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コスメは語りはじめたVol.4「メイクを解放せよ」

下北沢B&B『コスメは語りはじめた』ポップアップ選書イベント

つや:まずは皆さまにご報告ということで、2023年4月から5月中旬にかけて『コスメは語りはじめた』のポップアップ選書イベントを行ないました。ありがたいことに下北沢B&Bさんから声をかけていただいて、私とマリコムさんが『コスメは語りはじめた』の読者の方へおすすめしたい関連書籍を選び、紹介文とともに展示いたしました。「選書されていた書籍を買いました」というご報告もいくつかいただいていて、嬉しい限りです。

コム:私からも、選書イベントへ来場くださった方々と、会場の下北沢B&Bさんに、改めて御礼申し上げます。実は私、昨年4月後半から体調を崩してしまい、そのために御礼のみならずこの「コスメは語りはじめた」の更新も大幅に遅れてしまいました。お待たせしてしまい、本当にごめんなさい(以下に続く対談も内容は2023年におこなわれたものです、ご了承いただければ幸いです)。でも、コスメへの興味はまだまだ尽きておりません。選書イベントで紹介させていただいた漫画にも続巻が出て、時間があっという間に過ぎてしまったことを実感させられますが、あのときつやちゃんと私の選書に触れてくださった方々が、その出会いや読書体験を今改めて思い出してくださったならとても嬉しく思います。

つや:「本屋さんとコスメ」という組み合わせってこれまであまりなかったと思うので、新鮮で面白かったですよね。B&Bさん、改めてありがとうございました。さて、今回はメイクがテーマということで、ジュエリー批評の秋山真樹子さんをゲストにお呼びしました。私は概念としてのメイクは好きですがそれを日常的に行っているわけではないので、メイクを語るのに日頃実践されている方がもう一人いたらいいな、というのがお呼びした理由の一つです。もう一つの理由に、メイクとジュエリーが“身体を装うもの”として共通点があるのでは?という思いもありました。マリコムさんが秋山さんと元々お知り合いということで、紹介していただいた次第です。

秋山:よろしくお願いします。今日は楽しみにやってまいりました。

『ユリイカ』2021年7月号

つや:私は2021年7月号の『ユリイカ』(特集=ココ・シャネル)で「シャネル、コラージュ、サンプリング 通俗と中毒のブランド」というテキストを書いていて、実はその号に秋山さんも「交錯のアイデンティティ シャネルジュエリー試論」という論考を寄稿されていました。イミテーションとしてのシャネルのジュエリーについて論じている素敵な文章です。そういった接近がありつつも、お会いするのは今回が初めてですね。

秋山:今回お誘いをいただいて、ジュエリーとメイクは確かに似ているなと思いました。でもそれは、私がこれまでメイクにそこまで関心を持ってこず、引いて眺めているからであって、実際にグッと中に入ると全然違うものに見えてくるのかもしれません。そんなボヤっとした認識でよろしいんでしょうか。

コム:ちなみに、私は過去の対談でも語っている通りメイクにあまり関心がないんですよ。もちろん、興味がないとは言いつつ実践はしているわけですが。

秋山:なるほど、メイクの話をするのにこの三人でいいのだろうか(笑)。

つや:今日、どんな話になるんでしょうね?(笑)。では、いきなり本題に入る前に、そもそも秋山さんは『コスメは語りはじめた』のこれまでの回をお読みになってどういった感想を持たれたのかというところからお伺いしたいです。あるいは「コスメについて語ること」という行為そのものについてどう思われているか、ということでもいいですが。

秋山:私にとってコスメは、目に入ってくる情報に受け身で触れるだけのものだったので、お二人の対談を読んで「こんなにも主体的に向き合うことができるのか!」と目を見開かされました。もうひとつ、これはコスメも同じだと思うんですが、私はジュエリーについてこれまで書いてきて、一般に批評の圏外にある対象を論じるには、ふだん批評や評論と縁がない人、なんならそういう言葉を聞いただけでアレルギー反応を起こしてしまうような人たちまで届かないと意味がないことに気づいたんです。それって本当に難しいし、ある意味リスキーなんですけど、お二人の洒脱でテンポのよい語り口を見て、読む側にそうと自覚させないまま批評の行為に巻き込んでいくようなパワーと可能性を感じたんです。もちろん、そういう語りがそこにあるということとは別に、どうやったらそれが必要な層に届くのかという問題もあるわけですが……のっけからややこしい話をしてしまいましたが、早い話が、第1回目から大好きで読んでいましたってことです(笑)。難しい話を抜きにしても、身近なトピックに主体的に向き合うという姿勢は幅広く応用がききますよね。

