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今ならPTSDの意味がわかる気がする:台風14号を前に

あまり時間がないのでスマートフォンから走り書きしています。

ただいま2022年9月17日、九州地区は台風14号の接近に伴い厳戒態勢である。当然、九州のほぼ真ん中にある小宮山の居住村、椎葉村も最大限の警戒をはらっている。

このレベルの危機感は、2年前の台風10号…つまり、あの甚大な被害を伴い安否不明者4名が出てしまった日々以来だ。

2020年の9月、僕は新規図書館の立ち上げオープンを7月18日に終え、多少はその疲れも癒えてきたというような日々をおくっていた。安穏とした秋をむかえようという椎葉村の日々を、根底から覆したのが台風10号だった。

通過直後の朝、まだ被害の全容がわからぬまま僕は消防団の一員として土砂の撤去に出動した。「全容がわからぬまま」と書いたが、早朝から作業にあたろうとしていた僕たちはそんなに大きな崩落や行方不明者が出ていたという情報はキャッチしていなかった。僕が初めて件の下福良の土砂崩れの様子をみたのは、雨で濡れたレンズでぼんやりとしか撮れていない、地元の方が撮影した写真がラインで送られてきたときのことだ。

午前10時を過ぎた頃のことだったろうか、スマートフォンにたくさんの電話が寄せられた。身内からの心配の電話はもちろんだが、それにも増して多かったのは新聞やテレビからの電話だ。複数社。ほんとうに複数社。村に住む一個人にすぎない僕の元に、災害のことについて聞きたいという電話が来ていた。僕が「はい、はい、えぇ!もうすごい土砂崩れで!行方不明者もいてですね、そりゃもうすごくて。はい、はい、怖いですよそりゃあ」とでも言うと思ったのだろうか。

Katerieやぶん文Bun立ち上げ時の取材で連絡先を交換していたからであろうか。だから私をある種の公人のように思ったのだろうか。それは全くの間違いだし、そのおかげで僕はめっきり疲弊してしまった。眼の前の土砂、死者の予感、鳴り響く電話、不躾な質問メール。

中には「〜新聞の方に勝手ながらお電話番号を伝えておきましたので対応お願いします!」という馬鹿ライターもいた。お前のこと、絶対忘れないからな。それが不快だとか謝罪がほしいとか今後の改善に期待するとか、そういった全てはどうでもいい。ただ、俺はお前のことを絶対に忘れない。それだけだ。

……このように僕は書いているが、きっちりと現地で取材をしながら椎葉村の様子を報道し、そのなかで村の様子や人々の疲れ具合に心を痛めながら仕事を遂行していた記者さんがいることも当然ながら知っている。たとえば、A新聞社の記者さんの姿勢と報道記事、取材対象への配慮には大きな敬意をもっている。

こうしたメディアの一斉取材に晒されたことは、僕自身が「被災地に住んでいる」ことを決定的に明らめることとなった。次々と伝わる自分の連絡先、名も知らぬ電話元、繰り返される質問。こうした一連の馬鹿騒ぎは僕が安寧とは遠い世界に踏み入っていることを決定づけ、徹底的なまでに「被災地意識」を植え付けたものだ。

そして極めつけは、行方不明者の捜索だ。

消防団の一員として崖を降り河川に入り土砂を掘った何十時間。僕たちは「いつ死と邂逅するやもしれない」状況におき続けられた。いや正確にいえば、僕たちはずっと死のなかを泳いでいたのだ。冷え切った身体で半身を浸からせながら歩いたあの濁流は、ほんのちょっと前に行方不明者の方々を飲み込んだそれと同じなのだ。僕たちはあくまで共時的に、悲劇の一幕として死の川を泳ぎ、そしてマスメディアのカメラにさらされ続けていた。

僕の大学での専門は死生学だった。象徴的な意味での死や、死のレトリックにおいて多くを読み・語り続けていた僕だったが、もしかするとそのせいもあって死との狭間に対する鋭敏さが不必要なまでに研がれていたのかもしれない。

