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【徹底考察】 映画『パラサイト』が描いた「半地下」とは何だったのか?

ポン・ジュノ監督の新たなマスターピース『パラサイト 半地下の家族』。

2020年、このたった一本の作品が、映画の歴史を覆してしまった。

今作は、カンヌ国際映画祭で、韓国映画史上初の最高賞パルムドールを受賞、そして、アカデミー賞では、作品賞、監督賞、脚本賞、国際長編映画賞、結果として、最多4部門の受賞を果たした。

中でも、特に大きな話題となったのが、アカデミー賞「作品賞」の受賞である。たしかに今作は、『1917』と並んで、同年の作品賞の大本命ではあった。しかし、まさか本当に『パラサイト』がオスカーの頂点に輝くことになるとは、多くの映画人がそう願えど、誰も絶対的な確信は持てていなかったはずだ。アメリカ映画界の最高の栄誉とされるアカデミー賞において、韓国資本の同作が作品賞に輝くこと。それは改めて言うまでもなく、前例のない歴史的快挙である。これは本当に凄まじいことだ。

そして何より、端正なエンターテインメント作品でありながら、同時に、誰もが目を背けようとしていた現実の社会構造を鋭く批評してみせる今作が、世界中で大ヒットを記録したことの意義は深い。

今回は、今作の最重要テーマ、つまり、この物語における「半地下」とはいったい何だったのか、について、僕なりの考えを綴っていきたい。この記事が、あなたが『パラサイト』の理解を深める上での一つのきっかけになったら嬉しい。



●「垂直構造」を可視化した寓話

まず、本題に入っていく前に、この映画の前提(ルール)について振り返っていきたい。

この映画は、「垂直構造」を表した物語であり、つまり、「上」と「下」の「格差」を可視化した「寓話」となっている。

そして今作においては、物理的に「上」から「下」へ、もしくは、「下」から「上」へ移動することが、そのまま、それぞれの登場人物のステータス、優位性の変更を意味しているのだ。

最も分かりやすい例でいうと、主人公一家、つまり、「半地下家族」は、それぞれの身分を偽って、坂の上にある高級住宅に住む「上流家族」に潜入する、つまり、物理的に「下」から「上」へ移動することで、自分たちのステータスの向上を試みるのだ。(そして、その緻密にして大胆な試みが、後の悲劇へと繋がっていく。)

今作には他にも、「垂直構造」のモチーフが至るところに盛り込まれている。

例えば、格差社会における貧困層、つまり「半地下家族」の家は、標高の低いエリアに位置していたため、物語の後半、水害によって水没してしまう。一方で、彼らと対の存在として描かれる「上流家族」は、大雨の夜の翌日には既に家の水ははけていて、まるで何事もなかったように、庭で大規模なパーティーを開いていた。

このように、垂直構造における「上」と「下」、つまり、「上流家族」と「半地下家族」の間の不条理な「格差」が、今作では、様々なモチーフを通して繰り返し描かれている。


●「上流」「半地下」に次ぐ第3の階層=「地下」

ただ、今作の物語は、そうしたシンプルな構図を超えて、一切の予想もつかない方向へと展開していく。

この映画の中盤で明らかになる、ある衝撃の真実。それは、「上流」と「半地下」に次ぐ、「地下」という第3の階層が存在していた、ということだ。その真実が明かされた時、僕たち観客は、「半地下」の更に下には、本当の「地下」がある、という悲痛な現実と向き合わざるを得なくなる。

序盤から中盤は、「上流」と「半地下」、この2つの家を上下に行き来するというシンプルな構図であったが、この第3の階層が現出することによって、物語が途端に複雑になり、そして予測不可能な方向へと加速していく。


●「上流」と「地下」の寄生関係

格差社会というと、多くの人は、「上」と「下」、つまり、2つの階層間における問題として捉えるかもしれない。しかしこの映画は、その浅はかな現実認識に甘える観客に、冷酷な警鐘を鳴らす。この問題の本質は、二項対立で表せるほどシンプルなものではないのだ。

