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映画『あのこは貴族』が描いた「分断と連帯」、そして「抑圧と解放」について。

【『あのこは貴族』/岨手由貴子監督】

長きにわたる映画史において、時代を超えて継承されてきた「シスターフッド」の精神。それぞれの年代において、女性同士の連帯を描く傑作が次々と生まれてきた。

そして2020年代を迎えた今、劇的なパラダイムシフトに合わせて、ついにこのジャンルが一つの美しい結実を見せ始めている。

昨年には、『ブックスマート 卒業前夜のパーティーデビュー』という一つの金字塔が打ち立てられたばかりであるが、この日本からも、新たな「シスターフッド」の大傑作が誕生した。それが、岨手由貴子監督による『あのこは貴族』である。


《同じ空の下、私たちは違う階層(セカイ)を生きている。》

女性同士の連帯を描く上では、その前提として、分断(もしくは、非連帯)が設定されている必要があるが、山内マリコによる原作、および、今回の映画が描いた分断は、残酷すぎるほどに深い。それは、「上流階級と中流階級」「東京と地方」などの差異が複合的に組み合った絶対的な溝である。

それぞれが生きる「階層」があまりにも大きく異なるが故に、メインの登場人物である華子(門脇麦)と美紀(水原希子)は、今作の後半まで顔を合わせることはない。

この物語のそうした構成は、そのまま現実社会の不可避的な構造を表しているのだろう。嘆くべきか、華子の世界も美紀の世界も、本人の認識や意志は別として、予め決定的に閉じているのだ。


しかしだからこそ、二人が邂逅を果たすシーンの感動は大きい。

この物語においては、階層間による対立は一切描かれていないが、それは、そもそも華子と美紀が何一つの接点すら持ち合わせていなかったからだ。もともと美紀の中には、少なからず上流階級への羨望や嫉妬こそあったかもしれないが、この物語においては、そうした感情がネガティブな形で表出することはない。華子と美紀の出会い、そこから始まる関係を、極めてフラットに描いていることが、今作の特筆すべき点だ。

別の世界を生きる他者との出会いによって、その先の人生における新しい可能性が開かれていく。だとすれば、私たちを分かつ溝は、埋めるべき価値あるものである。その輝かしいメッセージに、僕は強く心を動かされた。

それまでの人生において、様々な社会的要請や環境によって「抑圧」され続けてきた華子と美紀は、かけがえのない邂逅を経て、自らの意志で自分を「解放」していく。これは、女性同士の連帯を謳った「シスターフッド」映画であるが、僕は、とても普遍的な人生賛歌として今作のメッセージを受け取めた。


2021年、新しいディケイドが本格的に幕を開けた今、私たちの総意として、「時代」は変わろうとしている。それまで支配的であった価値観やルールを否定しながら、少しずつ前に進もうとしている。その時代の変化を加速させるために、私たちには「物語」が必要なのだ。

この日本から、『あのこが貴族』が生まれたことは、とても希望的であると思う。





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