コム:私もコスメについて語ることで、他分野への気づきがあることがあります。自分は美術の業界で生計を立てているのですが、美術で批評とか言うと怖い目に合う(笑)。

つや:迂闊に発言できない空気はありますよね。

秋山:美術の批評ってどうしても権威の匂いを感じてしまいますよね。私はジュエリーの中でも特にコンテンポラリージュエリーと呼ばれる分野を扱っているのですが、コンテンポラリージュエリーは自己表現や芸術表現を標榜しているので、書き手は自分も含め、美術批評の作法にならいたがるんですよ。(クレメント・)グリーンバーグを引用してみたりとか。でも、ジュエリーは生活の中で使うものだから、日常の同一線上で個々が主体的に語るところがスタート地点なはず。だからこそ『コスメは語りはじめた』に、もっと開かれた語りの可能性を感じたんです。


身だしなみか、遊びか


つや:ジュエリー以上にコスメはいわゆる“消費材”だし、その中でもメイクアップ品はスキンケアとはまた違った実用性がありますよね。というのも、メイクって、歴史的にはいわゆる常識/マナーとして実践されてきた部分が大きいと思うんです。2023年においてはメイクが常識だマナーだというのはやや時代錯誤な気もしますが、そういった面はこれまで間違いなくあったでしょう。けれども、一方で“遊び”としてのメイクの側面もあるわけですよね。前者はメイクに全然興味のない人も義務感でやっていて、後者は自己表現としてやっている。両者は異なる目的でされてきたので、議論する際はそれらをきちんと分けて話さないと混乱するのではないか。……という前提に立ちつつなんですが、実はその二つの面はきっぱりと分けられるわけでもない、というのがメイクを面白くしているポイントだとも思う。メイクが「完全に自由にやるもの」となったらそれはそれで面白くないわけで、TPOだったり暗黙の決まりだったり、そこに有限性がないとつまらない。マナーを認識した上で、そのルールのぎりぎりのラインの攻防を繰り返すことでメイクは面白くなるというか。校則とかはまさにそうですよね。原色のアイシャドウはアウトだけど、茶~ベージュの色をこっそり忍ばせることでバレないテクニックが磨かれ技術となっていく……みたいな。その観点でまず伺いたいのは、お二人はメイクを義務感でされていますか?ということです。

コム:私は、むしろ義務感が生じる場では一切やらないです。職場ではノーメイクで、休日しかメイクはやらない。職場では、覇気がないように見えるのは良くないので、一応眉は描きますけど。でも、アイメイクやリップはしないです。

秋山:私はその勇気がないですね。どこへ行くにしても、やっぱり最低限はやってしまう。それは身だしなみの意識が半分で、半分は……無防備なまま出ていくのがこわいのかもしれない。お世辞にも美肌とは言えないので、視線がこわい。それを身だしなみと捉えるかコンプレックスと捉えるかというのは微妙なところですけど、少なくとも遊び要素はあまりない。リップの色も、顔色が悪く見えないかどうかで選びがちです。

つや:なるほど。ちなみに、マリコムさんが平日にメイクをしないのに休日にするというのは、どういった気持ちの違いがあるんですか?

コム:単純に平日の朝は時間がないというのと、メイクをするしないというのが会う人によって変わるんですよ。つまり、休日にテンションが上がる人と会う時はメイクします。

秋山:ということは、休日にテンション上がらない人と会う時はメイクはしない?

