「依存症には刑罰より治療を」 米国国立薬物乱用研究所(NIDA)所長
2021年8月、米国国立薬物乱用研究所(National Institute on Drug Abuse : NIDA)所長ノラ・D・ボルコウ博士は、「依存症には刑罰より治療を(原題: Addiction should be treated, not penalized)」と題する論考を学術誌『Neuropsychopharmacology』に公表しています。
ボルコウ博士の功績
ボルコウ博士が所長を務める米国国立薬物乱用研究所(NIDA)は、米国連邦政府の公的な研究機関であり、薬物使用や依存症に関する研究を支援する世界最大の科学研究機関です。博士は、脳機能イメージング(Positron Emission Tomography : PET)と呼ばれる脳画像診断技術を用いて、依存性物質の使用が脳機能にどのような影響を及ぼすかを詳しく調査し、 薬物依存症が脳の病気であることを科学的に明らかにしました。特に彼女の研究は、ドーパミン系の変化が、依存症において報酬や自制心に関わる前頭葉の機能に影響を与えることを立証しています。
ボルコウ博士はメキシコに生まれ、幼い頃に母方の祖父をアルコール依存症を苦にした自殺で亡くしています。博士が祖父の死因の真相を知ったのは、何年ものちに研究者として薬物が脳に与える影響を調べる脳画像診断の研究に携わってからで、死を間際にした母親から祖父が心臓の合併症で死んだのではなく、アルコール依存症をコントロールできずに自殺したということを告げられたそうです。この痛ましい体験が博士にとって、依存症へのスティグマ(偏見)を取り除き、他の病気と同じ疾患であると証明することに学者人生を捧げる強い動機につながっているようです。
博士はまた、UNODC‐WHO Informal International Scientific Network(国連薬物犯罪事務所-世界保健機関非公式国際科学ネットワーク)の一員として国連麻薬委員会(CND: The Commission on Narcotic Drugs)に科学的助言を与え、2016年国連総会薬物特別総会(UNGASS 2016)成果文書における、薬物使用には刑罰を与えるより、公衆衛生問題として取り組む必要があるという認識の加盟国193カ国全会一致での採択に大きく貢献しました。
UNGASS 2016に向けてUNODC‐WHO Informal International Scientific Networkが国連麻薬委員会に提供した知見は、物質使用障害は脳の疾患であり、治療可能であること、最も深刻な病状の人でもエビデンスに基づく治療と社会支援へのアクセスがあれば回復できること、これらの障害の予防や対処に刑事制裁は効果がないことを科学的に裏付けるものであり、また、有罪判決や刑罰の代わりに、公衆衛生の原則に基づき、社会保障と医療を重視する薬物政策へのエビデンスに基づくアプローチが強調されています。UNODC‐WHO Informal International Scientific Networkは以下の8つの勧告を発表し、UNGASS 2016ですべての国連加盟国(もちろん日本も!)により全会一致で採択され、成果文書にまとめられています;
2017年にWorld Psychiatryに公表されたボルコウ博士ら、UNODC‐WHO Informal International Scientific Networkによる文書では
と述べられています。
このように世界では薬物使用は刑罰の対象ではなく、治療すべき疾患であるという認識が広まっていますが、日本では未だに薬物使用者は刑罰によって罰せられるべきという認識が強く、2021年1月から、新たに大麻使用罪(大麻の「使用」に対する罰則 )を創設するという、科学的根拠のない、国際情勢にも反する議論が有識者と呼ばれる人たちの非公開の会議によって進められています。筆者は、日本で薬物使用者に現在行われている人権侵害をさらに悪化させるこのような政策の議論に世界の最新の科学的知見を提供し、日本の薬物依存症対策の改善に貢献することを目的として、ボルコウ博士の論考「依存症には刑罰より治療を(原題: Addiction should be treated, not penalized)」の日本語仮訳を作成しました。以下仮訳です。
