく街を見ていくと、その様子に圧倒されてしまって何も思考できなくなってしまうような気がして、そこに息を吹き込み直すというのはなかなか難しいことだと認識させられる。もちろん、元に戻そうだなんてことを考えているわけではないし、そもそもそれは街の人の意思によるものだから、余所者の私がどうこうしようということでもない。

以前、このnoteで静岡県で市民参加型の図書館「さんかく」を運営されて入る方の記事を拝読し、「この方法があるか!」と得心した。

そこで、この方が勧められていた『都市をたたむ』という本があるのだけれども、ここに出てきた「メッシュ化した街」という考え方には学ぶことが多かった。これを読んでから2つの街を訪れるとまた違った視点が見えてきたのかもしれないが、改めて賑わいが失われた街をこれまでの方法に則って「再生」させようという難しさを感じた。

そういえば、以前岡山の問屋町を訪問したときにこんな話を聞いてきたんだった。

まちづくりのステップは次の6つから構成される。

①エリアを設定する。
②キャラクターを発掘する。
③グランドデザインを描く。
④コンテンツを創造する。
⑤アンカーを打つ。
⑥エリアの価値を高める。

確かに今回見てきた2つのまちではプレイヤー(キャラクター)が存在するし、それぞれ形になる何かを創り出したことでアンカーが打てている。では、この動きをいかにして広げていくか。それがエリアの価値となる。

とは言え、『都市をたたむ』でも言及されているように、戦後の人口増加期(この150年ほどで人口が倍になったのが日本)に都市を拡大しなければならなかった時期を経て、実は元の状態に戻りつつあるという認識をしても良いのではないかということ。確かに人の数が減ることは寂しいことだけれども、そこでいかに自立可能な社会、生活を作り出していくかを考えていきたい。

一昨年のゼミ合宿は宮崎県日南市を訪問した。そこでの一通りのイベントを終えると学生の一部はそそくさと福岡へ戻っていった。その一方で、同行した一部の学生とはともにさらに南下して串間へ向かった。

その時にも記したように、目に見える豊かさと目に見えない豊かさみたいなことを考えてきたのだけれども、今回の旅でもそこに改めて戻ることになった。

そこに住む人たちの幸せはどのようにして形作られていくのだろうか。

そこで働くことができなかった=「席がなかった人が外に出ていく」から、高度成長期以降は「積極的に外に出ていく」人が増えていく中で、いかにその人に適合的な席を作ることができるか。これもそれぞれ個人の意思によることなんだけれども、故郷を持たない私にとって故郷があることそのものが魅力的に見えるし、そこで価値を生み出す仕事を創れる人材を育てていくことが改めて私の仕事になるのかなぁ。時間がかかるなぁ。自分もプレイヤーになりたいなぁ。

何もない余白をどう染め上げていくか。会計学者ができることには限りがあるけれども、何かできそうなことをやりたいし、今回の出会いがそれを作り出すきっかけにできればと思った次第。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?