コム:そもそも休日にテンション上がらない人とは会わない(笑)。平日においては、仕事をしている業界の違いもあると思います。私の場合は、職場や顧客には普段からメイクをしていない女性の方が多い。だから、私固有の思想というよりも、私が置かれている状況や環境によるのかもしれないです。でも服に関しては、休日にギャラリーに行く時などはかなり頑張って着て行きます。舐められないように、です。服によって見せてもらえる作品が違う場合もある気がする。身長が低いので、ありのままでは迫力が出ないんですよね。Vol.1の「コスメとファッション」でも話題に出ましたが、好きでメイクをするというのはある一つの世界の構築を目指している、という価値観があったじゃないですか。私はそれを自分に施すというのがすごいなと思って……。先ほど秋山さんが顔色が悪く見えないようなリップの色を選ぶと仰いましたが、私も世界構築というよりはもっとネガティブな服の選び方をしていると思います。

つや:実は、私の周りのメイクが好きな人に訊くと、皆「メイクしている時が一番楽しい」って言うんです。完成に向けて顔を作っていくことが楽しいと。どんどん可愛くなっていく!って。今日はちょっと色を変えようかなとか、普段より濃くしてみようかなとか、イメージに向かって作り上げていく行為そのものに対してテンションが上がる。

コム:完成を見ることよりも、工程が楽しいんだ。

秋山:メイクって魔法に例えられることがありますけど、人の手が介在することで変化していくから、確かにそうかもしれないですね。対してジュエリーは迷信的な要素が強い。基本的に物のパワーが頼りで、つける作業自体はすぐ終わってしまうので。

つや:前提として、メイクは人の手によって作り上げていくものなんですよね。スキンケア以上に構築的。

秋山:一方でメイクの場合、たとえ手間暇をかけて作り上げたとしても、何度も愛でることはできない。その時の肌のコンディションで変わってくるし、一回性がある。儚いものですよね。

コム:料理に近い気がします。作っては消えていく。

つや:料理好きな方は、食べるのが10分だったとしても3時間かけて作りますもんね。すごく贅沢なことですよね。

コム:贅沢、という捉え方は面白いと思う。あっという間に消えていくものに対して、今「贅沢」と言ったわけですよね。だったら、どのくらいの時間をかけてメイクしたら贅沢になるのか。

秋山:でも、完成した顔だけ見ても一体どのくらい時間をかけてメイクしたのかは分からないですよね。

つや:足し算のメイクが主流だった時代は、ある程度分かったと思います。でも今は薄づきの引き算メイクがずっとトレンドになっている中で、それも分かりにくいですね。

秋山:ナチュラルメイクという概念がありますが、あれは要するに、薄化粧に見える厚化粧なわけでしょう?一見手がかかってなさそうだけど実際はかかっているという。

つや:ある意味で自己満足だし、だからこそ贅沢なんですよね。メイクのそういった一回性のラグジュアリーは、スキンケアと対極にあるのではないか。これまでの対談にも出てきた通り、スキンケアの場合は成分を肌の奥に押し込み浸透させるという考えがあります。貯蔵していくというか。対して、メイクはやはり一回きりの儚さがある。コスパやタイパが叫ばれる現代において、極めて反時代的な行為ですよね。

コム:メイクするということ自体がコスパもタイパも悪い。だから、コスパメイクとか時短メイクとかは本末転倒ですよね。メイクの贅沢さを裏切っているので。

秋山:そこが、まさに「身だしなみとして」メイクをやる人たちにとってニーズがあるんでしょうね。義務感でやっているからこそ、贅沢さは求めず手早く終わらせようとする。

つや:時短レシピのニーズと同じということか。


呪術的なメイク、武装としてのメイク


秋山:ジュエリーには呪術性があると言われています。私自身はジュエリーのお守り的な側面を冷めた目で見ているところがあるせいか、呪術と言われてもあまりピンとこなかったのですが、『呪術世界と考古学』(続群書類従完成会)という本を読んでいたら、「呪術は生活の知恵」「呪術は環境から生まれる」というフレーズが出てきたんです。生活の知恵としての呪術というのが面白くないですか?たとえば古代においては、自然や精霊に簡単に命を持っていかれるという感覚が日常的なものとしてあったから、装身具を使って自分を守ったり魂が体から出て行かないようにしていた。その感覚をそのまま現代に持ち込むのはムリがあるにしても、呪術が「生活の知恵」で「環境から生まれる」のだとしたら、今の時代のジュエリーやメイクにも、生活密着型の呪術という側面が、何かしらアップデートされた形で残っている気がしませんか?

