秘境に来たころ(椎葉村図書館を立ち上げて)
🌲辿る記憶
2023年4月24日。
24の日だ。
24という数字はいい。なにせ僕は(これはもう1,629回も書いてきたことだけれど)ジェームズ・ディーンと同じように24歳で死ぬのだと思っていたのだ。24は大好きだ。
もう34歳も近い。圧倒的に理不尽な時の流れを身に染みて感じつつ、どうだもう64歳も間近じゃないか、生きていけるじゃないかという気概も感じる。尿酸値が9.8あろうが、知ったことか。僕はいま一人ではないのだ。生きていかなくてはならない。
そのようにして34歳も近づこうという僕は、30代に入った後のすべての時間を「椎葉村民」として過ごしてきた。日本三大秘境椎葉村の、椎葉村だ。
このところ新聞の取材やテレビの取材を多くいただき(けっきょくいつも何かしらの取材を受けるこの4年であった)、椎葉村に移住したときのことを振り返ることが多い。そこからどのようにして僕が椎葉村図書館「ぶん文Bun」の立ち上げ・運営に関与していくかというのは下記の「図書館の夜を乗り越える」に詳しいところであるが、僕としてはもう一度リアルな熱量をもって当時のことを振り返りたかった。
過去を振り返る際、そこに熱量を求めるのならば手書きの文字を遡ることが最良だ。文字には心境が出る。泥酔して書いた文字は読めないとかそういう単純な話ではなく、人と出会った高揚を示す意味の文章はやはり高揚した文字で描かれているし、たとえば10年間付き合った恋人と別れた日の日記なんかは沈黙にも等しいほどに静かな文字で書かれていることだろう。
文字はその時を再現し、紙に刻んでくれる。無表情なままタイピングする「ワロタwwwwwwwおま、有名人じゃんwwwww」とは違うのだ。
そんなわけで、僕は2019年4月頃の当時の手帳を開いてみた。ノートブックといえば、僕はモレスキンしか使わないことにしている。したがって当時の手帳もMOLESKINE製で、真っ赤な手帳だった。(ここ2年は、手帳に限り高橋手帳のTORINCOシリーズを使用しているけれど)
ちなみにだけれど2019年の4月、僕はこんな顔をしていた。
・・・顔はどうでもいい。そうお思いだろうか?
・・・そうかもしれません・・・。
ひとつ言えるとするならば、本当にこんな顔をしたい心境で日々を過ごしていたというのは確かである。
🌲遡る手記
僕は椎葉村地域おこし協力隊に着任するかたちで椎葉村に移住した。2023年4月24日に現職区長が再選を決めた、東京都世田谷区からの引っ越しだ。まさに、一番の都会から一番の辺境への移動であった。
地域おこし協力隊の募集にはこうあったと記憶している。
とかなんとか・・・。魅力満載である。図書館での勤務経験がない僕でもなんとかなりそうである。手描きのポップとか練習しちゃって、本は御寄贈のものを集めて、居心地よくなるようにドリップコーヒーなんか提供しちゃいたくなる文言である。
「これからはスローライフなんすよ、ね?わかるかな君、え?」
僕は確かに、三宿のバーで朝の5時頃にラフロイグのソーダ割を飲みながらそんな講釈を垂れていたと記憶している。その相手が誰だったのか、はたして男だったか女だったか、年上だったか年下だったか、皆目見当もつかない。あのあたりは芸能関係の方々も多いので、もしかするとTOKIOの誰かにシャカセポ(釈迦に説法)なことを申し上げていたかもしれない。
とにかく深夜だ。これを書いている今も深夜である。こんな記事を書き始めたのは、キーボードを新調したからだ。新しいキーボードはアルミ合金メッキ鋼板があしら
・・・失礼した。
椎葉村に移住した当初の話。これは、椎葉村に移住して1週間が経過しようとしている当時の小宮山剛の手記である。
「今の俺」がうるさいという方が購読者の89%を占めるようですので、註釈無しバージョンを下記に再掲します。この度は今の俺が大変申し訳ございませんでした。未来の俺より。
えぇ・・・この子めっちゃ将来のこと見通してはるやん・・・。
正直に、そう思った。わずか1週間で、こんなに腹を決めていたのか。とても同じ年の春先までは三宿のバーで・・・(もう恥ずかしいから言わんでくれ)
