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「良いものは良い」が、良いと説明し過ぎてはいけない

この夏休みくらいから、いつの間にかいろいろなご相談を頂くようになった。自分自身はただ単に街を見に、そこで暮らしている人に興味があって足を運んでいるのだけなんだけれども。特に専門家であるわけでもないし、ビジネスの経験があるわけではない。でも、そういうご相談を頂けることで学びが増えることが楽しい。ただ、そこからさらに一歩、まだできることをがあるはず。それをできるようになりたい。

さて、今日は車を走らせて郊外へ。以前から訪れているし、妻氏の友人もいることもあり、個人的には落ち着いた雰囲気と良い食事が楽しめる街として好きな街だ。

この街は交通の要衝で、江戸時代までは城下町、以後は日本茶、提灯、日本酒などのさまざまな「伝統的な産業」が集約した商業地として大きく栄えた。福岡県内にはいくつかそのような街があるけれども、吉井を擁するうきは市も似たような雰囲気。

最近、忙しいこともあってなかなか訪れることができなかったのだけれども、とあることをキッカケに訪問することにした。そこでちょっとした違和感が。

こんなに説明的だったっけ?こんなにああだ、こうだという店だったっけ?

確かに良いものが置いてあるんだけれども、窮屈そうにたくさんのモノが並んでいるのを見てしまうと不思議な気持ちに苛まれた。疲れたというか。

1つ1つは良いものなのだから、そこまで説明を必要とするようには思わない。そのモノをわかってもらいたい、知ってもらいたいから、自分たちの理念を掲げ、来店客にそれを語りかけ(もちろん強制的ではない)、ストーリーと合わせて購入する。これはあくまでも私自身が穿った見方をしているからだろう。

知ってもらいたいから、「ああだこうだ」と表現したくなってしまう。果たして、それは本当に正しい姿なのだろうか。良いものは良い。そこまで説明しなければ顧客は本当に買わないのか。なんでわざわざ説明しなければならないのか。もしかしたら、消費社会からの脱却を謳いながら、別の形での消費を促しているに過ぎないのではないか

SDGsだって、エシカル(倫理的)な消費もそんなに大きくは変わらないかもしれない。環境負荷をどれだけ下げても、私たちが求めているのは自分が望む生活のあり方の実現なのだろう。ファッションの延長線上にあるものかもしれない。恐らく「普通の生活」を謳っているのに、説明的であるが故に伝わらない。どっかで目にする話だ。

モノやサービスを消費し続けることで「良い」を見抜く審美眼のようなものをこの消費社会で私たちは失ってしまったのではないのか。なぜブーム的な動きと連携させなければならないのか。ビジネスとする以上、カネを稼がねば次に進めないといつも教えている自分がこんなことを言うのは不思議でたまらない。各地で創られている新しい地方におけるビジネスのあり方を見ていて、優れた社会観、世界観を実現できていることに尊敬する。楽しいし、学びが多い。けれども、今日持った違和感は大切にしたい。

説明的であり過ぎてはいけない。わかりやすいのは良くない。

生活に溶け込んで使われて来た良いモノを、わざわざ説明しないと購入できないというのは顧客の購買行動として果たして自然なのだろうか?

こういうのはいかにも都市的で私にはめちゃくちゃ違和感がある。

ここ最近、地方都市にある「余白」や「緩やかな時間」に興味を持っている。

この夏に過ごしたいくつかの街で得られた経験は素晴らしいものだった。だから、また行きたい。「何もない」のではなくて何かあるし、そこにヒトがいるからこそ、また会いたくなる。ヒトの持つ価値に気づけるのは、実際にそこに行って会って話をしているからこそわかるもの。単純に商品を仕入れに行って、学祭やイベントで販売するというのも違う。モノを動かす、ヒトを動かすことでカネを落とすということではない。良いモノは良い。価値がわかる人に売る。

上から目線とかそういうことではなく、本来生活に則したモノであれば、その良さを伝えなくても自然に使われているはずではないのか。なぜ、わざわざディスプレイして「私たちはこんなに良いモノを取り扱っているのですよ」としなければならないのか。そこに行って確かめればわかる話。

残る違和感。そして、改めて気付いた自分の価値観。

どうも世の中が良しとすることを全て受け入れることができない性分。だから宜しくない。いや、これは多分次に行けというお知らせなんだと思う。見方を変えろ、引っ張られるなという暗示。

一体何をしたいのだろうか。次に湧き出てくるキーワードはなんなのだろうか。しばらくはこの「余白」を楽しむことにしようか。

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