つや:メイクも、飛鳥~奈良時代に中国によって大陸文化が輸入される前は、赤い色を顔に塗ることで魔除けとしていた歴史がありますね。つまり、ジュエリーもメイクも、何か人知を超えた力を持つものと思われていたと。

秋山:ヘアメイクとネイルについてはどう考えていますか?メイクとはまた違うもので、ジュエリーとの間にあるもののような気がします。

つや:自分は思春期の頃はネイルをすることで女性の気持ちを想像していた部分が大きかったんです。メイクをするってこういう気持ちなのかな?みたいな。今では、自分にとってネイルは武装です。何かに挑む時にするもの。私は、身だしなみを整えないと良い原稿が書けないんですよね。なんか文章が流れちゃうというか……手癖で書いちゃう。調べ物や推敲、校正といった作業はどんな格好でもできますが、「さぁ文章を生み出していこう」と白紙の紙に向かう際は武装しないと書けない。普段出ない発想を出すためのモードに切り替わる、スイッチの役目になっているのかな。もしかしたら、家よりカフェで勉強した方が捗る、みたいな話に近いのかもしれない。

秋山:武装という考えは興味深いですね。というのも、ジュエリーの場合は、心が弱っている時に武装してじゃらじゃらつけるというケースがあるからです。霊感の強い人が光りものをたくさんつけて霊が寄ってこないようにするという話を聞いたこともあります。誰に見せるでもなく、自分を奮い立たせるための装いってことですよね。

コム:私の場合、家から出ない時にする武装というと、ジェラピケ(gelato pique)を着ることです。

つや:ジェラピケは部屋着なわけだけど、それも武装なんですか?

コム:家の中で着るものにお金をかけている、という意味では武装でしょうね。

秋山:家で使うものにお金をかけるっていうと家電が思い浮かんじゃうんですけど、部屋着なんだ!

つや:ジェラピケって、家の中で可愛いものを着るという新しい市場を開拓しましたよね。

秋山:マリコムさんの考えって一貫していますよね。メイクには関心がなくてスキンケアの方が好きっていうところもそう。スキンケアはメイク以上に自己との対峙ですもんね。マリコムさんは自分自身に向き合うことにお金や時間をかけて、ブランドまで投入する。そう考えると、家の中でジュエリーをつけない私は見栄っ張り(笑)。

つや:『ユリイカ』の「交錯のアイデンティティ シャネルジュエリー試論」で、秋山さんがゲオルグ・ジンメルの「見る-見られる関係」について書かれていたじゃないですか。ジンメルの主張を「貴金属や宝石といった装身具は見る者に羨望を喚起し喜びを見出す。その喜びが反射し還流することで着用者の目的が果たされる」と要約されていて、つまり「自分のために装身具で身を飾るが、他者のためにそうすることによってのみ、自分のために身に着けることができる」ということだと。ある意味でそれもメイクに観察されるような関係性の話だと思うんです。結局、他者のためにしているのか自分のためにしているのか分からなくなる。

秋山:そこが渾然一体となっているわけですよね。

つや:そうです。で、メイクのトレンドというのもその両方を行ったり来たりしていますよね。モテメイクのようなものが流行ったかと思えば、自分のためのメイクという言説に揺り戻ったりする。

秋山:ジンメルは、本物か紛い物かを厳然と区別しているんですよね。他者からの羨望のまなざしを誘発することができるのは本物だけであり、安物では駄目だと。なぜそこに羨望が生まれるかというと、本物だからこそ社会の中で価値の共有ができているからで、その点はコスメとジュエリーの違う点だと思います。

つや:その点こそが、コスメがジュエリーやファッションのように高級品たり得ない理由の一つでもありますね。本物と紛い物の区別が他者に対してはっきりとしていないという。でも……コスメってそういった権威や制度といったものからある程度自由だからこそ私は好きなんですよ。しかも、スキンケアよりもメイクはさらに高級品になり得ないですよね。スキンケアはハイプレステージラインというのがあって、広告においても神々しいビジュアルやコピーが与えられる。