物語の中盤までは、標高の高いエリアにある「上流家族」の家と、坂道をずっと下った標高の低いエリアにある「半地下家族」の家、この両者の物理的な高低差が「格差」の象徴となっていた。

しかし、ここから話が途端に複雑になるが、第3の階層、つまり、本当の「地下」は、「半地下」の下ではなく、「上流」の「真下」にあったのだ。そう、ここではもはや、誰もが予想した「上流→半地下→地下」というシンプルな垂直構造は成立していないのである。

中盤以降に明らかになる「上流(地下)→半地下」という構造を言い換えると、「地下家族」は、「上流家族」に、文字通り「寄生」することで生活していた、ということになる。そして、この衝撃の事実こそが、今作のタイトル『パラサイト』(寄生虫)が、真に意味するものであるのだ。


●混在する「被害者意識」と「加害者意識」

格差社会、格差問題というと、僕たちは、そのシビアな現実構造から無意識的に目を背けるあまり、物事をシンプルに、つまり、「富裕層」と「貧困層」という二項対立の軸で捉えてしまう。

もっと言えば、問題の構造を、自分に都合の良いように捉えてしまうものなのかもしれない。例えば、「富裕層と比べたら、自分は貧困層にあたる」「富裕層ばかり、豊かな生活をしていて許せない」「2つの階層の格差は、どんどん広がるばかりだ」このように、次第に被害者意識が大きくなっていく、という事象がイメージしやすいだろう。

しかし、この現実社会に横たわる問題は、もっと複雑で、多層的で、そこには常に、異なる階層に生きる者たちの「被害者意識」と「加害者意識」が、めまぐるしく反転し続けている。

この映画は、終盤に向かうにつれて、「半地下家族」が、「上流家族」と、同時に「地下家族」と、文字通り居場所を奪い合う展開へと流れ込んでいく。それは、この現実社会では、誰もが、誰かの居場所を奪いながら、つまり、「被害者意識」と「加害者意識」の両方を抱えながら生きている、という現実のメタファーであり、その意味で、この世界には、純粋な「善」も「悪」も存在していないといえる。

ポンジュノ監督は、今作を「悪役のいない悲劇」という言葉で説明していたが、この表現はまさに言い得て妙であると思う。なぜなら、あの「地下」にいた男は、水面下において自分たちに居場所を与えてくれている「上流家族」に対して、憎悪でも嫉妬でもなく「リスペクト」を捧げていたからだ。

「善」とか「悪」とか、「恨む」とか「妬む」とか、そうした単純化された価値観や感情では、もはや、この構造を説明することも、受け入れることもできない。そのあまりにも鋭い社会批評(および、問題提起)に、背筋が凍る思いをする。


●ついに幕を開けた「断絶」の時代

そして、何より恐ろしいことが、もう一つある。

おそらく多くの観客は、程度の差こそあれ、自分自身を、「上流」と「地下」の間の中間層、つまり「半地下」に生きる者として(無意識的に)捉えることができる。そしてこの映画は、そうした観客に、他でもないあなた自身が「半地下家族」の一員として、今も誰かと居場所を奪い合っている、という残酷な真実を突き付けるのだ。

この社会構造から逃れられる者など、一人もいない。誰もが、被害者であり、加害者であり、自らの居場所を守るために原罪を背負っている。今作『パラサイト』は、そうした鋭利な「寓話」として、僕たち観客を冷徹に告発しているのだ。

そして、この「寓話」は、個々人の問題だけに当てはまるものではない。それぞれの人種や性別など、ありとあらゆる差異に代用することが可能で、その意味で、この混迷を極める世界において、悲しいことに、あまりにも普遍的なテーマともいえる。

今まさに幕を開けようとしている「断絶」の時代。2010年代の最後に今作が生まれてしまったことは、僕は偶然ではないと思う。



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松本 侃士
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