パースペクティブ
依存症には刑罰でなく治療を [日本語仮訳]
Nora D. Volkow
COVID-19パンデミックは、米国における人種間の健康格差の大きさを浮き彫りにした。アメリカ黒人はパンデミックの期間により悪い結果を経験し、アメリカ白人より高い確率で死亡し続け、他の広範囲の急性疾患や慢性疾患にも不均衡に苦しんでいる。このような格差は、特に物質使用や物質使用障害の分野で顕著であり、これらの分野では、根強い懲罰的アプローチがスティグマを悪化させ、適切な医療の実施を困難にしている。多数のデータが、黒人をはじめとする有色人種のコミュニティは、薬物使用を公衆衛生の問題ではなく犯罪として扱ってきた何十年もの歴史によって、不均衡に被害を受けてきたことを示している [1] 。
依存症は病態—治療可能な脳障害—であり、性格上の欠点や社会的逸脱ではないことは、何十年も前から知られている。しかし、その見解を裏付ける確かな証拠があるにもかかわらず、薬物依存症は依然として犯罪とされ続けている。アメリカ合衆国は、国民の幸福と健康の公平性のために、薬物依存症に対して直ちに公衆衛生的アプローチを取らなければならない。
不公平な執行
薬物の種類によって統計は異なるが、全体的にみて白人と黒人では薬物の使用に大きな差はないにもかかわらず、法的な結果はしばしば大きく異なる。例えば、大麻の使用率は同程度であるのに、黒人が大麻所持で逮捕される確率は2018年には白人の約4倍に達している[2]。2013年に全米で薬物事犯により収監された277,000人のうち、半数以上 (56%) がアフリカ系アメリカ人またはラテン系アメリカ人であったが、これらのグループは合わせて米国人口のおよそ4分の1を占めている [3] 。
今世紀のオピオイド危機の初期には、ヘロインの逮捕者は処方オピオイド流用の逮捕者を大きく上回っていたが、後者—主に白人が使用していた—の方がより広く濫用されていた [4] 。1980年代のクラックコカイン流行時には、同じ薬物の二つの形態であるにもかかわらず、都市部の有色人種社会で使用率の高かったクラック (またはフリーベース) コカインには、パウダーコカインよりもはるかに厳しい罰則が課せられていたことが広く知られている [5–7] 。これらは、麻薬法やその取り締まりに関連して長い間行われてきた人種差別のほんの一例にすぎない [8] 。
効果のない刑罰
刑罰が物質使用障害や関連する諸問題を改善しないという事実にもかかわらず、薬物使用は罰せられ続けている。ピュー慈善財団が行った分析では、州の薬物収監率と州の薬物問題を示す3つの指標: (薬物使用の自己申告、薬物過剰摂取による死亡、薬物による逮捕)との間に統計的に有意な関係は認められなかった [9] 。
薬物犯罪であれ、その他の犯罪であれ、収監は実際に、出所時の薬物過剰摂取の非常に高いリスクにつながる [10] 。刑務所に収容されている人の半数以上は未治療の物質使用障害を抱えており [11] 、違法薬物や薬物の使用は、一般に服役後に大幅に増加する [12] 。未治療のオピオイド使用障害が関与している場合、服役中に生じる可能性のあるオピオイド耐性の喪失により、薬物使用の再発は死に至ることがある。
不公平な治療へのアクセス
オピオイド危機は、刑罰から離れて公衆衛生の問題として依存症に対処する動きを引き起こしたが、薬物乱用に対する公衆衛生戦略の適用は、依然として人種/民族によって偏っている[13]。白人と比較すると黒人やヒスパニック系の人々は、薬物による逮捕後に治療プログラムに転換されるより収監される可能性が高い[14]。