コム:パッケージの形状が違いますよね。メイクの方が棒状だったりスライド式だったり、バラエティに富んでいる。私、メイクボックスが面白いなと思うんです。直訳すると「化粧箱」ですが、他者に献上するために包む預かりもののような佇まいでありつつ、自分自身のプライベートでポエティックな世界でもあるじゃないですか。ジョゼフ・コーネルのアッサンブラージュもその代表的な例だと思うんですけど、つまり預かりものである一方で、自分の世界を構築するものでもある。

つや:近い話で言うと、近年、各ブランドが出すクリスマスコフレがめちゃくちゃ人気ですよね。あれも何というか……クリスマスという聖なるシーズンに奉納される献上物のような高貴さがありつつ、ボックスとしてのプライベートでポエティックな世界観がある。

コム:そう!あれって「おままごと感」が素敵ですよね。

秋山・つや:あぁ~!おままごと感ね!

コム:そもそもメイク品そのものに、おままごと感がありますよね。メイクポーチに手を入れて出す時に「ガチャガチャ」って音がするじゃないですか。あれがいいですよね。

つや:分かる!あの音ってなんであんなにわくわくするんだろう!

秋山:あの、いそいそした感じね!

つや:はぁ~……いいですよねぇ……。あの音って本当に好き。

コム:おままごとっていわゆるミメーシスのようなことだと思うんですけど、あれは何を模倣してるんでしょうね。あれがなぜやめられないのかというと、やはり「形」と「音」だと思う。うまく言えないけれど、夢中になるための完璧な条件が揃っている(笑)。

つや:最近ガチャガチャで色んなミニチュアの玩具が出てますけど、クリスマスコフレはああいった可愛さがおままごと的に全部揃ってますよね。なぜだか幸せなきもちになる。


物としてのメイクの魅力を探る


つや:もう一つ、最近のコスメは饒舌すぎる傾向にあるじゃないですか。特にメイクはお喋りです。例えば近年、若年層向けにリップやネイルを展開していたSHISEIDOピコというブランドがあって、商品には東京の一日を表現した「甘い余韻」や「路地裏に猫」、「皇居ラン」といった名称がつけられていました。その後リップモンスターの「午前五時」「誓いのルビー」といった情緒ネーミングが流行って、最近ではIPSAの「水ようかんリップ」といったものも出てきています。

コム:水ようかんは可愛い!私はiroasobiの商品が好きなんですが、あれも情緒ネーミングですね。#恋のピンチヒッター、#胸いっぱいの愛を、#ハートに火をつけて、#愛のように大胆に……等々。iroasobiは、粉質が良くて好きなんですよ。パールがすっごく綺麗。ありがちなイエベ/ブルべみたいな色づくりをしないんですよ。

つや:「ハートに火をつけて」って、「メイク魂に火をつけろ」のパロディなのかな?(笑)。そもそもあの90年代の資生堂ピエヌのコピー自体が情緒的ですよね。私が何を言いたかったかというと、情緒ネーミングによってメイクの「物」としての魅力がさらに引き出されてきているんだろうなと思って。ストーリーが付与されることで、何か意味のある物として捉えやすいじゃないですか。

コム:私は以前メイクには関心がないと言ったものの、最近友人が「自分のまわりに好きな物が増えると嬉しいじゃん?」って言っていて、ちょっと自分自身を反省したんですよ。そうか、メイクも増えたら嬉しいよねって思ったんです。

秋山:なるほど、物への愛着っていう視点は新鮮です。私はメイク品を消耗品としか考えていなかったので。学生時代のコンプレックスを引きずっているのかもしれない。当時、クラスでメイク品をたくさん持っていたのって、どちらかというとキラキラしていて目立つグループだったんです。私は面白さで勝負したい地味なタイプで、メイクすること自体に照れや引け目を感じていたから、メイク品も自分には縁のない眩しいものに見えていた。最近はそうでもないですけど、女性のお笑い芸人は女を捨てないといけないみたいな風潮が以前はあったじゃないですか。あれに近い感じというか。

つや:そのあたりの感覚は、メイクをその物自体として捉えるか、メイクを施した人として捉えるかで変わってきますね。

秋山:それで思い出したんですけど、シアタープロダクツが以前、コスメをかたどったジュエリーを出していて、それがすごく可愛いんですよ。リップの形のピアスとか、ファンデーションやサンスクリーンのサンプルをモチーフにしたピアスとかを作っていて。サンプルという形状に目をつけたのが面白いなと。おままごとの話ともつながりますよね。スキンケア製品だとこの発想は生まれない気がします。(と言って写真を見せる)

つや:えっ、これ可愛い!

