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価値を提供しようとした経験

まとまりがなく稚拙な文章であるなとしみじみ思った。         成長と変化の奇跡として、そしてもし読んでくれる人がいたら、自分と向き合い変化していく感覚を共有してもらい、少しでも役立てたら嬉しい。

価値観を見直した。そこから仕事の目的を決めるという段階に移行するのはいささか突飛に感じてしまう。そこで価値を提供しようとした経験を振り返ってみようというワークに取り組んでみよう。

価値を提供しようとした事がそもそもあったのか? 

はい、自分の両親は比較的若くして結婚し一族で一番の子供であった。物心つく頃から与られそれが当たり前のように思っていた。人に心から感謝する事もあまりなく施す事もなく、テイカーというにふさわしい。

それは成長するにつれて通用しなくなる。思春期に差し掛かり人に好かれたいと思っても好かれず周りにから魅力的な人はどんどん減っていく。今思うと当然のことだ。人気者になるひとは人を喜ばせたり楽しませたり何らかの価値を提供している。そんな事がわからなかった。なので残念ながら価値を提供しようとした経験がない・・・・・

記憶を振り絞って。自分のため、打算的、何となく、していた事が結果的に価値を提供していたかもしれない事はあった。

大学の時、看護科の後輩を自分が代表をしていたサークルに誘った。単に人数が少なかった、可愛かった、華があった方が楽しそう、という理由であったが。「あの時誘ってくれて本当にありがとうございます、いろいろ行き詰まっていたときで、参加したらとても楽しかって、助かったんです」と感謝された事があった。  他には「あの笑い声を聞いていると気が楽になる」「見てたらなんかもういいやって思えて」とか言われたこともあった、逆に鼻につく人も多いと思うが。

何気なく楽しそうだからやろうよみたいな、何の下心(可愛かったというのは下心かもしれないが)もない自然な振る舞い。自分が感謝するときというのはどういうときだろう。感謝しないときはどんなときだろう。

価値の押し売りになっていないか?

何だろう、価値を提供しようと思ってやった行為は、押し付けがましいのか逆に疎まれる事が多かったように思う。

今日、最近知り合った医師と初ランチに行ったとき「バイトないかな〜」と言っていたので。価値提供のチャンス!と思い「知り合い紹介しますよ!」と少し食い気味に提案してみた。すると警戒された。裏側には打算があったのだろう、人はそれを容易に見抜く。

さらに今日、中古車屋から突如ラインがきた。「車の調子はいかがですか?何かありましたら連絡ください、よろしくお願いします!」と・・・「持って行ったら、この部品変えたほうがいい、とか言われそう」と感じてしまった。商売なのは解っている、これまでの振る舞いからそう思ってしまったんだなと。

少し話がずれてしまった。価値を提供するというのは簡単なようですごく難しい、逆も然り。相手の状況、関係性にも大きく左右される。  

先月の収入を見ると常勤時の4分の1になっていた。これから住民税の支払いや確定申告もある。コロナでバイトも激減、さらに収入は低下するだろう。身の振り方も決まらない。でもここが正念場、恐怖と欲に負けて目先の利に飛びついてしまっては同じ事を繰り返すだけだ。価値観を無視した妥協の人生になってしまう。悔いのない人生をおくりたい。   

自分の価値観と関連づけるなら「好奇心」や「快感」に基づいた自分の行動がいろんな制約にがんじがらめになっている人に「自由」「快感」を感じさせ「気を楽にする」という価値を提供できるのかもしれない。


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