もう一つ、死の川について書いておく。

台風が通過したあとの濁流をどうしても渡らなければならないシーンがあって、僕たちは対岸にロープを渡してそれにしがみつくような格好で渡河する方法を選んだ。

「しがみつく」と言ったって、成人男性が普通に力を込めていれば大丈夫。僕よりもずっと非力な人だって普通に渡っていた。

しかしいざ僕が渡るというとき、僕は川の底で何かに足をすくわれ、転んでしまったのだ。僕は頭まで水につかり、一度水中で完全に身体が浮いてしまった。あのときロープから手を離していたら、僕は恰好の第二の餌食として死の川の藻屑となっていたのだろう。僕がポケットに入れていたペットボトルと、消防団の階級章がそのとき流されていった。まるで儀式的供物のように。

しかしながら僕は、その川の中でより大きなものを損なってしまったように思う。僕は死の川の真ん中で、ある意味で凄まじく死に近接したのだ。水中で身体が浮いたとき、僕は川底までクリアに見通せたような気がする。あの茶色く変色した濁流の中で見渡せるはずのない世界が、僕には見えていた。あるいはそれは、本来の水深以上に深いビジョンだったのかもしれない。

僕はその瞬間に、絶対的に大きな何かを損なった。

*****

あれから2年が経ち、台風14号が九州へ迫っている。最大限の警戒は、まさに僕のなかの何かが損なわれたあの台風の再来を思わせる。

「また、ああなってしまうんじゃないか」

こう考えただけで、胸の空洞が限度を超えて大きくなる。息が詰まるという境界を過ぎて、僕は車止めブロックを肺の中に詰め込まれたみたいな気持ちになる。絶望的に息ができない、消防団の服をみるだけであの川底を思い出す、出動の気配が無思慮な者共からの電話で震えるスマートフォンを連想させる。

僕は「これがPTSDなのか」と、今なら思える。

ある程度のメンタルヘルス要素を乗り越える鍛錬はしてきたつもりだ。朝6時から激詰めされる営業部門にいたこともあるし、連日朝3時まで仕事をしても終わらない部門にいたこともある。反省に次ぐ反省をしなければならない状況で謝罪の権化となったこともある。恋愛関係のいざこざで、圧倒的に自分が悪い立場でどうしようもなく惨めな気持ちで土下座したこともある。

そんな状況に置かれても、誰かと相談するとか笑い飛ばすとか、論理的に迂回するとか、あるいは徹底的に泥酔するとか(すみません)、なんだかんだのコーピングを講じて僕はここまでやってきた。

しかし、今回はどうにもならない気がする。はっきり言って、身体というか心というか、何と指せばわからない箇所にずんぐりとした不安が居座っているのは初めての経験だ。

そして何より「自分が犯した過ちによらない」というのが最も辛い部分だ。天変地異、自然災害、神のみぞ知る不幸の顛末。

なぜこんなに美しく良き村を襲うのか。移住して四年目、愛すべき土地を襲った悲劇を憎んで憎んで憎もうとしても一体誰を責めればいいのかわからない。涙の行き先を思い描くよすがすらない。僕たちはただ、指示なのか思いつきなのかわからない組織なのか烏合なのかわからない者の一員として、死の川を歩き続けることしかできない。そこで何を呪おうと、その呪いは自分自身に打ちつけられるだけなのだ。

*****

風がうなり、雨は響く。

今年の台風も強そうだ。

明日の出動に備え早めに寝たいところだが、どうしても寝られなさそうだ。現在23時前、これから仕事でもしようかと思う。今日は心がざわついていて、メールにもろくに目を通せなかった(休みではありますが)。連絡が溜まっているようなので、これから取り組みます。多分。

こうして「吐き出す」ような書き方をしたのは久しぶりだ。スマートフォンでただ殴り書く。この文章は見直すこともなくアップしてしまおうと思う。

一点だけ謝るとすれば、メディアの取材について辛辣に書きすぎたような気もする。そこに何らかの職業哲学があって取材されている方がいらっしゃることを認識しているというのは先述のとおりだし、メディアもメディアで状況が掴めず大変だったところがあるのかもしれない。

それは理解する。

しかしながら、こういう災害時にしかるべき機関なり部門ではないところに取材をするのはどう考えてもありえない。

そして再度書くが、勝手に連絡先を新聞に伝えた能無しのことは絶対忘れない。絶対に。

(この村が二度とそういった取材の対象にならないことを強く祈る)

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