コム:これは可愛いね!

つや:どんどん、物としてのメイクの可愛さが発見されますね(笑)。その観点だと、メイク品をお絵かき道具という側面で捉えてみることもできると思います。

秋山:絵を描くのと自分の顔にメイクを施すのって、自分を表現することには変わりないので全然違うことでもなさそうですね。

コム:そのテーマは、自分をどう見せていくか、ということが絡んでくるアーティストの方が面白く捉えられそうです。片山真理とかそうなのかな?

秋山:そうかもしれないですね。片山真理さんは義足のアーティストで、セルフポートレイトをよく撮られていますが、作品の中でもお化粧をしっかりして、義足にハイヒールを装着しています。そういう意味では、容姿をどう見せていくかと創作活動がかなり結びついている。でも比較的最近のインタビューで、身体にまつわるオブセッションから解放されたというようなことを語っていて、その後に撮影された肉体は、幽霊みたいに透き通った姿で描写されているのが象徴的です。

コム:私は以前、片山真理さんの作品をどうやって観たらいいか分からなかったんですよ。観るとなんとなく罪悪感を抱いてしまって、自意識に苛まれて鑑賞の仕方が分からなかった。でもその時に、秋山さんが書いた「装身具としての義足」というテーマの片山真理さんに関する文章を読んで、そういう観賞をすればよかったんだ、と気づいたんですね。自分の身体の外にあったものをつけてそれが自分の身体の一部になっていくという点では、装身具とメイクは似ていると思った。だから今回秋山さんをお呼びしたという背景もあるんです。例えるとしたら、私は装身具やメイクを、(画家の)アルチンボルドの作品に近いと捉えることで理解できたのかもしれない。あれって、果物や野菜が身体から生えているじゃないですか。

秋山:装身具は、それ自体では取っ替え引っ替えできて誰がつけてもよいはずなんですよね。だけど、片山真理さんの場合、ご本人に特化したものである義足を日常的に使っていることもあるせいか、作品に装身具が出てくる時も、ご自身の体の一部をかたどっていたりして、彼女がつけないと意味がない。そういう意味では、確かに自分の身体から「生えてくる」ものと捉えられる。それをメイクにも延長して考えるってことですね。

つや:メイクの中でも、アイシャドウとかアイライナーになると今多種多様な色が出ているので肌とは違う色を重ねることは普通にあると思うんですけど、一方でファンデーションやチーク、リップとなると一応自分の持っている色をどれだけ引き出すかという理屈で作られているので、そういう意味では自分の身体から生えている装身具という扱いで捉えやすいかもしれないですね。そう考えると、メイクの役割としては、やはり自分の持っている色や骨格を活かしながらいかにその良さを引き出して強調するかというのがあるんだと思う。

秋山:そうですね。

つや:メイクって、雑誌でもネットでもとにかく一番多くあがる悩みが「自分にとって正解のメイクが分からない」なんですよ。それはもう少し意味を開いていくと、「世の中で理想とされている美しさと、自分の顔の特徴を活かした美しさの、ちょうど良い交差点を知りたい」ということだと思う。でも他方では、近年メディアでメイクの仕上がり肌を紹介する際に使われるコピーを見ていると、相反する要素が頻繁に記述されているんですね。「ヌーディだけどきちんと感も」とか、「強い目ヂカラを発揮しながら柔らかい雰囲気を」とか、とにかく分裂した美しさが記述されるじゃないですか(笑)。最近トレンドの純欲メイクも、まさに「あどけなさ」と「大人っぽいツヤ感」を同居させる点では分裂していますよね。メイクのアイテムが増えて技術や工程もどんどん複雑化する中で、皆が目指す肌イメージがどんどんハイレベルになってきていると思う。それはそれで一つの正解としてあってもいいですが、息苦しくもある。何というか……メイクは、ある程度平等で開かれていてほしいという願望が自分の中にあるのかもしれない。