また、2018年にフロリダで行われた研究では、依存症治療を求めるアフリカ系アメリカ人は、白人に比べて治療開始が大幅に遅くなり(4~5年)、物質使用障害の更なる進行、治療成績の低下、過剰摂取率の上昇につながっていることが明らかになった [15] 。これらの遅延は、社会経済的地位のみに起因するものではない。研究によると、オピオイド使用障害の黒人の若者は、白人の同等の人に比べて薬物治療を受ける可能性が著しく低く(ある研究では42%低く [16] 、別の研究では49%低い [17])、オピオイド使用障害の黒人患者がオピオイド依存症治療薬ブプレノルフィンを受け取る可能性は白人患者に比べて77%低い[18]。
刑罰の悪循環
黒人の生命に不均衡に影響を与える、薬物所持に対する刑罰の悪影響は広範囲に及ぶ。収監は隔離につながり、薬物乱用、依存症および再発の悪化要因となる。また、さまざまな原因による早期死亡のリスクを高める [19]。
たとえ少量の大麻であっても所持での逮捕は—黒人の若者にとって白人の若者よりもはるかに一般的な結果 [20]—収監につながるだけでなく、高等教育や雇用などの将来の機会を極端に制限する犯罪歴を残す[21]。このような重罪としての薬物の有罪判決と収監による過剰な負担は、黒人の子どもや家族に大きな影響を与えている。逮捕された親は子どもの親権を失い、子どもは児童福祉制度に入ることになる。ピュー慈善財団による別の分析によると、アフリカ系アメリカ人の子どもの9人に1人(11.4%)、ヒスパニック系の子どもの28人に1人(3.5%)が収監された親を持つのに比べて、白人の子どもでは57人に1人(1.8%)である[22]。
この負担は、雇用、住宅供給、高等教育、投票資格へのアクセスを妨げ、社会的地位の向上を制限することにより、貧困を強化する。また、収監された人、収監されていないその家族、そして地域社会の健康にも害を及ぼす [23] 。
公衆衛生アプローチへの移行
5年前、国連麻薬特別総会で193の加盟国は、物質使用障害を刑事犯罪として処罰するのではなく、公衆衛生問題として取り組む必要性を認めることを全会一致で決議した[24]。犯罪化への公衆衛生に基づく代替手段は、ドラッグコートやその他のダイバージョンプログラムから薬物所持の非犯罪化政策まで多岐にわたる。
薬物使用を処罰することからどのように脱却するのがベストなのかは重要な問いであり、それは多様な戦略を必要とするかもしれない。非犯罪化のモデルの範囲は幅広く、これらのモデルのいくつかは、米国の様々な州や地方自治体、その他の国々で既に実施されている[25]。これらの政策的解決策の有効性と影響を確証するための研究が早急に必要である。
政策研究に加えて、薬物使用や依存症に関連した人種間格差に対処するための積極的な研究が必要とされている。オピオイド危機から私たちは、深刻な健康問題を削減するという共通の目的に向けて協力するために—司法制度(裁判所、刑務所、拘置所)や医療制度—を含む複数の利害関係者が参画する大規模な研究構想を構築できることを学んだ。COVID-19危機から私たちは、研究事業者が重大な脅威に対処するために適応し、迅速に対応することができることを学んだ。これらの教訓は、依存症の対処方法における構造的な不公平を減らし、人種や素性を問わず、必要とするすべての人々に向けた質の高い依存症ケアへのアクセスを向上させるために応用することができる。
このことを念頭に置き、米国国立薬物乱用研究所は、少数派住民における物質使用と依存症の進行や脆弱性への重点的な取り組みを強化している[26]。私たちは、依存症ケアへの構造的な障壁を取り除く方法を開発するために、州や地域の機関や民間の医療システムとの研究提携を模索している。私たちはまた、薬物を管理し、非犯罪化する代替モデルの効果に関する研究に、そのような自然な試みがすでに行われている世界の一部の地域において資金を提供している。
物質使用障害のある人は、刑罰ではなく治療を必要としており、薬物使用障害は質の高いケアの要求と罹患した人への思いやりをもって取り組まれるべきである。思いやりのある治療を提供することで人種的平等を達成するという意志と、依存症に対処する、より公平なモデルへと私たちを導くために科学を利用する能力があれば、そのような目標は達成できると私は信じている。
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