先掲の「図書館の夜を乗り越える」にも図書館づくりについて膨大な情報を詰め込んでおいたが、2023年の今時点では下記のような情報が参考になるだろう。まさに、この当時の手記が体現される仕事が続けられてきたということがおわかりいただけるはずだ。
🌲帰る場所
「UIターンを生む図書館」
遠くて身近な椎葉村
椎葉の椎葉による椎葉のための本棚
今も訴求し続けている椎葉村図書館「ぶん文Bun」の魅力。その原点は、僕が椎葉にきてわずか1週間の時点でその萌芽が生まれていたのだ。
つまりそれは、僕の能力どうこうではなく(だって当時は図書館の「図」の字も知らない素人だから)椎葉という土地の魅力がそんな場を生み出させてくれたということを表している。もしかしたら、誰がこの任に着いても同様に素晴らしい場所が出来上がっていたのかもしれない(62%謙遜)。
「なぜ椎葉なのか」。
すなわち「椎葉で図書館を創る意義」を本気で考え始めた僕は、全国で30館の図書館を視察し「棚のおもしろさこそが地域の未来の代弁」であることを悟る。
そうした全国行脚の結果として、一冊一冊の選書に手を抜かず将来の自治体のことを見据えたコンセプトメイクとシステムづくりに尽力してくれるディレクターとして「図書館と地域をむすぶ協議会」の太田剛さんと出会う。
外へ目を向けるのと同時に椎葉の中へ目を向ければ、そこには政策課題としての「UIターン創出」があり、健気な姿で巣箱に帰り続ける帰巣本能の強い(一方で逃去性もある)ニホンミツバチがいた。ニホンミツバチをコンセプトイメージとした「飛びたて、椎葉のみつばちたち。そしていつでも、帰っておいで。」が導き出された。
僕たちは、ニホンミツバチのように可愛らしい椎葉の子ども達が将来も「かえりたい」と思うような場所づくりを続けるのだ。
そんな覚悟は、気づけば椎葉村の第6次長期総合計画における基本理念「かえりたい『郷』で生きていく。」とも足並みをそろえていた・・・。
もちろんこれは、単なる偶然ではない。
連なり続ける意志の集合だ。
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2022年3月に椎葉村地域おこし協力隊の任期を終え、僕は椎葉村役場の職員となった。三宿のバーで朝まで・・・(もうやめろ)。僕が、まさかの地方公務員だ。
性格としては向いていないと思う。今まで、同じ場所に棲んだのは最長でも3年。飽きたらどんどん引っ越すという性格だ。
そんな僕が、椎葉に住み始めてもう5年目に入っている。どれだけぶん文Bunに対する使命感が強いのかということ、そしてどれだけこの村での生活がグッドなものかは、もう証明されたといって良いだろう。
椎葉に棲み、僕は独身から家族住まいになった。子どもももう1.7歳だ。
妻には「東京に住んでいたころの小宮山君は嫌だったけれど、椎葉に行ってからはまともな人になった気がする」と言われた。
くぅ、わかるぅ。
🌲変える事
そんな僕が今すぐ変えなくてはいけないこと。
それは尿酸値である。やばい。9.8だ。
ぴりぴりとした四肢の痛みは、僕をあざ笑うかのように走り回る。
「いつあなたを殺したっていいんですよ」という高笑いが体の中から聞こえてくるというのは、強がっても強がりきれない悲愴である。
三宿のバーで5時まで、なんて話をした。お分かりの方はお分かりなのだが、僕は酒を飲みだすと止まらない。一種の希死念慮の発散のように、意識を失い泥濘に浸かるまで飲み続ける。その結果として何が起こるかというと、脳細胞がぶっとび記憶にない状態での爆食いである。
ポテトチップスのBIGサイズを3袋食べていたことがある。・・・こう聞くと、面白いだろうか?
今までは僕も笑い話にしてきたけれど、いよいよこのままではいけない気がしている。
こういう「酔っぱらったときにやらかした」話をすると、特に年配の方から「俺の若い頃はもっと~」みたいな話が聞かれるものですが、すみませんね。僕からすれば全部子どもの遊びみたいなやらかしです。良かったですねそんなにまともでという感じ。
・・・まぁ、こういうことについては70歳くらいになったときに本格的にすべてを語るとして・・・いよいよこのままではいけない。
なんだか背中も痛い。筋肉が消失しているのだ。
僕は変わらなくてはいけない。だからこそ、僕は変わらなくてはいけない。
僕は変わるために、変わるのだ。
(・・・なにを?)