誰かの景観になること/コスメに「負ける」こと

つや:先日、その点についてミュージシャンのちゃんみなさんに訊いてみたんです。彼女は容姿への誹謗中傷についてトラウマのようになった経験があって、「美人」という曲でその苦悩を表現して話題になりましたよね。インタビューした際に「いわゆる世の中で美人とされているような容姿の人を見たときに、ちゃんみなさんは憧れたり“こうなりたいな”と思ったりすることは今でもありますか?」と問いかけてみたのですが、すると、「それは“私が好きな顔”であって、“私のタイプ”として捉えるようにしている。比べたり押し付けたりしなければ、好きな顔があるのはいいことですよね」とおっしゃっていた。「この顔は、みんなが好きなんじゃなくて私が好きなんだ」と信じるということです。自分はそれを聞いて、分かるんだけど、なんだか考え込んでしまった。

コム:メイク以上に、身体が不平等ですよね。だからこそ、メイクがその不平等をならすために存在していたら嫌だな。でも、結局のところ身体が不平等すぎてメイクでは均質化できないというか……。

つや:そうなんですよね。だから、やはりメイクは「物」としての話をしている時が結局は一番幸せなんですよね……。それを身に施すとなった時点で、身体や視線といった様々な面倒なことが出てくる。冒頭でもちらっと出ましたけど、人と会う時にメイクをする/しないということによる相手間とのコミュニケーションや価値観のせめぎあいというのもあるじゃないですか。きちんと身だしなみを整えることで相手への歓迎を示すという価値観がある一方で、それが相手にプレッシャーを与えることもあるという。

秋山:私がお仕事でお会いする方はしっかりとお化粧をされている方が多いので、私もやるんですけど、過去に一度メイクをし忘れて行ったことがあり、家を出てから気づいて「ギャー!」となりました。

コム:私は逆に、自分が気合い入れてメイクしたけど友達がすっぴんで来た時に「しまった、外した!」と思いますね。恥ずかしくて打ちのめされる。

つや:秋山さんと逆のパターンですね。

秋山:そこで恥ずかしいと思えるマリコムさんは優しいんだと思いますよ。メイクをすることでマウントを取りにいく人も少なからずいるわけだから。衣服にもそういう部分がありますよね。自分以外の視線の話で言うと、鷲田清一さんは、著書の『てつがくを着て、まちを歩こう』(筑摩書房)の中で「おしゃれは他人の視線をデコレートするもの」とおっしゃっています。それって、他者の目に映る風景としての自分をいかに意識するかということですよね。

コム:京都のコンビニが茶色い景観をしているのは、おしゃれだったんだな。

つや:自分の見た目を、景観の一部として捉えていくという。

コム:それは素敵な考え方かもしれないですね。だったらメイクを愛せそう。自分が景観になる、というのは夢がありますよ。上司に怒られて恋人に振られて最悪な今日という日があるとして、でもそれが誰かにとっては嬉しい誕生日である、みたいなことってよくあるじゃないですか。それと近いのかもしれない。絶望しているのがここだけで良かった、って思う。自分もあっちに行けば希望になれる。自分が誰かにとって景観の一部であるというのは、希望的なことですよ。

秋山:着物のコーディネートはまさにそういった面がありますよね。着物の図柄と帯の並び、帯どめで季節感を表現して一つの風景を作りあげていくという。

つや:誰かの景観として存在することは素晴らしいし、そのためにメイクすることもすばらしい。

コム:人とコスメの関係性って、もっとバリエーションがあるのかもしれないですね。さっきの「物」としてのメイクをいかに愛するかという話でも、関係性の話で言えば「メイク品の使い方が分からないしうまくいかない」という方がむしろ面白いんじゃないかな。メイクが失敗した時は「コスメがイキイキしていた日」と捉えればいい気がしてきた。コスメに負けた日だって(笑)。

つや:コスメに負けた!

