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映画『ブックスマート』に、「悪役」が登場しないのは何故だろう?

【『ブックスマート 卒業前夜のパーティーデビュー』/オリヴィア・ワイルド監督】


時代が変われば、映画の在り方も変わる。

この数年、『エイス・グレード 世界で一番クールな私へ』『ハーフ・オブ・イット:面白いのはこれから』『グッド・ボーイズ』をはじめ、新しい時代の幕開けを象徴する青春映画の傑作が次々と生まれているが、その中でも『ブックスマート』は、まさに、テン年代の学園コメディ映画の金字塔である。

単に、多様な人種のキャラクターが登場するだけではない。単に、LGBTQやジェンダー・ニュートラルを描くだけではない。この映画が凄いのは、「ダイバーシティ&インクルージョン」の価値観が、その世界の中において、「当たり前」の大前提として共有されていることである。

より具体的に言えば、カミングアウト(自分がセクシャルマイノリティであることを打ち明けること)をドラマティックなシーンとして位置付けることなく、さも「当たり前」の背景として描いている。クラスの風景を眺めてみても、多種多様な出自の生徒たちが「当たり前」のように親交を深め合っている。今更言うまでもないが、これこそが、ロサンゼルス(および、アメリカ)の真の在るべき姿なのだ。


そして、何より特筆すべきは、この映画には「悪役」が登場しない、ということである。

「i-D」のインタビューで、オリヴィア・ワイルド監督は次のように語っている。僕は、この彼女の言葉に強く心を動かされた。

「悪役を登場させ続ければ、観客はどんな物語にも悪役がいるんだと思い込んでしまう。そうすると、人生においても絶対どこかに悪人がいると考えてしまうと思います。」
「もう少しみんなリラックスして、自分を他から守らなきゃいけないという気持ちを緩めることができれば、いろんなチャンスが生まれてくると思います。」
「どんな状況でも、この人は自分の悪役なんじゃないかって探す癖を、私たちはそもそもなくさないといけないのです。」


冒頭で僕は、「時代が変われば、映画の在り方も変わる。」と書いたが、これはある意味で正しく、そして、ある意味で間違っている。

クリエイターたちが映画に「祈り」や「願い」「覚悟」を託す時、そして、他でもない僕たち観客が、その作品を受容し、既存の価値観をアップデートする時、真の意味で時代が変わる。そう、「時代が映画を変える」のではなく、「映画が時代を変える」のだ。

鶏が先か卵が先か。それはどちらでもいいけれど、いずれにせよ、映画には、そうした眩い可能性があると僕は信じている。

大袈裟な言い方かもしれないが、こうした作品が受け入れられ、評価される世界に、僕は希望はあると思う。



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