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新時代のクラシック映画『蜜蜂と遠雷』を観た。

【『蜜蜂と遠雷』/石川慶監督】

この映画には、「音楽」だけがある。

作為的でドラマティックな展開もなければ、青春や恋愛や家族ドラマの要素もない。ただただ、「音楽」に人生を懸けるピアニストたちの業のようなものを浮き彫りにしていく。

そして、あらゆる物語的要素を削ぎ落とした先に至ったその究極の地平において、この映画は、「音楽」と一体化する。

一つ一つの旋律に、リズムに、そして豊かなハーモニーに、言葉を失い、魂を揺さぶられた。これほどまでに純音楽的な映画作品と、僕は初めて出会った。


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今作は、選ばれし4名のピアニストたちの物語である。

復活の神童・亜夜。不屈の努力家・明石。信念の貴公子・マサル。そして、祝福の異端児・塵。

彼ら・彼女らは、コンクールの頂点を競い合うライバルではあるが、その関係性は、お互いへの敬意に満ち溢れている。崇高なミュージシャンシップに触れることで、心を清廉に洗われるような思いがした。

人生を懸けて「音楽」と対峙する4人の台詞は、どれもずっしりとした重みがあり、胸の奥まで深く突き刺さるものばかりだが、個人的に、僕が最も強く心を動かされたのは、マサルの「新しいクラシックを作りたい」という言葉である。

今でこそクラシックとして継承される数々のスコアたちだって、発表された当時は、その時代におけるポップ・ミュージックだったはずであり、そして、そのようにして生まれた音楽が、やがていくつかの時代を超えて愛されていくことによって、タイムレスな輝きを放つクラシックとなる。マサルの野心に、そして彼が見据える音楽の遥かな未来に、僕は強く心を動かされた。



そして終盤、ついに明らかになる今作の通奏低音としてのメッセージ。

「あなたが世界を、鳴らすのよ。」

この抽象度の高い音楽的なテーマを、一切の妥協なく映画作品として結実させた今作は、まさに、新時代におけるクラシック作品として、いつまでも愛されていくのだと思う。

この映画は、たとえ何年、何十年、何百年が経とうとも、決して、色褪せはしない。その価値が失われることはない。永遠に、その普遍的な輝きを増し続けていくはずだ。

この作品を、映画館という「コンサート会場」で鑑賞しなかったことを、僕はいつまでも後悔し続けるのだろう。



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