秋山:その発想はなかった!それは、コスメ愛ゆえの結論かもしれない。

コム:コスメという「物」への愛ですよね。というのも、私はずっと腹が立っていることがあって。

つや:はい。どうぞ。

コム:金沢21世紀美術館でやっていたチェルフィッチュの『消しゴム山』という、金氏徹平の美術作品を舞台美術として扱う演劇があったんです。物質と身体というテーマなんですけど、東京に凱旋してきた時に劇場で観たんですね。もしかしたら美術館でやるべき内容を劇場に移したことがミスマッチだったのかもしれないですけど、とにかく苛々したんですよ。身体と物質との関係性というのを最後にどう描くのかなとすごく期待していたんですけど、関係が有機的には見えず、俳優が死んじゃったふうに見えてしまった。でも、あれは「美術に負けちゃった日」だったってことなのかもしれない。とにかく、それ以来、人と物との関係性というのをもう少し面白くできないのかなってずっと思っているんです。メイクで失敗するっていう考えは、一つの良案ですよ。

つや:だから、やっぱり「コスメは語りはじめた」ということなんですよね。コスメに負けるという関係性もあるんだと。それに近い考え方だと、私はそもそもメイクという行為って本来的に問題提起だと思うんです。それはスキンケアとメイクの商品がいかに生み出されているかを対比で考えたら分かりやすい。スキンケアは、基本的に全て起点は研究から始まっているわけですよね。肌研究によって新知見を見つけ、そのテクノロジーを搭載することでスキンケア商品というのは生まれていく。デパコスがそれをやり、プチプラコスメが模倣していくという構造です。ゆえに、どのブランドもメディアやジャーナリスト向けにはまずサイエンスを訴求していきます。他方でメイクはどこからスタートしているかというと、クリエイティブディレクター的な立ち位置のメイクアップアーティストがトレンドを読みながらプロダクトに反映していくところが起点になっている。つまり、根っこのスタートが全く違う。スキンケアは一つの答えがあるからこそそれを商品に投入し、でもサイエンスだけだとつまらないのでいかに神秘性を醸成していくかという神話生成のブランディングが行われる。メイクは、最初から答えがあるというよりは、「私はこれがイケてると思ってるけどどうでしょうか?」という問いかけから商品化が始まっていると思うんです。

秋山:メイクの「問いかけ」には正解がないということですか?

つや:トレンドは、トレンドになった時点で正解が分かると思う。最初にディレクターが発した時点では手探りだし、それが答えになるかは分からない。その点で、やはりメイクはモードファッションに近いところがありますね。問いかけなんですよ。そうなると使う人によっても答えが変わってきたりもするだろうし、だから語るのが難しいんだと思います。

秋山:それだけ自由にやって良いということですよね。

つや:私はメイクさんだとイガリシノブさんが好きなんですけど、彼女ってけっこう自由にメイクしている感じがするんですよ。弱点を克服するだけじゃなくてポジティブに変換してメイクしていて、なんだか元気が出ます。そこに伸び伸びした自由さを感じる。

コム:イガリさんは均一的な整った美を目指していないですよね。あと、何言っているか分からないじゃないですか。擬音が激しくて、「ぺぺっとするの!」とか言っててよく分からない(笑)。相手に言って伝わるかどうか分からないようなただの音みたいなものを連発していて、迫力がある。人を食うみたいにメイクしますよね。

つや:メイクさんのわがままが正解なんだよ、って言っているような気がするんですよね。

コム:手つきとか意外と適当に見える(笑)。もちろん、私の素人目にそう映っているだけかもしれないですけど。でも配色とか、思いもよらない方向にいくので面白いですよね。

つや:たくさん話して、希望がいくつか見えてきました。まとめると、「誰かの景観になるって素敵」「物として愛することでメイクとの関係性が変わる」「わがままなメイクでいいんだ」といったところでしょうか。つまり、今日私たちが得られた示唆は「もっとメイクを広く捉えようよ」ということなのかな。

コム:私たちは常日頃メイクを語る際に、顔のみに集中しすぎていたのかもしれないですね。極めて狭い話をしていた。

つや:メイクの話をしているようで、結局は顔の造作の話にすり替わっていることが往々にしてありますからね。それだと窮屈になる。

コム:自分のことばかり見るなよ、ってことなのかもしれない。

つや:本当にそうですね。メイクってもっと広く語れるはずなのに、誰もかれも自分の顔のことしか話していないから。がんじがらめになってしまっているメイクを、もっと解放していきたい。

秋山:今日はすごく勉強になりました。私にとって最大の収穫は、愛がカギになるってことかも。物に対しての愛情もそうだし、メイクをした自分が会う相手への愛情もそう。私もメイクに対する気持ちが変わりそうです。

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